知っていたはずのことは、知らないことだった。
 恐怖と安堵を知る。



 は、ちょうど良く川の上に張り出した木の枝を見つけて、あらよっと登り始めた。
 腰掛けると、心地よい風が吹きぬけ、水面に乱反射する光が眩かった。
 今日は、劉備の婚姻の日だ。
 趙雲も馬超も忙しく立ち回っている。やることが増えるというのではないが、さすがに五虎将軍ということもあり、あちこちに引っ張りまわされているようだ。
 そんなこんなで、夜に乱入してくる馬鹿者もあまりいなかった(いたにはいたが、彼の従弟がまめまめしく連れて帰ってくれた)。
 忙しい最中、趙雲は毎日のように手紙をくれた。
 不思議なことに、こちらの世界に来てから、にも文字が読める。趙雲がの世界に来た時は読めなかったはずなので、何か因果関係でもあるのかもしれない。
 困ったことに、が描いた本も趙雲たちに読めるようになってしまった。
 趙雲が嫌がらせに近い生真面目さを発揮して、馬超に本を送っていたのをは後日知った。
 の元に訪れた際、かなり微妙な顔をしているので、変だとは思っていたのだが、馬超が懐からの本を取り出し、ようやく理由を悟った時のあの気持ちは如何言い表していいか分からない。お互い気まずい無言のまま黙って座っていたのだが、突然押し倒されそうに
なって思わず叫んでしまった。
 おかげで門の外を守っていた兵は飛び込んでくるわ、通りかかった姜維が踊りこんでくるわで大変な騒ぎになった。
 そうして欲しいのかと思った、とは馬超の言だが、少ない脳みそで難しいことを考えようとするなと怒鳴ってしまい、また大喧嘩しそうになった。姜維と、後から駆けつけた馬岱が割って入ってくれたから良かったようなものの、馬超とはどうしても喧嘩になってしまう。
 所詮、分からない奴には分からない世界なのだ。あの馬超に分かれというのが、そも無茶な話なのだ。
 馬岱のようにものすごく理解されても、それはそれで大変困るのだが。
 閑話休題。
 必要なものはないかとか、この日に少し立ち寄れそうだとか、夕飯を一緒にとか、趙雲が送ってくるのは、それは細々とした心遣いに満ちた手紙だった。
 は少し違和感を覚える。
 の知っている趙雲は、もう少し面倒くさがりと言うか、何事につけ冷淡な印象がある。
 相手が、それこそ劉備ならともかく、の為にここまでしてくれるのが何故だか分からない。
 考え過ぎかもしれない。
 夜、あの副官の夢を見る。
 何も見えない真っ暗な世界で、能面のような強張った無表情で、その手に銀色に光る刃をきらめかせ、にじりじりと迫ってくる。
 音はない。
 だから、余計に怖い。
 起きる間際に、悲鳴を上げているのかいないのか。分からないが、気がつけば口元を押さえている。
 誰にも言っていない。
 心配して時折顔を出す姜維にも、昼間運動するようにして夢を見ないようにしているから、と言ってある。たぶん、誤魔化せたと思う。
 姜維は真面目な分、戦の駆け引きならともかく、人との駆け引きは苦手なようだ。
 趙雲が遣してくれた春花も、家の都合があるから通いだし、夢のことは話していない。朝早くにやってくる春花は、の顔色が悪いと心配していたが、それも何とか誤魔化している。
 長い間一緒にいるとボロが出そうなので、は昼間は外に出ることにしていた。
 重ねて言うが、今日は劉備の婚姻の日だ。
 呉……孫家との婚姻が決まって一月余り、蜀の城下は祝い事に浮かれていた。
 劉備が既に蜀を手に入れていて、なおかつ呉との政略結婚という、三国志を読んだことのある人間には混乱を招きかねない事態だが、は『無双だから』と流すことにした。
 自分の知識が役に立たないほうが、却っていい。
 馬超が、劉備が、趙雲が何時死ぬかなど、知らなくていいことだと思った。
 孫家の娘と言うことは、孫尚香が嫁に来るのだろう。若く勝気で、それでいてひたむきで美しい少女なのだろう。自分の容姿に少し引け目を感じて、何だか憂鬱になってきた。
 靴を川岸に投げ捨て、足で水を掻く。冷たくて気持ちいい。
 適当に鼻歌を歌っていると、目の端に見知らぬ男が映った。
 誰だ。
 今頃は、手が空いている者は皆、大徳の下に輿入れに来た花嫁を一目見ようと、城への道に押しかけているはずだ。例え警備の兵に邪魔されると分かっていても、それは好奇心の為せる業で仕方ない。
 手の空いていない者は仕事に精を出しているはずで、蜀で暇にしているのはぐらいのはずだった。
 は鼻歌をやめて、男を凝視した。
