雲の向こうに星はある。
ただ見えないだけ。
この世界に来て、自分の無力さと優柔不断さを嫌と言うほど見せ付けられてきた。
嫌いなタイプの女に成り下がったと思う。
理想の自分は、もっと全然違うはずだったのに。
月英のような知力も、甄姫のような美貌も、貂蝉のような可憐さも、何も持っていない。
それなのに、彼女達を見知っているはずの男達が、こぞって自分が好きだと言う。
詐欺だ。
諸葛亮が直々にの住む屋敷を訪れたのは、姜維とのどたばたがあってから十日程過ぎた辺りだった。
朝、割合早くの頃、馬車二台分の荷物と共に現れた諸葛亮に、はぎょっとさせられたものだ。
諸葛亮の脇には、姜維が微笑みながら立っている。目が、どこかうっとりとしているように見えて、は困惑した。
姜維自身は、二日に一度はの屋敷を訪れ、必ずに挨拶していくのだ。暇なはずはないのだが、に会うと元気が出るのだと臆面もなく言ってのける。
それを偶々聞いていた春花の顔が強張り、が予想したとおり後でとっちめられた。
油断しすぎ。自覚がない。
それが春花の説教の大まかな内容だった。
春花曰く、は非常に魅力的なのだそうだ。何処が、と聞き返すと、全部です、と返ってきて、まったく要領を得ない。
とにかく、と春花はが理解も納得もしないまま纏め上げる。
もっと、ご用心なさいませ。ご自身を大切になさらねばいけませんよ。
用心と言われてもぴんと来ない。如何すればいいんだろう。
口に出すと春花に怒られるので、神妙な顔ではい、とだけ答えておいた。
そんな具合でどうも、姜維は春花のブラックリスト入りしたようなのだが、さすがの春花も諸葛亮の前では強くは出られないようだ。もっとも、姜維は春花の鋭い視線など何処吹く風なのだが。
大物なのだろう。
「お待たせいたしました、貴方の職務を定めましたので、お伝えに参りました」
まさか諸葛亮自身が、姜維を伴って申し伝えに来るとは思わなかった。
「貴方には私の直属の部下となっていただき、私の代理として働いていただくことになります。よろしいですね」
よろしかねぇだろう。
は内心でツッコミをいれた。
何も知らない小娘(と言うには角が立っているような気がしたが)に、丞相代理をやれと言うのだ。丞相代理と言えば、変な話、総理大臣の代理ということだろう。
清掃係か書庫整理でもやらせてもらえれば、と思っていただけに、の衝撃は大きかった。
言葉をなくして呆然としているに、諸葛亮はようやく気がついたとばかりに薄く微笑んだ。
「……代理と言っても、要は一文官として働いていただくだけです……他に何人も、それこそこの姜維も私の代理で立ち働かせております。何も心配するようなことはありませんよ」
姜維がにこにことして頷いて見せる。
いや、全然落ち着きゃしないんですが。
立ち居振る舞いもしきたりも知らないのに、いきなり姜維と似たようなもんですよと言われても困るのだ。
「無論、まず学んでいただかなくてはなりません。一月以内にこの」
諸葛亮が馬車を指差す。大きな木箱が五つほど載せられていた。
「書簡にすべて目を通し、できれば覚えてしまって下さい」
できなさそうです。
は汗が滲み出るのを自覚しながら、頑張ります、と頷いた。
「城内のしきたりなどに関しては、姜維に任せました。何か分からないことがあったら、姜維にお尋ね下さい」
姜維がきた理由はそれか。
が目を向けると、姜維は嬉しそうに微笑み返してきた。
背後から、異様なプレッシャーを感じる。春花だろう。
もう一つの馬車は、の出仕用の支度だと言う。仕事をするからには、服はやはり今のままではまずかろうということだった。もっとも、上着だけ被れば今のままで構わないと言うことだった。略式なのだろう。サイズは、と問いかけて、帯で縛るものにサイズなど無意味なのを思い出した。
執務室も用意してあると言う。手回しのいいことだ。
「荷に目を通したいでしょうから、本日はこのままで結構です。明日、昼までに私のところにいらして下さい。よろしいですね」
応じて、改めてよろしくお願いしますと頭を下げた。
諸葛亮は艶然と微笑み、姜維を連れて帰っていった。
「……うはあ」
思いがけないことになった。
とにかく荷物を中に運び込むことにした。男達が集まって、馬車から降ろされた荷を次々と運ぶ。も、荷の一つを持ち上げようとして諌められた。
