想う心が力になる。
想う心が刃になる。
体の熱が引くよりも早く、の心は萎れていた。
趙雲を選ぼう、と決めた。
一番先に出会い、一番先に触れた男だ。当然の選択だと思った。なのに、何故か胸が痛んで気が晴れなかった。
馬超が気に掛かるということも、もちろんある。見た目の虚勢とは裏腹に脆い、人に見せない影を持つ馬超がの選択を知ればどれだけ傷つくだろう。
は首を振り、脳裏に映る馬超の面影を振り払った。
馬車が揺れる。
何となく、理由が分かっている。
選ぶ、という言葉だ。決める、とか、選択とか、果たしてそんなものなのだろうか。
恋をするのに、誰かを思うのに、そんな言葉が必要だということに、違和感があって仕方ない。
心の底から湧き上がるような、震えるような気持ちが、恋と言うのではないだろうか。
本当に、趙雲が好きなのか。
好きだと思ったこともある。自分の世界で、これがきっと恋なんだ、と浮かれていたのがもう懐かしい。
趙雲の他にも自分を好きな人がいて、たったそれだけのことで揺れてしまう自分が情けなかった。
本当に好きなら、迷うことなく趙雲だけを見つめていられるはずではないだろうか。
こんなことで、本当にいいんだろうか。
また、馬車が揺れる。
趙雲とは、既に情を交わしている。それが普通の男女の交わりとは違ったとしても、肌を合わせたのは事実だ。
肌を合わせたら、その人を好きにならなければならないのか。
ああ、駄目だ。
すぐに理屈っぽい考えになってしまう自分が嫌になる。は溜息を吐いた。
女として趙雲を受け止めれば、何か変わるだろうか。誰も目に入らなくなって、趙雲だけを見つめられるようになるだろうか。
だから、駄目だって。
は両の頬をばしばしと叩いた。
とにかく、趙雲を選んだのだ。もう考えるのはやめよう。身を清めて、酒の用意をして、しおらしく趙雲を待つのだ。
そしては、警備の兵へ趙雲の来訪を告げるという大仕事があったのを思い出して青ざめた。
何から何まで死ぬほど恥ずかしかった。
馬車から降りる前に、送ってくれた趙雲の私兵という人に『他の警備兵に趙雲が来るから通すように言ってもらえないか』と切り出すと、門外を守るのは諸葛亮及び姜維の配下の者なので、直接言ってもらいたいと断られた。では仕方ないと門外の警備兵に『趙雲が来るから通してもらえないか』と言うと、自分達では対応しかねるから隊長に言ってくれと言われた。
渋々と隊長という人の元へ出向き、同じように伝えると『何時ごろでしょうか』と生真面目に問われた。交代の時間にかかってはまずいのだということも分かるので、下手に怒れない。夜遅く、と口篭りながら申し出ると、ようやく察したのか赤面して言葉を失う。了承の言葉をもらえるまで、は周囲の冷やかしの目に耐えなければならなかった。
ようやく辱めの視線から逃れ、屋敷に戻り、春花に『趙雲が来るから酒肴を用意してもらえないか』と言うと、飛び上がって喜んだ。春花は趙雲が好きなのだ。男女のそれとは違うようだったが。
身を清めるので湯浴みの用意をしてもらえるかと頼むと、今度は顔を真っ赤にして頷いた。どうもこの世界の子供はませているのか、きちんとすべてを察してしまったらしい。
春花は、酒肴は台所の通いの賄に頼み、特に極上のものを用意させると鼻息を荒くして駆け出していった。
しばらくして、いつものように湯が運ばれてきた。男達が湯の準備を済ませて去ると、いつ戻ったのか春花がにこにこしながら懐から小瓶を取り出した。
湯に、何滴か垂らす。甘い香りが広がった。
何だろうと思って見ていると、春花が小瓶をの手にねじ込んできた。
「香油です。母さんが調合したもので、殿方を蕩かせる香りがするのですって!」
おおい。
は、春花の興奮した顔に気が遠くなりかけた。
春花の母は、香草や薬草を調合する名人だそうだ。趙雲が通ってこないことを心配した春花が、思い余って母親に相談したところ、せめてもとこの香油を仕立ててくれたものらしい。
何時かお渡ししようと思っておりました、と嬉し涙にくれる春花に、は怒る気も失せて牀に転がった。
湯浴みを済ますと、春花が体に香油を摩りこんでくれると言って聞かない。体に油を塗るなんて、ぞっとしない、と思ったのだが、春花の熱心さに根負けして任せることにした。
