憎むべき、忌まわしきシンボルの崩壊。
 皆が皆、快哉を叫ぶのだが、さて本当に嬉しいことなのかどうか。



 顎がだるいのが二三日続いた。
 春花が心配しておかゆを用意してくれたが、色と形状があまりにもナニに似ていたもので、一度きりにしてもらった。理由を知らない春花が、きょとんとしていたのが可愛らしく、それが唯一の慰めだった。
 諸葛亮からの使いはなかなか来ず、ひょっとして自分なんかは使える場所がないということなのではないかと、を落ち込ませた。
 趙雲も馬超も、もちろん孫策も何の便りもなく、はのんびりというよりは淋しい日々を送っていた。
 そんな折、姜維がひょっこりと顔を出した。
 諸葛亮の使いかと思って小躍りしたのだが、単に近くに寄ったから顔を出しただけらしい。お茶を差し出しながら、落胆を隠せないに姜維が慌てる。
「丞相に、何か頼みごとでもなさったのですか」
 姜維になら話しても構うまい。
 は、諸葛亮に自分の職を世話してもらえるよう依頼した旨を姜維に話して聞かせた。
 話を聞き終えた瞬間、姜維は何ともいえぬ顔をした。そんなにおかしなことをしてしまったろうかと、が焦るほどだ。
「そのようなことをなさらずとも、趙雲殿の奥方となられれば、忙しくて城内の仕事などままなりますまい」
 ぶはぁ。
 ちょうど口に茶を含んだところだったので、は思い切り良く噴出した。姜維から顔を逸らすのが精一杯で、しかも気管に入ったので恐ろしくむせた。
 姜維が慌てて背中をさすってくれるが、およそ女とも思えない醜態である。うげぇ、とかぼほぶはとか、色気があるとは決して思われまい。
「……あ、ありがと」
 ようやく落ち着いて、二つ折りになっていた体を起こす。深呼吸を繰り返し、痛む喉をさすった。
 姜維はの背中をゆっくりとさする。優しい、暖かい手だ。
「ありがと、もう大丈夫だから」
 がもう一度ありがとね、と繰り返し、そこでようやく姜維は手を離した。
「うあぁ……ちょ、雑巾取って来るから、ちょっと待ってて」
 ごめんよーと唸りながら、よろよろと出て行くを見送る。
 腰の辺りに目が行ってしまい、姜維は己の邪を密かに恥じた。
 がどうしてあのように動揺したのか、姜維には分からない。照れともまた違うようだ。
 趙雲と何かあったのだろうか。
 考えていると、少し不安になるような、嬉しいような複雑な気持ちだ。
 夜毎、を犯している。
 無論空想の中でだが、姜維は日の光の下に晒されると、己の罪悪感で胸が苦しくなる。何も知らないの笑顔も、辛い。
 それでも屋敷の近くに来れば、寄らないことがまた一層後ろめたく、ついつい足を運んでしまう。
 と会い、その姿を見れば、月の光に煽られて指がそろりと伸びていく。
 堂々巡りだ。
 恐らく今日も仕事を済ませて牀に上がり、一人で眠りにつく前に、を犯すことを妄想して自慰をするのだ。
 情けない。
 背後で、ばさりと何かが落ちる音がした。驚いて目を向けると、がよく羽織っている上着が床に落ちている。卓に載せておいたものが、何かの拍子で落ちたらしい。
 拾い上げて、元に戻そうとしたのだが、手にした上着からふわりと鼻をくすぐる甘い体臭が匂い、姜維は思わず上着に口付けた。
 心臓が落ち着かなく跳ね上がる。
 鼻から口から、妄想では感じることはできない臭覚が刺激される。
「伯約殿」
 はっと我に返り、慌て振り返る。
 が不思議そうな顔をして立っていた。
 絶望にも似た冷たい感覚が、浮かれはしゃいでいた心臓を鷲づかみにした。

 突然土下座をした姜維の頭を上げさせるのに、はずいぶん骨を折った。
 途中で開けっ放しだった扉に気付き、慌てて閉め、思いついて、一度外に出て春花を呼んだ。
 大事な話があるので、しばらく誰も近づけないようにして。
 頼むと、春花は元気良く請け負ってくれた。この間の馬超の件以来、春花はずいぶん強気になった。姜維に対して絶大な信頼をしているからかもしれない。馬超相手だったら絶対許してくれまい。