そんなことをなさってはいけません、と持ちかけた荷を取り上げられる。
この屋敷に来てから今まで、そんなことを言われたことがなかったので驚いた。
年かさの青年は、困ったように笑うと、考え考え説明した。
はもう、君主に仕える身の上である。荷物を運ぶ暇があるくらいなら、君主の為に頭を使うなり何かを学んで物にするなりしなくてはいけない。荷物は、他の誰でも運べるが、君主に仕えるのは定められた人のみなのだから。
正論である。
そんな説明を出来るのだから、きっとよく学を積んだ人なのかと思ったら、そんなことはないらしい。
この国は、良き人を育てる為の環境が整っているのだと知れた。
何だか、誇らしく思った。
書簡を広げ、読み耽る。予想よりも簡易で、読みやすい書だった。熱中して読み込み、気がつくと日が暮れていた。
卓の脇には、冷めてしまった茶が置かれている。春花が持って来てくれたのだろうか。
すすると、冷たい感触が喉を潤し、とても喉が渇いていたのだと分かった。
「……もういいか」
わあ、と声を出して驚く。
振り返ると、馬超が壁にもたれて立っていた。
「あれ、孟起。何時からいたの」
むっとして壁から背を離すと、の横に立つ。
「昼から、ずっとだ」
の手から、書簡を奪うと、卓に積んである他の書簡に重ねてしまう。
「分かんなくなっちゃうから、一緒にしないでよ」
手を伸ばすのを遮って、馬超はを抱え上げた。抗議の声も届かないのか、そのまま室の外に出ると、馬に跨る。
「ちょ、孟起! 私、忙しいんだけど」
覚えろと言われたからには、できるだけでも覚えてしまいたい。物堅い性質のは、仕事に関しては特に真面目なのだ。
それでも馬超は答えない。
馬超の肩に担がれたまま馬に乗っているので、は舌を噛むのを恐れて黙った。どのみち、この状態の馬超には、何を言っても通じまい。
どうも、屋敷に向かっているのでもない。何処に行くのだろうかと思ったが、そんなに心配はしなかった。
城を守る門を抜け、馬を駆ける。
しばらくして、馬超はようやく馬の足並みを落とした。肩に担いだを降ろし、自分の膝の間に座らせる。馬超の手がの腹の辺りに回り、落ちないように押さえた。
馬超の顎が、肩に乗ってきた。
甘えているようにも思える。は無言で、馬超のしたいようにさせた。
「」
途切れていた言葉が、不意に蘇ったようだった。
「お前を、抱くぞ」
否定されるなどとは微塵も思っていない声だった。疑問を挟む余地もない。
うん、と答える自分の声が、何処か遠くに聞こえた。
馬超が連れてきたのは、小さな庵だった。庵と言うよりは、東屋に近いかもしれない。
「もう、門が閉まった頃だね」
今夜はここに泊まらざるを得ない。
「嫌なのか」
むっとして口をへの字に曲げる馬超に、は笑った。
「孟起は、嫌じゃないの」
眉が顰められ、何か迷うように視線が揺れた。は横目で馬超を見、次いで開け放たれた窓の外に目を向けた。星が、満天に光り輝いていた。これだけの星を、はこの世界にくるまで見たことはなかった。
後ろから抱き締められる。
手が、熱をもっていた。
「……嫌なはずがない」
それが合図だった。
馬超が、さっさと鎧を脱ぎ捨てるのを、は簡素な牀に敷かれた布の上でぼんやり見ていた。
鉄の、如何にも重量のありそうな鎧が床に置かれる。ごとん、という音が響き、よくもまあそんな重いものを身につけていられるなと感心した。
馬超が振り返り、頬を染めた。
「……お前も、脱げ」
「え。あ、そっか」
脱ぐ、ということを失念していた。大抵、脱がずに事に及んでいたので、分からなくなっていたのだ。
それはそれで情けない話だ。
目の前で、馬超が上着を脱いだ。
「わあ」
裸の背中、鍛えられた背筋が目に入って、急に恥ずかしくなった。
ボタンを外す指も止まる。
「どうした」
馬超がじと目でを睨む。
「いや……その……」
馬超は、顔だけでなく体も綺麗だ。それに比べて自分は、と考えると、脱ぐのが躊躇われた。
うろたえている間に、纏っていた物をすっかり取り払った馬超が、の隣にどっかりと腰を下ろした。
に向き直ると、無言でのシャツのボタンを外していく。
器用だな、と思っている間にボタンはすべて外されていた。