耳の後ろから首筋、果ては乳房から腋の下まで隈なく塗りこまれる。自分の手が届くところは自分で、と申し出たのだが、春花は頑として譲らなかった。
「他人が塗るのが、よく効くのだそうです」
何となく、男が女に塗って前戯代わりにするんじゃないかと思ったのだが、さすがに言えなかった。
甘くむせ返るような匂いに包まれ、は息苦しさを覚える。春花がやたら熱心に塗り篭めてくれるので、段々と皮膚が過敏になってしまっているようだ。
項の際に触れられた瞬間、ひぁん、と頓狂な声を立ててしまい、思わず口を塞いだ。
春花は、少し赤くなりながら満足そうに頷く。
「これをつけさえすれば、殿方が夢中になること間違いないそうです! さま、今宵が勝負ですよ! 気を入れて将軍をお待ち下さいませ!」
春花は仕上げに、との唇に紅を落とした。紅からも甘い匂いがする。
寝巻きは、パジャマではなく白絹のすべらかな寝着が用意された。
何もここまで、と思うのだが、春花は何事も初めが肝心と、分かったような分からないようなことを言って下がった。
下がる間際に、ご武運を、と力強く言われ、武運関係あるのか、と思いつつ、勢いに呑まれて呆然と頷いた。
春花が帰れば、後は誰も残らない。酒肴は続きの間に用意してもらったし、趙雲が来るまでにすることはない。
戸締りを確認し、趙雲が来るだろう庭先の窓だけ、細く開けておいた。
牀の端に腰掛け、所在無く趙雲を待つ。
体が固くなっているのが分かった。緊張している。やることは分かっているのだが、ときめきというよりは恐怖に近い感情がを脅かしていた。
ちゃんとできるだろうか。やっぱり後ろでするのとは違うのだろうか。後ろのときはとても痛かった、いや、痛いなんてものじゃなかった。熱が出たし。あんなに痛かったらどうしよう。
痛いのだとも聞くし、痛くないとも聞く。痛くないといい。子龍ならきっとうまく遣ってくれるだろうが、だが、時々自制を失くして酷いことをすることもある。わざとしているんじゃないかと思うこともある。でも、初めてなんだから、たぶん優しくしてくれると思う。優しくしてと言った方がいいだろうか。そんなAVな。言ったら、余計に酷いことをしてくるかもしれない。趙雲はとにかく、考えていることがよく分からないから。
ふと見上げると、明り取りの窓が開いている。
あそこから孫策が忍び込んできたのだ。
思い出し、どきっとした。
何かしておいた方がいいかもしれない。
は、牀のそばに置かれた小さな丸い卓を引っ張って壁につけ、椅子を階段代わりにして乗った。手には、薄桃色のリボンが握られている。こちらに来る時に持ち込んだ、男物のパジャマを包装していたリボンだ。
釘でも打ち付けたほうがいい気がするが、何処にあるか分からない上に人に封印の理由を話すことが出来ない。
窓枠を封じるリボンは容易く解けるだろう。けれど、封じることでの答えは充分伝わるはずだ。
私、あの男が来ると思っている?
ふと気がついて、は思わず息を飲んだ。
リボンを結ぶ手が惑う。どうしようかと悩んだ。
思いあぐねて、結局リボンを結んだ。
結ぶという行為は、呪術に関係するのだと聞いたことがある。ならば、これは誓いだ。もう、決して心を揺らすまいと誓う戒めだ。
嫌いではなかった。好ましいと思うこともないではない。
正直に言えば、はどうも率直に自分をぶつけてくる男に弱い。
趙雲然り、馬超然り。
……考えないようにしよう。今宵は、ただ、趙雲のことだけを考えていなければ。
降りようとして、丸い卓がくわんと揺れた。端に乗ってしまったことにより、卓の重心を崩してしまったのだろう、危ない、と思った瞬間、足元の支えがなくなっていた。
衝撃はなかった。
が恐る恐る目を開けると、自分の窮地を救ってくれた英雄の顔を間近に見ることになる。
「白風」
孫策だった。
「ど、どうして」
複雑そうな顔をして自分を覗き込む孫策に、は問うことしか出来ない。
「いつから? 何でここに」
「……お前が帰る、ちっと前から。潜り込んだらお前とあの娘が入ってきちまって、出るに出られなかったからずっと隠れてた」
