運命の輪と聞けば、大概が悪い方に回ると思えるのだが。
 悲観しすぎだろうか?



 今朝は珍しく目覚めが悪く、馬超は慌てて登城した。
 呉からの客人がようやく帰る時期となり、最終となるだろう談合を行うこととなっていたのだ。
 そういう類は軍師や文官どもの仕事だろうなどと馬超は思うのだが、儀礼上主だった将は出席を余儀なくされて、ということは五虎将軍たる馬超の遅刻など許されるものではなかった。
 何とか間に合ったようだと安堵していると、趙雲が廊下の端でこちらを睨めつけているのが目に入った。
「遅い」
 珍しく苛立たしげな趙雲に、何を朝からと面食らう馬超だったが、ともかく時間がない。談合の間に呉の使節より先に入っていなければならない。
「用なら後に」
「後では間に合わん」
 趙雲は馬超の腕を取り、ひそりと囁いた。
「何があっても、軽率な振る舞いはするな」
 突然の言葉に、何の話だと問いかけても趙雲は首を振るばかりで答えようとはしない。辺りをはばかる話か、と二人の周りを右往左往して直前の準備に駆け回る文官たちに目を向ける。
 趙雲はそのまま扉の奥に消えた。
 何があるというのだ。
 馬超は首を傾げつつ、趙雲の後を追った。

 話はやはり、文官を中心としたものとなり、将達は体のいいお飾りとなっていた。関羽などはまだ厳しく議事を見守っているが、張飛などは半ばうつらうつらと舟を漕いでいる。
 と言って、退屈なのは呉の跡継ぎも似たようなものらしく、頭の後ろで腕組みして、ぼんやりと室内を見回している。
 高々と結い上げた髪はともかく、女が好んでつけるような桃色の髪紐が妙に気に障る。先日合間見えた時には、確か濃い赤のものを使っていたと思ったのだが、何本か持ち歩いてでもいるということなのだろうか。男の癖に、何とも着飾って見せることよ、と馬超は内心孫策を蔑んでいた。
 議事も何とかまとまりを見せ、ようやく解放されるかと馬超が安堵した瞬間、おもむろに孫策が立ち上がった。
「いっこ、頼みてぇことがあんだけどよ」
 諸葛亮と最後の確認を取っていた魯粛が、ぎょっとして振り返ったのを見ると、これは予定していたことではあるまい。
 何事かと一同が孫策に視線を向ける。慣れているのか気にしない性質なのか、孫策は諸葛亮にひたと目線を合わせ、言葉を続ける。
「女を一人、もらって帰りてぇ。構わねぇか」
 突然の申し出とその内容に、場はざわめいた。張飛などは、まさか、と歯を剥いて唸っている。張飛には自慢の美しい娘がいるので、心配するのも致し方ない。
 諸葛亮一人、動揺もせずに泰然自若の態で優雅に白扇を扇いでいる。
「……その女というのは、いったい? どこぞで見初められましたか」
 まずは説明を、と促すのはさすがに諸葛亮である。馬超は、恥知らずな申し出をする孫策に、呉も長いことはあるまいな、と不遜なことを考えていた。他人事からなる冷静さの賜物だ。
 ところが、続けて発せられた孫策の言葉に、馬超は天地がひっくり返るような衝撃を受けることとなる。
って女だ。尚香のとこで会った。どうしても、もらって帰りてぇ」
「なっ!」
 椅子を蹴って立ち上がる馬超に、諸葛亮が冷たい視線を送って遣した。隣席の趙雲が、舌打ちせんばかりの苦い顔をして馬超の肩を掴む。
 後ろに控えていた馬岱が、何事もなかったかのように馬超の椅子を直し、馬超を腰掛けさせた。
 内心の動揺を抑えて孫策に目を遣ると、孫策は何か面白い物を見つけたような顔でこちらを見ている。先程までの侮蔑の感情が上乗せされて、馬超はイライラと歯軋りした。
