何にも報われない。
 それが当たり前。



 愚かなことをしようとしている。
 自覚はあった。
 だが、どうしようもなかった。
 体が勝手に動き、足を前へと進ませる。
 肉体の昂ぶりとは逆に、頭の中は至極冷静だった。
 不思議だった。
 呉の文官が、自分に気がつき拱手の礼を取る。応えて、さらに進むと、慌てて追ってきた。
「お待ち下さい、馬超殿」
 そのまま歩を進ませる。文官の声が、焦燥に駆られるのが分かる。
「聞こえておられぬのですか、馬超殿! お待ち下さい、それ以上は!」
 何だというのだ。
 声と喧騒が大きくなる。扉の前で衛兵どもが、槍を交差させて行く手を阻む。振り払うと、殺気が漲った。
「何の騒ぎだ」
 扉の奥から、あの男が現れた。
 こちらを見て、一瞬驚き、にやりと笑って遣した。
「何だ、お前かよ」
 手にした槍を奴に向けると、周囲がどよめく。
「……一手、お相手願いたい」
 奴の笑みが深くなる。
「成る程な、そう来るかよ」
 腰に下げたトンファーをすらりと抜き取り、手元でくるりと回す。その仕草が癪に障る。
「面白ぇ、相手になるぜ」
 周囲の喧騒が、一層大きくなる。
 だが、俺の目には、不適に笑う奴の姿しか目に入らなかった。

 門の外が騒がしい。
 は、洗濯する手を休めて外の方を伺った。
 馬岱の声のような気がするが、馬岱が喚くなんてことがあるのだろうか。
 濡れた手を拭いながら、裏庭から表門の方へてくてくと歩いていくと、春花がこちらに駆けて来るのが見えた。
さま、ば、馬岱様が!」
 やはり馬岱だったのか。しかし、今頃何の用だろう。出仕して職務に励んでいるか、家の細々とした用事を片していなければならない時間のはずだ。
 春花に引っ張られながらが表門に辿りつくと、馬岱が囲いを破っての体を馬上に引き摺り上げた。
「責めはこの馬岱が負う! 左様、諸葛亮殿にはお伝え願いたい!」
 言うなり馬首を返して馬を駆けさせる。
 事情がまったく見えないまま、は質問することも叶わず(馬が大層激しく駆けるので、下手に口を開けると舌を噛みかねなかった)連れ去られた。
 馬岱が馬を止めると同時に、もまた引き摺り下ろされた。足が着くより早く、馬岱の肩に担ぎ上げられ、そのまま運ばれる。
 鎧をつけて、更にを担いでこれだけの速さを維持できる体力に驚愕する。
 しかし、何事なのだろうか。有無を言わさぬ威圧に、未だ何も聞けずにいる。
 城の中でも行ったことのない方に向かっているようだ。薄暗い廊下を幾つも抜け、突然光の下に抜けた。塀に囲まれ、一見中庭のようにも見えるが、石畳がずっと続いているので、庭というのともまた違うようだ。
 きぃん、と甲高い音がする。
 ぞくっとするその音に、慌てて身を仰け反らせて背後を見ると、見慣れた男二人が対峙しているように見える。
 見えるんじゃなくて、対峙しているんだ。
 ざっと青ざめた。
「な、な、な、何」
「何をしているように見えますか」
 馬岱の息も僅かに弾んでいる。血相変えて飛び込んできたのはこのせいか。
 馬超も孫策も、真面目な顔をしている。本気で相手を倒そうとしているのが、ただの素人のにも分かる。
 圧倒される。
 試合などではない、殺しあっているのだ。
「ど、どうして……何で止めないんですか」
 がよろけるように前に踏み出すと、馬岱の腕がを呆気なく引き戻す。
「ちょ、何で」
「周りをよく御覧なさい」
 言われて、辺りを見回す。
 蜀の主だった武将の殆どが集まっている。呉の、恐らく武将なのだろう、豪華な鎧を纏った将が何人か、やはり二人の戦いを見守っている。劉備も、尚香と並んで見ている。尚香がこちらに気がつき、手を振って遣した。振り返す気力はとてもない。