 中に戻ると、姜維はまだ正座をしたまま、強張った顔を崩していなかった。
「あの……何があったんだね」
 顔を上げさせるのには成功したが、椅子にはどうしても戻ろうとしないので、仕方なく姜維の前にしゃがむ。
 視線も合わせてくれないので、の困惑は深まるばかりだ。
「言ってくれなきゃ、分かんないよ」
 突然謝られても、理由が分からないでは許すことも出来ない。
「伯約殿……伯約」
 膝の上で握り締めている拳に触れようとすると、まるで初夜を迎える処女のようにびくりと身を震わせた。
 これは重症だ。
 は手を戻し、頬杖をつく。
 何だろう。何か、姜維に謝られるようなことをしたろうか。
 諸葛亮の使いで来て、やっぱり仕事を紹介することができない、というのであれば土下座くらいはしてくるかもしれない。だが、こうも頑なではないだろうし、理由もちゃんと言うはずだ。
 屋敷の警護が半ばザルだということは、くらいしか知らないことで、しかも侵入者があの孫策では、警護の者を責めるのは気の毒だ。春花にすら内緒にしているので、警備兵達の将たる姜維に報告が行くこともない。趙雲は知っているが、騒ぎになるのを嫌って黙っているはずだ。
 他に、何かあったろうか。
 もうネタ切れで、思いつけない。
 うーん、と唸っていると、姜維が再び頭を下げた。
「ちょ、伯約ど……伯約、土下座はナシだって」
「わ、私は……殿を、穢しておりました」
 許して下されとは申せません、どうぞご存分になさって下さい。
 意味が分からない。
 ポカンとしていると、姜維は頭を上げた。その顔に苦渋と情けなさが浮かび、だが頬が赤く染まっているのを見て、はようやく思い至った。
 穢す、というのは、要するに、そうか。
 どうしたものか、と考える。
 相手が自分だというのが意外だが、姜維の周りの女性はそういう対象としてみるにはあまりに凛として隙がないのかもしれない。
 特に嫌悪感はなかった。想像を絶しているからかもしれない。
 姜維の自責の念が強過ぎて、何だか責める気にもならない。もう充分だろう。
「あのさぁ」
 だから、思ったままを伝えることにした。
「姜維くらいの年だったら、普通なんじゃないの」
 驚いて目を見開く姜維を、可愛いな、と思う。
 は、自分のほうが年上なのだと思うと余裕が出てきた。
「対象が私だって言うのは、そりゃ確かに驚いたけどさ。普通だと思うよ。何か、それこそ猿みたいに日がな一日やってるって話も聞くしさ。そんなに気にしないでいいと思うよ」
 姜維の顔がどんどん赤くなる。顔を上げられなくなって、俯いてしまった。
 童貞からかうと面白いとか聞いて、趣味が悪いと思ったものだが、こうしてみるとなるほど、面白いかもしれない。
 うわー、私も趣味悪いなぁ。
 内心姜維に申し訳ないと思いつつも、ついつい口が止まらない。
「こういう話、友達としないもん?」
「……その、話をするのも……恥、なのです……ですから……」
 猥談とか、下劣ネタを話すのは恥ずかしくて責められるようなことなのか。日本では、親父どもが率先してセクハラしているだけに、何だか不思議な感じがした。
「はぁ、なるほどね……じゃあ、一人で悶々としていたわけか」
 姜維の眉が顰められる。
 うわ、可愛いのぅ。
 翻弄されるばかりだったには、姜維の純情さが新鮮だった。
「姜維もさ、勉強とか学問とかで忙しいとは思うけど、たまには息抜きして遊べば? 変な話、お金払えばそういう相手してくれる女の人もいるんでしょう」
 気楽にぺらぺらと話す。姜維は顔を真っ赤にし、何か言い辛そうに口篭った。
「え、何?」
 いえ、あの、と口篭る姜維の目がゆらゆらと揺れる。
「……何も、知らないものですから……」
 どうしていいか分からないという。
 先生、この人駄目なくらい可愛いんですが如何したら……!