尚香の部屋を飛び出してずっと、を探していたというのか。見つからないのに諦めず、屋敷にまで来てしまった孫策の執念に、は呆れるような感動じみた衝動を堪えた。
が帰ってからずっと、ということは、湯浴みも香油を摩りこむ所も見られていたのだろうか。それ以前に、春花との会話をすべて聞かれてしまっていたとしたら、必死にを探していただろう孫策は、どんな思いでそれを聞いていたのだろうか。
問う言葉が止まった。これ以上訊けば、孫策を傷つけかねない。手遅れかもしれないが。
「……趙雲て、あの尚香付きになった奴だろ」
ぼそり、と孫策が呟いた。
は知らない。他人の仕事の内容を訊くのは、なんとなく憚られたからだ。孫策がそうだというなら、そうなのだろう。どおりで忙しいはずだ。
「俺が、お前を連れてくって言ったから、今日なのか?」
孫策の、を抱く手に力が篭る。そのまま大股に歩き出した孫策は、すぐそばの牀の上にの体を投げ下ろした。体が弾んで、バランスを取ろうとした瞬間に孫策が飛び乗ってきたもので、孫策に抱きつく形になってしまった。
「なぁ、そうなのか?」
押し倒す力に、抗うことすら許されない。背が敷布に沈み込み、胸の間に手をつかれて息が詰まる。
孫策の指が唇に触れ、撫でる。
朱に染まった指を、孫策は舌で舐め上げた。
「甘ぇ、な」
孫策の無邪気な表情がすとんと落ち、男の征服欲に満ちた表情に取って代わる。臓腑の底から込み上げる恐怖が、の身の内を冷え冷えと凍えさせた。
「……っ!」
悲鳴が音にならない。大声さえ上げてしまえば、門外を守る警備兵が駆けつけてきてくれるはずだ。それなのに、喉に何かが詰まってしまって声が出せない。
孫策の舌が、耳に突き込まれる。いつもであれば弱いそこも、痺れたようになって、ただ濡れた何かが這いずっている感触を伝えて遣すだけだった。
焦れたのか、それとも香油の秘めた効力が影響するのか、孫策の息のみが熱く弾み、さながら肉食獣が草食動物を捕食して貪っているような有様になった。
の寝着は容易く乱され、下着もつけていなかった為に直に柔肌が露にされていく。
胸の突起が固く勃ち上がっているのに、孫策が歯を立てる。痛みに仰け反ると、はようやく我に返ることが出来た。こんなことではいけない、と微弱ながら抵抗をする。
孫策が、苛立たしげにの手を取った。の頭上に縫い付けると、捻れた二の腕が卑猥な弧を描き、孫策を煽った。
「……駄目、お願いだからやめて……今日は」
趙雲のことだけを考えていようと決めた日に、趙雲に溺れるはずの牀で、孫策に陵辱されているというギャップには傷つき涙を落とした。
「やだね。来ねぇじゃねぇか。もう、来ねぇよ」
顔を上げる僅かの間も惜しいと、の胸の谷間に舌を這わせつつ、孫策は閉じられた腿を抉じ開け、の秘部に指を這わせた。
「……柔らけぇ」
熱に浮かされたような孫策の声が示すとおり、の秘部は潤い、孫策の指を飲み込むような勢いで沈む。熱い粘液が指に絡み、の皮膚からは甘い香りが立ち上って孫策を惑わせる。
悪戯めいた指がの秘部を苛み、何時までも動きを止めることはなかった。
「凄ぇ、濡れてる。気持ち良く、ねぇ?」
の声が漏れないことに、孫策は不安に駆られていた。体は熟れているのに、何処か一点がずっと孫策を拒み続けている。不満だった。
抱くからには、身も心も、すべてを手に入れたい。取りこぼしなど欠片も許したくない。
「俺は、孫家の嫡男なんだぜ……」
意図せずぽつりと零れた言葉に、は孫策が驚くほど過敏に反応した。
「……同……盟、を……?」
同盟の言葉に、孫策の眉が寄る。孫策は、ただの孫伯符としてを求めている。呉、蜀の都合や威光など、何の関係もない。
は勝手に勘違いし、思い悩み、紅く染めた唇を噛んでいる。
「違ぇ、関係ねぇ、俺はただ、お前が欲しいだけだ」
焦燥が孫策を苛む。要らぬことを言った。大丈夫だ、お前を守る、守るだけの力が俺にはあると伝えたかっただけなのに、は、孫策が同盟を嵩に脅しをかけていると受け止めてしまった。
固く強張った体を何とかして解し、その奥に秘められた心を取り込もうと、孫策は必死になった。
の目が揺れ、敷布に落ちた。同時に体の力も抜ける。