 人々の表情は様々だ。
 黄忠はさも楽しげに笑っているし、張飛は勢い良く馬超に声援を送っている。姜維は困惑したまま黙っているし、諸葛亮と月英は連れ添って穏やかに微笑んでいる。呉の文官と思しき男が、汗をだらだら流して、祈るように胸のところを押さえている。兵士達が、それぞれの陣営の応援をしている。
「な、何してるの、みんな」
 まるでお祭り騒ぎだ。
「面白がってるんですよ、まあ大体の者が。後は心配するとか卒倒するとかしてますがね」
 そっとぉ、と思わず呟くと、馬岱がはい、と返す。
「わ、私は何でまたここに連れてこられたんでしょう」
 止めろと言うことだと思ったのだが、馬岱にはその気はないらしく、血相変えていた顔は落ち着いていつもの温和な顔に戻っていた。
「いや、殿に是非見せて差し上げたくて。なかなか見られないでしょう、こんな死合い」
 試合、と聞き返すと、死合いです、と返ってくる。
 絶対字が違うでしょう。字が違うってことは、意味も変わってくるでしょう。
 うごぉ、とは自分でも訳の分からない呻き声を上げた。
 駆け出そうとするのをがっちり止められて、がばたばたと暴れる。
「ちょっ、もう、止めないで下さいよぉ!」
殿こそ、いったい何をするつもりなんです、危ないではありませんか」
 何をすると訊いてくる馬岱の神経が分からない。二人の戦いを止める、それ以外に何があろうか。
「私が従兄上に怒られます。今飛び出して行っても、槍で突き殺されるかトンファーで殴り殺されるかでしょう。大人しく見学なさって下さい」
 馬岱は何でこんなに冷静なのだ。馬岱だけではない、ここにいる全員が、皆面白半分か全開で面白がっているかだ。同盟の話はいったいどうなるのか。
「だ、だって私の為にこんなこと……」
「は?」
 は?
 素っ頓狂な馬岱の声に、も思わず動きを止めた。
「誰が、殿の為に……何ですか?」
「……え……と……」
 猛烈に恥ずかしくなる。
 二人の男が、自分の為に命をかけて争う。耳には聞き覚えいいが、単なる思い込みだとしたら自惚れも甚だしい。
 顔が赤くなって、しどろもどろになる。馬岱の優しい微笑みも、今は恥ずかしさをアップさせるだけだ。
「いや……えと、あの……じゃあ、何で、あの二人……」
「楽しんでいるんですよ。よく見て御覧なさい」
 ほら、と促されてよくよく目を凝らせば、顔は至極真面目なものの、口元に僅かに笑みが浮かび、眼はきらきらと輝いている。
「お」
 腹の底から吐き出すような呻き声が出た。
「……じゃ、じゃあ何で馬岱殿は……あんなに慌てて……」
「それはもちろん、終わる前にお連れせねばと思ったまでで。早々決着は着きますまいが、誰ぞが止めに入らぬとも限りませんし……まぁ、劉備殿と尚香殿がいらしているということは、公認されたのでしょうな。堂々と応援できますぞ。殿は、どちらを……」
 言いかけた馬岱の顔が、の顔を覗き込み微かに歪む。
 従兄上がしたのですね、とぽつりと決め付けられ、は慌てて頬を覆った。腫れは引いていたが、口元の膏薬や痣までは隠しようがない。
「……孫策殿を応援しちゃいましょうか」
 いやそれはまずいって、と慌てて馬岱を押し留める。
 二人は、未だにに気がついていないようで、相手の一挙手一投足に集中している。
 槍のリーチがある分、一見馬超の方が有利に見えるが、懐に飛び込んでしまえば孫策の身軽さとトンファーの奔放な動きが馬超を翻弄する。
 まったくの互角の戦いに、周囲は息を飲むばかりだ。
 鍛えられた武芸の技は、一分の隙もなく美麗とさえ言えた。
 見つめるも、何時の間にか引き込まれた。