 口元が緩むのを止められない。
「あのさ……私がこんなこと言うのも何だけど、最初から上手く出来る人なんか早々いないんだしさ……初めにちゃんと言ってさ、教えてもらえばいいんだよ」
 すると、姜維が突然怒ったように目を吊り上げた。
「それは、殿が女性だからです……男の身としては、そうは参りません」
「……そうかな……男も女も、関係ないと思うけど」
 男だから最初から上手く出来るなんて、考えたっておかしな話だ。男同士なら尻の穴に突っ込めばいいけれど、女は穴が三つもあるから間違える男もいるという、下世話な話もあるのだ。
 そのうえ、女の中にも男がリードして当たり前、うまくやって当たり前という考えが未だに根強い。
 自身も、経験のなさという点を踏まえても、男任せというところがある。もっとも、の場合は少し特殊で、相手の男がにお構いナシで覆い被さってくるのがいけないのだが。
 の中にも、抱かれるだけでなく男を悦ばせたいという気持ちがある。それは、先日三人を立て続けに相手にした時に自覚した。
 今生此の世この人限りと思った相手ではない。この人を、と選んだ相手でもない。
 自分を、と望む相手ということだけが共通する男達だ。
 倫理的には間違っているのだろう。
 でも、選べないんじゃもー。
 ふてても仕方ないのも分かっている。そのうち三人共に見捨てられるかもしれない。それでも選べない。今は未だ。
「ぶっちゃけ私なんか、相手に気持ちよくなって欲しいって言う気持ちがあるよ。気持ちよく、してほしいっていうのも……うん、あるけど。女だってさ、男を犯したいって気持ち、あると思うよ」
 わざと衣を被せない、赤裸々な言葉を選んでみた。変にいやらしくならないよう、話が逸れないようという気持ちからだった。
 の意図が伝わったのか、姜維は赤面しつつも、何事か考えに耽っている。
「伯約、キス……接吻はしたことある?」
 姜維の顔が、いや首まで真っ赤になった。
「い、いえ……ありま、せん……」
 ないのか。
 逆に、そちらの方が驚きだ。姜維ほどの整った顔、実力の持ち主なら、女の方がほっておかないと思うのだが、どうやってやり過ごしてきたのだろう。
「……してみる?」
 え、と姜維が絶句する。
 そりゃそうだねぇ、とも少し恥ずかしくなった。
「あのー、でも外国……異国じゃ、挨拶代わりなんだよ。そういうことで一つ、試しにしてみるかね」
 できるだけお気楽に誘ってみた。応諾するのも否定するのも楽なように、と思ったのだが、しばらく俯いていた姜維が、小さくはい、と囁くように応えた。
 それきり、ぴくりとも動かなくなってしまった姜維に、仕方なくがにじり寄る。
 私も上手いってわけじゃないんでございますがー。
 何も経験のない姜維よりはまだマシかと、は姜維の頬に手を添え、そっと上向かせる。
 女の顔のように綺麗な姜維の顔は、肌も白く、髭もない。
 百合っぽい、と思った。姜維が恥らうので、なおさらだ。
「……伯約、ちょ、目、閉じてくれない……?」
「あ、は、はい」
 目を閉じた姜維は、なおさら女の子のように見えて戸惑う。唇が薄くて赤い。触れたら壊れてしまうんじゃないだろうか、と妙に心配になった。
 と言って、何時までもこのまま目を閉じさせているわけにもいかない。
 えい、この間孫策にもやったじゃないか、こんなのは勢いだと唇を寄せた。それでも乱暴にはできなくて、おずおずと唇を寄せる。姜維の微かな息が触れた。
 ようやく唇が触れ合った。柔らかい。
 これなら、壊れたりはしなさそうだ。
 少し強く押し付けたり、下唇を唇で食む。すべて趙雲や馬超の受け売りだ。
 為されるがままの姜維の肩が、ひくんひくんと撥ねた。
 唇を離すと、姜維が眉を顰めている。
 気持ち悪かったのかな、とは冷や汗をかいたが、姜維がゆっくりと開いた目が潤んでいるのを見て、逆だと気がついた。
 陶然としている。
 あまりにうっとりしているので、どうかしてしまったのではないかと思った。
「は……伯約……?」
 恐る恐る声を掛けると、姜維ははっとしたように身震いして、を振り返った。
 ばつが悪い、という態で、背中を丸めた。
「……も、申し訳ありません、まさか、このようなものだとは……」
 そこまで言って、かあっと顔を赤らめた。
 すごく気持ちよかったんだな、とは呆れ半分、感心半分で何となく頷いた。
「好きな人とすると、もっと気持ちいいと思うよ」
「も、もっと……ですか」
 は、何を思ってかおろおろとする姜維が可愛くて、ついその頭を撫でた。子ども扱いされた姜維は、恥ずかしそうに身を竦めたが、の手を振り払うことはなかった。
「……殿……あの……申し訳ありませんが、頼みごとを聞いていただけませんか」