 劉備が困ったように趙雲に視線を送る。趙雲は、顔を伏せがちにしつつも、劉備に微笑み返し、首を横に振った。
「……殿ですか……あの女性は、我が国にとっても少々特別な方でして……他の女性であれば、我々としても他ならぬ呉のご嫡男の申されること、何とでもいたしましょうが……しかし」
 腹に一物秘めているのを、殊更にあからさまにする諸葛亮の為しように、馬超は腸が煮えくり返る思いだ。趙雲と馬岱の冷たい視線の牽制がなければ、飛び掛ってしまいかねない。
「蜀の女じゃないってぇ話は、もう聞いた。細かい話は知らねぇ、けど、駄目ってわけじゃねぇよな?」
 さて、困りましたねと言いつつ、諸葛亮は魯粛に目を向けた。魯粛もまた事情がさっぱり分かっていない。諸葛亮に視線を向けられても、何とも答えようがない。滝のように汗を流し、孫策に無言で訴えるが、孫策は何処吹く風で飄々と笑っていた。
「ま、いいか。とりあえず、俺がそうしてぇって話だ。言うだけ言っておくぜ」
 すとん、と腰を下ろし、また後ろ手に腕を組んで、椅子を傾げてゆらゆらと揺らしている。
 何とも小生意気な態度に、馬超はキレる寸前だった。
 元々、呉から嫁という名の人質を差し出しての同盟の申し込み。蜀にとっては有難くはあったが、舐められる由縁など何一つない物を、このような無礼を何故諸葛亮初めの文官どもは非難しないのかと、血反吐を吐く思いであった。
 実際のところは、何か切っ掛けさえあれば孫策に踊りかからんばかりの馬超の剣幕に圧され、ともかくここはなあなあで流しておこうという無言の団結が二国の文官の間で生まれたからなのだが、怒り狂っている馬超に察しろというのは酷な話だ。
 諸葛亮が『まあそのお話は後程』と流し、他の文官達も同調し、慌てて同盟の議を整えるのを先決させた。
 おざなりに調印が済み、散会が告げられる。魯粛や呉の文官が、孫策をさっさと連れ出そうとするのを孫策自身が振り払い、すたすたと馬超に歩み寄る。
 場に緊張が生まれた。
「お前が、もう一人の男か」
 何のことかは分からない。分からないながらに反感を煽られ、射殺せんばかりの殺気を篭めて孫策を見上げる馬超を、孫策は面白そうに見下ろす。
は、俺がもらうぜ」
 びしり、と馬超のこめかみに血管が浮き上がるのに、孫策は腹を抱えて笑い出しそうな勢いだ。
 不意に、にやついた顔がくるりと真面目なものに変化した。
「止められるもんなら、止めてみせな」
 そのまま踵を返して退室する孫策を、呉の文官達が慌てて追いかける。
 魯粛一人が居残り、尽きぬ汗を拭っては平身低頭に頭を下げる。
「ま、誠にもって……その、孫策様のご無礼を、お許しいただきたい」
 劉備はただ困惑し、諸葛亮を見上げる。
「孔明、これはいったい如何いうことなのだ」
 諸葛亮は劉備に安堵させるように微笑みかけ、魯粛に労いの言葉をかけた。
「とは言え、先程も申したとおり、殿は少々……特別なのですよ。孫策様には、今少しご猶予を賜りたいものですが」
「ええ、いや、それはもう……いやしかし、その殿と仰るのは、何方かの御血筋に当たられる方なのですか?」
 頭を振る諸葛亮に、魯粛は顔に疑問を露にする。
 孫策の尚香のところで会った、という言葉を信じれば、それなりの身分の娘と解釈してもそれはそれで当たり前なのだ。
 魯粛が知らない、ということは呉の文官達もまた何も知るまい。
 諸葛亮は見当をつけ、いずれ本人に会わせると口約束し、魯粛を退室させた。