 唸りを上げる槍の切っ先がきらめく。だが、命を落としかけて以来包丁さえ恐ろしかったが、そのきらめきをただ美しいと思った。
 トンファーが切っ先を弾き、火花が散る。素早い連打が馬超に襲い掛かるが、馬超はそのすべてを槍の柄で弾き返す。連打が止み、馬超の踏み込みを誘った隙は、強烈な回し蹴りを叩き込むためのものだ。だが、馬超はそれさえ先読み、しなやかな蹴りをかわして大地に力強く押し込まれた軸足を払う。
 どういう力のなせる技か、キンと一筋の線を描き、大地に固定されていた孫策の体が宙に舞う。槍の切っ先がすかさず襲い掛かるが、孫策は体をひねるとそれをかわし、トンボを立て続けに切って槍の猛攻から逃れた。
 本当に本当の真剣勝負だ。
「……かっ……描きたいっ……!……」
 の手がわきわきと動く。
「う、わぁ……も、凄い……凄い……描きたい、ホントに今、描きたい!」
 あの動きを、表情を描き留めたい。
 何て綺麗なんだろう、とは震えた。
 吸い込まれるように二人に注視するの横顔を、馬岱は密かに苦笑して見つめた。
 そうしてしばらくを見つめていた馬岱だったが、意を決したように顔を上げると、常の表情を作ってに語りかけた。
「……あのお二人が、殿を好いていらっしゃるのは本当ですが」
 馬岱の言葉に、夢中で二人を見つめていたは突然冷や水を浴びせかけられたように我に返った。びくりと肩を跳ね上げ、ぎくしゃくと馬岱を振り返る。
「どちらを選んでも、申し分のないお二人かと思われます……趙雲殿を合わせるとお三方となりましょうか。殿は、何方を選ばれるおつもりですか」
 は、馬岱と目を合わせられずに俯いた。
 選ぶ資格が自分にはない、そう思えて仕方なかった。
 だって。
「……私みたいな女、私の世界に戻れば、何人でもいるんですよ」
 皆、と同等かそれ以上に、趙雲や馬超、孫策を愛している。夢に見るほど、物語を綴らずにはおられないほど、皆が皆彼らを思っているのだ。
殿のようなお方が、何人も!」
 の心の内を知ってか知らずか、馬岱は笑う。
 それは羨ましい、是非行ってみたいものですねと続けて笑った。少し考えるような素振りをしてから、そっとに耳打ちする。
「私のことを好いて下さるような方も、中には居られるのでしょうか」
 居られると思いますよ、たくさん、とが答えると、馬岱は、もしお戻りになることがあれば是非連れて行って下さい、本当にそのような方がいらっしゃるなら、嫁御にもらってゆきますと言う。
 少し照れ臭そうな馬岱の笑みが好ましく、何故だか心が晴れやかになった気がする。
 問題は何一つ解決はしていなかったのだが。
 が前に向き直ると、ちょうど馬超と孫策は距離を置き、呼吸を練り上げ同時に相手に向けて飛び出したところだった。
 馬超と孫策が勢い良くぶつかり、互いに後方へ弾け飛んだ。
 尻餅を着いた二人は、息が上がったまま立ち上がれなくなって、周囲の大喝采が死合いの
幕引きの合図となった。
 馬鹿だなぁ、この男達は。
 同盟とか、信義とか、まったく関係無しに勝手にぶつかり合って、悩んでいたこちらが馬鹿みたいだ。
 空を見上げると、抜けるように青い。
 そう、この空の色が好きだ。
 分かることは分かる、分からないことは分からない。
 それは当たり前のことなのだ。どうして分からなかったろう。
 は目を閉じた。
 何を如何していいかまだ分からない。けれど、それはこれからゆっくり考えよう。
 元の世界に帰るとか、突然誰かと劇的な恋に落ちるとか、それこそ選択肢は幾つもあるのだから。
「だよ、ね」
 の自分への確認の言葉に、馬岱は不思議そうな顔をしていた。

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