「何でやめんだよ」
 途端に、不機嫌そうに口をへの字にする。
「……どちら様ですか?」
 どう考えても、会ったことがない。しかし、何処かで見たような気もする。
 会ったことがなくて、見た記憶がある? 少し矛盾してないか。第一、は探偵の如く鋭い洞察力を持っているというわけではない。どちらかと言うと、ぼんやりとして鈍い方だ。
「お? 俺かー?」
 にっかしと笑って、何故か木に登ってくる。
 よりも段違いに上手く登る男は、年の頃は二十五前後と言うところか。高々と結い上げた髪に、赤いリボンが結わえ付けられていて、それが男臭い外見と相反して見える。だが、不思議と似合っていた。
 人懐こい笑みで気が付くのが遅れたが、の逃げ場所がなくなった。どうしても逃げようと思ったら、川に飛び込むしかない。飛び込んで逃げられるかといったら、甚だ怪しいものだったが。
 やばい相手じゃないといいのだが、と危惧するが、それにしても懐っこい笑みだ。警戒心を根っこから掻き消してしまう。
「俺は……えーと……お前は?」
 一瞬何か考えたようだったが、突然に振ってきた。
 名前を訊くなら、まず名乗れということだろうか。
「……
 苗字を名乗っても意味がないと思って、名前だけを名乗る。例え苗字を名乗っても、何故か名前だけでしか呼ばれた試しがない。
「へぇ、いい名前じゃねぇかー!」
 顔をぐいっと近付けられて、危うく水に落ちかけた。
 満面の笑みというのはこういうことだろうか。
「……ど、どうも……」
「おう!」
 それはもう、嬉しそうににこにこしている。
「えーと……」
 が言いにくそうに口篭ると、『んー?』と再び顔を近付けてきた。枝がたわんで揺れる。
 必死にバランスを取るを、男は何気なく肩に手を回して支えてくれた。
「……ど、どーもすいません」
 いやー、と、やっぱり笑っている。
「あの……」
「ん?」
「どちら様で?」
 沈黙が落ちた。
「おお、名乗ってなかったっけか!」
 男は、驚いたように目を見開く。
 馬超も表情が豊かな方だと思っていたが、この男は馬超を遥かに上回る。変な男だ。
「俺、な、俺、えーと」
 自分の名前を名乗るのに、何故『えーと』がいるのか。
 の眉が、知らぬ間に顰められていた。
 男が慌てる。
「俺、俺な、は、白風、って言うんだ」
「白風?」
 ん、と力強く頷く。あからさまに偽名だ。
 怪しい。あまり係わり合いにならない方が良さそうだ。
「……そうですか。じゃあ、私、そろそろ帰りますんで」
 何気なさを装いながら立ち上がろうとすると、白風が肩にかけた手に力を篭めた。大して力も入ってないように見えるのに、は立ち上がれない。
 背中にヒヤッとしたものを感じた。
「まだ、いいじゃねえか」
 チンピラの台詞みたいだ。
 どうしよう、とがどぎまぎしていると、白風は小さくあっと叫んで、慌てて手を離した。
「違ぇ、俺、別に何もしねぇぜ?」
 両手を広げてぶんぶんと振る。
 ペルリかお前は。
 が心の中でこっそり突っ込む。あまりに焦っているのと、危害を加えてきそうな気配がないので、気が緩んだ。
 の表情が和らいだのを見て取ったのか、白風は嬉しそうに笑った。
「な、さっきの変な歌、歌ってくれよ」
 変な歌と言われて、あらそ〜ぉ? などと歌う馬鹿がいるものだろうか。
 の顔が渋くなる。白風がまた慌てての顔色を伺う。
「何だよ、いいじゃねぇか、な、な?」
 どうしてが不機嫌になったのか、分かってもいないようだ。
「いや、私、別に人に聞かせる為に歌ってたわけじゃないし」
 白風はうんうん唸っていたが、不意にに背中を向けて木を降り始めた。
 木の根元にしゃがみこんで、何をしているんだろうと思っていると、ひょっこりとに顔を向けて笑った。
「これなら、俺、見えねぇだろ?」
 な、と笑いかけてくるのだが、体格のいい白風は木の幹からきっちりはみ出して見える。
「……いや、見えるし」
 何ぃ、と唸って、また腕組みして考えている。
 馬鹿だけど、悪い人ではなさそうだ。
 は照れ隠しに水を蹴って、深呼吸を一つした。
 微かな声が、歌声が静かに流れた。
 白風は驚いたように顔を上げた。すぐにその表情は緩んで、白風は頭の後ろで手を組むと、木の幹にもたれて目を閉じる。
 旋律は風の音に紛れるほど小さかったが、その分辺りに溶け込んで、ゆるりとした穏やかな時間を醸していた。

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