 そうして呉の人間が誰もいなくなると、視線は自然に馬超に集中する。
 不躾な視線にも気がつかないのか、馬超は口を歪ませ、怒りの表情を露にしていた。近くにいる者には、その拳が膝に縫い付けられたように強張り、震えているのが見て取れただろう。
「……如何いうことなのだ、子龍」
 敢えて説明を求める劉備に、趙雲は物憂げに微笑んだ。
「私事からお騒がせして申し訳ありません、殿」
 それはいい、と説明を促す劉備に、進退窮まったように趙雲は浅く息を吐き、改めて劉備に向き直った。
「……私と、馬将軍で殿の方寸を争っております……無論、職務に差しさわりのなきよう、私も馬将軍も心得てはおりますが」
 ざわ、とその場がざわめいた。反応は人様々だ。関羽は興味なさげに目を閉じているし、星彩は表情を面に出すことなくじっと趙雲を見つめている。関平は顔を赤らめておたついて、ホウ統は温和ににこにこと笑っている。趙雲はぐるりとその場を見回し、俯いた。
「孫策殿が何処で殿を見初めたのかは、私も存知おりませんが……殿は目立ちます故」
「それは、たぶん私のせいだろう。尚香殿に、私が話して聞かせたことがあった。殿が描いた私の絵姿を見て、尚香は酷く感心をしていたから……それを覚えていたのだろうな」
 劉備が申し訳なさそうに頭を下げるが、趙雲は実際を知っているので、黙って頭を下げ返すのみだった。
「昨日、尚香様のお言いつけで殿を迎えに行きましたが……何かあったらしく、相談を受けようと昨夜殿の屋敷に向かいました所、どうもそのような話が……」
 再び座がざわめき出した。諸葛亮がそれを制し、趙雲に向き直る。
「そのような僅かな間で……ですか。孫策殿にも、困ったものですね」
 遠回しな嫌味に聞こえるのは、諸葛亮が大方の事情を察しているからだと思う証かもしれない。何に付け、この蜀で諸葛亮の目を欺くなど至難の業なのだ。
殿のお気持ちは」
 途端、馬超が顔を上げ趙雲を睨みつける。趙雲は軽く流して、軍師に答えて言った。
「いえ、行きたくないと仰っておられました。ですが、蜀と呉の同盟のことを伝え聞いていたらしく、ひどく気にされておられました」
 そうでしょうね、と諸葛亮は気忙しげに白扇を扇いだ。
「……出立までは、今しばらく時間がありましょう……少し、様子を見るといたしましょうか」
 諸葛亮が劉備に問いかけると、劉備は趙雲と馬超二人を痛々しげに見つめ、小さくそうだな、と呟いた。
「皆様にも、くれぐれも短慮のなきよう」
 その言葉が、ただ一人、馬超に向けて放たれたのだと、その場の皆が理解していた。

 場が散会し、馬超は早足で室を出た。趙雲は、その後をゆっくりと追う。趙雲の隣に馬岱が並び、上目遣いに趙雲を伺う。
 何か知っておられるでしょう、とそういう視線だった。
 趙雲は苦笑を禁じえず、後程屋敷に立ち寄る旨を馬岱と約した。
 その間にも、馬超はずんずんと進んでいく。そちらには厩があるはずだ。仕事をほっぽり出して行くつもりかと、趙雲は内心呆れていた。
 だが、それこそ趙雲が馬超に対して感じる引け目であり、唯一羨ましく思える強さであった。
「酷いことを、しないといいのですが」
 馬岱が心配げに小さくなる馬超の後姿を見つめる。
 どちらがするのだろう、と趙雲はぼんやり考えた。
 少しくらい、惨い目に遭った方が良い。
 趙雲は馬岱に別れを告げ、己の執務室に向かった。仕事が山のようにあるのだ。

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