「違ぇ、違ぇって……、俺は、お前が」
背中に手を回し、ぎゅうぎゅうと抱き締めてくる。孫策の奥歯がみしりと鳴ったのが、にも聞こえた。
どうしてこんなに、みっともなくなれるのか、まったくわからない。
大喬という美しい最愛の妻がいて、これ以上何が欲しいというのか。
「……、一緒に……な?」
唇を舐め取られて、は目を閉じた。
「好きだ、お前が、凄ぇ好きだ」
うわ言のように囁く孫策の言葉に、の喉から微かに嬌声が漏れた。
孫策の顔に、鮮やかな笑みが浮かぶ。立て続けに好きだと囁き、力が抜けて重いだけになった足を、何の気なしにひょいと広げた。
「挿れるぜ……?」
宣告すると同時に固く屹立したものを押し当てると、の体がびくんと撥ねた。
受け入れる女の反応と、さして気にもせず腰を進めた孫策が、微かな違和感を覚えて動きを止めた。
「……っ、いた……痛い……!」
引き攣った体、の額に脂汗が浮かぶ様に、何か奇妙な心持になる。少しだけ、用心しながら腰を進めると、が小さな悲鳴を上げて仰け反った。眦から涙が零れている。
滴るほど充分に濡れているから、潤いがなくて痛むということではないだろう。
ということは、どういうことなのか。
孫策は慌てて自身を引き抜いた。暗くてよく見えなかったが、敷布で濡れた肉棒を拭うと、薄汚れた染みが後に残った。
「……マジかよ」
慌てての顔を覗き込むと、手で顔を覆って声もなく泣いていた。震える肩が痛々しい。
「……、初めて、だったのか?」
反応はないが、そうとしか考えられない。
孫策は、己の所業を振り返って一気に青ざめた。
「悪ぃ、悪かった、俺が悪かったから……もう泣くなって……んなに、痛かったのか? なぁって……」
懸命に声を掛けるのだが、の泣き声は徐々に大きくなり、流す涙の量もどんどん増えるばかりだった。
孫策はの扱いに困り、仕方なく膝の上に抱き上げ、子供をあやすようにあやした。
「んなに、泣くなよ……」
泣かせたくないと思って抱き締めたつもりが、自分が泣かせる羽目に陥ってしまい、孫策の困惑は深まった。
「……ちゃんと嫁さんいるのに、何で私にちょっかいかけてくるのよぉ……」
泣きながらではあったが、がようやく口を聞いてくれたことに孫策は喜び、直後に口をへの字に曲げた。
「大喬は関係ねぇじゃねぇか」
「関係、なくはないでしょうよ!」
噛み付くようなの言葉に、孫策はますます混乱した。
「関係なくはねぇかもしれねぇけどよ、今は関係ねぇだろ」
「だから関係なくないでしょうよ!」
意味わかんねぇ、と孫策は胡坐をかいた。
は、自分が裸に剥かれていることにようやく気が付き、慌てて寝着を引き寄せた。
「もう、帰ってよ、子龍が来たら、どーすんのよ」
「来たらって、お前、その格好じゃ何もできねーだろ」
散々舐めてやったし、痕もつけたからな、と何故か威張って胸を張る孫策に、はそうじゃねぇだろこの馬鹿が、とキレて手近にあった孫策の肩当や上着を投げつけた。
「ば、おい、やめろよ」
「いっぺん、死んでこぉ――――――いっ!!!!!」
投げつけるものはすぐに品切れになってしまい、八つ当たるものがなくなったは、身を突っ伏して号泣した。
孫策は慌てて駆け寄り、何とかしての機嫌を取ろうとするのだが、は腕を振り回し孫策が触れることも許そうとしない。
そうこうしていると、庭先から複数人が駆けつけてくる足音が聞こえてきた。の怒鳴り声を聞きつけたらしい。
も孫策もはっとして身を固くした。
何と言い訳しよう、とが混乱する頭のまま急ぎ身仕度して扉に駆け寄ると、足音が止まった。
「趙将軍、如何なさいましたか」
趙?
の体が強張る。
外から、耳慣れた、落ち着いた声音が聞こえてきた。
「なんでもない、私が少し殿を怒らせてしまっただけだ……これからご機嫌伺いをせねばならぬから、外の警備を引き続き頼みたい」
趙雲の声だ。
くすくす、と小さくざわめくような笑い声が響き、やがて兵士達が引き上げていく足音がした。
どういうことだ。
が呆然と立ちすくんでいると、外からやはり穏やかな声がかかる。
「、もういいか」
いい加減私も待ちくたびれた、と欠伸交じりに言われ、は足元が崩れてなくなるような喪失感を感じていた。