 突然の姜維の申し出に、が首を傾げると、姜維は崩れかかった正座を直し、頭を下げた。
「わ……私から、一度させていただけないでしょうか」
 何を、と即答しかけて、言葉を飲む。馬超や孫策と違って、恐ろしく繊細な姜維には、下手なことは言えない。言いたくない。
「よろしいでしょうか」
 えと、キス、じゃなくて、接吻かな。
 うんというのも憚られて、は目を閉じて応諾の証とした。
 唇に、柔らかい感触が触れた。
 もぞもぞとまさぐるような動きは、少しくすぐったくて、は笑いを堪えなくてはならなかった。
 突然、口中にぬるりと忍び込んでくるものがある。閉じた前歯を撫で上げ、押し入るように抑えつけてくるのは、舌に違いない。
 何ぃ、と動揺が走った。
 動揺して僅かに開いた歯列の間から、舌が踊りこんでくる。急かされたように縦横に舐め上げる舌は、呼吸を阻害して息が苦しくなる。
「ん、んんっ……」
 もがくが、姜維の腕がの体に回されていて、身動きが取れない。
 そうこうしている内に床に倒されて、の体を姜維の指が撫で回す。首筋、肩、乳房、腹、尻、腿と見境がない。浮かされているような動きだ。
 ま、まさか一度って……。
 危機を察して、は暴れる。
「ち、ちが、待って伯約、キスまで! キスまでだって!」
 唇が外れた拍子にが喚くと、姜維はまたはっと我に返って慌てて後ろに跳び退った。そして土下座する。
 は、ぜえはあと息を荒げ、危機が去った後の疲労感にがっくりと項垂れた。
「も、申し訳ありません、つい……!」
 つい、何だというのだろうか。
 純粋なので、勢いがつくと止まらなくなるのかもしれない。
 は疲労を隠さず、己の見通しの甘さと興味本位の尻の軽さに呆れながら手を振った。
「いい、私が悪かったんだから。でも、もうここまで。いいよね」
 はい、と姜維が頷く。
「……とても、気持ちのよいことだったのですね。知りませんでした。こう、胸の中が温かくなるような、心地よい湯で満たされるような、そんな気持ちになりました」
 それは、とても気持ちいいことなのよ。
 昔見たアニメの台詞が、耳元でリフレインした。
「……殿は、趙雲殿の嫁御になるのだと思っておりました」
 びっくりして、息が詰まった。また気管が変な風に詰まり、咳き込む。
 姜維が慌てて背中をさすってくれるが、いい加減わざとやっているのかと疑いたくなる。
「そういう予定は、ないなぁ」
「でも、迷っておられるだけで、選択肢の一つにはあるのではないですか?」
 キスもしたことない子が、ずばりと物を言い当ててくれる。
「……でもさ、考えてもみてよ。私と趙雲じゃ、釣り合い取れないでしょ?」
 姜維は、含むように笑った。何だよう、とが不貞腐れると、いいえ、と言ってまた笑う。
「迷っても、いいのではないですか。例え話ですが、良き娘の元に、複数の男が通ってくるなどそんなに珍しい話ではないですし」
 そうなのか。
 びっくりしているに、食いついてきたとでも思ったのか、姜維はくすくすと笑う。
「無論、嫁入りすれば貞操を守らねばなりませんが……相手が望んでやって来るのですから、その中で一番いい男を選べばいいのですよ。それまでの選択権は、娘にあるのですから」
 いいおのこねぇ、とはぶつぶつと呟いた。
「……傲慢だよ、そんなの」
 姜維はそんなの言葉を聞き、だが嬉しそうに笑った。
殿らしい。ついでにもう一つ、男たちが皆、飽きて、去って行ってしまったとしたら」
 ぎょっとするに、姜維はにこりと微笑み、唇を掠め取った。
「私が殿のところに伺いますから、安心なさって下さい」
 私のような若造ではご不満かもしれませんが、そう言って花が綻ぶように笑う。
 ごふ、とは頭の中で吐血した。
 姜維が、変わった、と感じた。何も知らない純粋な少年から、とにかく何かが変わってしまった。しかも、自分のせいで。
 お茶のお代わりをいただいてきましょう、と立ち上がる姜維を、は呆然と見上げる。
「そうそう……もし、丞相がお仕事のお世話ができないと言うことでしたら、私にお申し付け下さい。前から、書庫の整理を手伝って下さる方が欲しいと思っていたのです」
 そうしたら、また二人きりになれますしね、と言って、姜維は顔を赤らめて廊下へ去っていった。
 しばらく呆然としたまま姜維の去っていった方向を見つめていた。
「……嘘ーん」
 冗談めかして言ってみたのだが、もちろん嘘でも夢でもない。
 またわけの分からないことになった。今度は自業自得のおまけ付だ。
 どうしよう、と呟いてみたが、どうにもなるわけでもなく、は一人うんうんと唸り続けた。

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