「……後は、お前がやれ」
ブラを繁々と見ていた馬超だったが、どうしても外し方が分からなかったらしい。
じゃあ外すかと背中のホックに手を回すと、馬超がじーっと見ている。また恥ずかしくなって、手が止まってしまった。
「……何見てる?」
「次は俺が脱がせる」
どうやって脱ぐのか、確認しているらしい。意外にマメなのだろうか。
「……いや、でも、ちょっと向こう見ててくれないかな」
「どうして」
どうしてって。
はうぐ、と唸った。ムードもへったくれもない。
そもそも、服を脱ぐという行為はあんまりムードがない気がする。
「そこで外すのか」
馬超が手を伸ばしてくる。は慌てて仰け反った。
ぷちん。
指に引っ掛かってホックが外れる。
肩から紐がふわりと浮いたのを、馬超が指をかけて取り去ってしまう。
「わあ」
錦馬超がブラを手にして繁々と眺めている。何というか、嫌な光景だった。
有難いことに、馬超はすぐに見飽きて、ブラを床に落とした。
「早く脱げ」
いやだから。
馬超の視線は、ずっとに注がれている。は溜息をついて、寝台から立ち上がると馬超に背を向ける。ジーンズのボタンを外し、ジッパーを降ろす。パンツに手をかけると、深呼吸して一気に降ろした。
パンツが足首に絡んで往生したが、何とか脱げた。やっと全裸になったものの、振り返るのにも勇気がいる。
仕方ない、覚悟を決めて、一、二の三で振り返ろう。
一、二
「わあ」
後ろから引っ張られて、馬超の腕の中に納まる。相当焦れていたらしい、顔を向けると不機嫌そうにむっとしていた。
睨めつける目が不意に閉じられた。あ、そうか、とも慌てて目を閉じる。
唇が重なった。
そのままの体を横たえて、馬超が覆い被さってくる。
耳元に唇が触れ、ぞくぞくと体に震えがくる。抑えようと思うのだが、唇を割って声が溢れてしまう。
「……どうした?」
馬超の息が触れるだけでぞくぞくする。確かに、少しおかしい気がする。
「……ん……何か……ちょっと……変かな……?」
馬超は、まだ耳に触れただけだ。なのに、体が熱くてたまらなくなっている。馬超の気配だけで、体に触れられているのと同等に感じる。
感じ過ぎているのかもしれない。
「……大丈夫か……?」
そういう馬超も、息が上がっている。体から汗が噴き出し、しっとりと濡れていた。
自分こそ。
は、小さく笑った。馬超の顔が歪む。
「」
抱き締められるだけで、視界が白くなる。体がどうにかなってしまったようだ。
「……孟起、後悔しない?」
とりたてて意味はなかったのだが、はそう言って馬超に確認する。
は、未だ馬超を選んだわけではない。その確認をしたのかもしれない。
「するものか」
一言で吐き捨て、馬超はに向き直った。
「お前こそ、後悔など許さんぞ」
どうかなぁ、とは目を閉じながら考えていた。人の気持ちなど、当てになるものか、と思っている。自分の気持ちだって当てにならない。
だが、少なくとも今は、馬超に触れていて欲しいと思った。
無言で目を閉じてしまったに、馬超は口付けを送る。
「……お前は、俺を選ぶ。だから、大丈夫だ」
それは何の呪いなんだ。
が照れ隠しに突っ込むと、馬超はくく、と喉を鳴らして笑った。
「お前が俺の虜になる呪い」
馬鹿だ。
思わず笑ってしまった。
気がつくと、汗水だらけで寝ていた。湿った髪を、馬超が撫でている。
「……痛いって、言ったのに……」
「俺も痛い」
馬超の肩口に、細い切り傷が五本、並んでついていた。血が滲んで、乾いていた。
「……破瓜は済ませたのではなかったのか」
疲れたような馬超の口調が憎たらしくて、は赤くなって膨れた。
「知らないよ」
馬超が呆れたようにこちらを見るので、は掛けられた布を頭から被って背を向けた。
「もう一度」
「無理」
布越しのお強請りを邪険にあしらい、は痺れたように重い腰をさすった。感覚が鈍い。
「明日、昼までに孔明様のとこに行かなきゃいけないんだから。遅れたら、孟起のせいだって言うからね」
「犯されていたので、起きられませんでしたとでも言うのか」
一度死んだ方がいいと思う。
面倒になって、返事をしないで目を閉じた。眠りは、闇を伴ってすぐに押し寄せてきた。
背中に温もりを感じる。
馬超としてしまったのだな、と思った。