こんなことで本当にいいのか。
曇り空の朝のような、不安。
趙雲と寝た、と報告した時の馬超の反応は、わりと予想通りだった。
むっつりと黙り込んで不機嫌そうに眉を顰め、唇を噛み締めた。
言わなくていいことだとは思う。だが、言わないでいるのは嫌だった。
殴られるのを覚悟で、変な話、殺されても文句は言えないと思った。殺されるとは露ほども思っていなかったが。
噛み締めていた唇が解かれ、ぶはぁ、と盛大に息を吐いた。
「馬鹿女」
睨めつける目が険しい。
「そんな、泣きそうな顔をするな。怒る気にもならん」
泣いてない、と答えると、泣きそうなんだ、と怒鳴られた。
「……俺が次にするまでは、趙雲には触らせるな」
いいな、分かったなとずいずいと顔を寄せてくる。
「そうしたら、許してやる」
許すって、何を、と口走ると、怒った馬超に口を塞がれてしまった。
嫉妬も独占欲も、普通にあるはずだ。とて、趙雲や馬超が他の女を抱いていると分かれば、普通に嫉妬すると思う。
趙雲も馬超も揺れたままでいることを許してくれた。信じられない。けれど、事実だ。
だが、覚悟はしなければ。自分がしていることを、相手がするのは許さないなどと言えるわけがない。
決められない自分が悪い。
いつかは、別れが来るだろう。どちらかか、それとも両方か。
姜維の顔が思い浮かんだ。
いつまでも、私は貴女を待ちます。
信じられない。待てるはずがない。
姜維も、何時か去ると思う。一時の熱情で浮かされているとしか思えない。
他人を信じられない。自分も信じられない。
こんな強情な女を、どうして好きだと言ってくれるんだろう。
自分でも可愛くないと思う。負けず嫌いで、特技もなく、一生懸命やるくらいしか能がなくて、頑なで、大嫌いだ。
城の廊下を、一人自分の執務室に向けて歩く。くるりと辺りを見回し、溜息を吐く。
また迷子になったようだ。
早く覚えなくちゃ、と思いつつ、窓を探す。見える建物の形で、おおまかな場所の配置は分かるくらいにはなっていた。
背後に気配を感じる。
振り返るより先に抱き締められた。
孫策だった。
嬉しそうな無邪気な笑顔に、愛しい女を見る男の顔が垣間見える。
こんな顔で、目で見つめられたら、大概の女は堕ちてしまうのだろうな。
ぼんやりと考えていると、孫策の唇が重なった。目は閉じなかった。
「……どした?」
どうもしない。孫策は、呉に帰るのだから、帰ればのことを忘れて、大喬と共に生きていくだろう。
胸がずきんと痛んだ。
あんまり勝手な自分に、腹が立った。怒れる立場か。
忘れてもらった方が、好都合ではないか。孫策は、大喬と幸せに生きていく。喜ぶべきことではないか。喜ばなくては。笑っていなければ。
「どうしたんだよ」
笑って見せたのに、孫策の顔が不安に揺れている。
どうしてこう、上手く出来ないんだろう。
自分が嫌になる。
「何でも。仕事があるから、戻らなくちゃ」
振り払おうと身を捩るが、孫策の力はの非力さとは比べようもない。
運動して、体力もつけないと、と思うと気が重い。そんなに何でもかんでもできるだろうか。しなくてはいけないのは分かっていたのだが、あまりにもいっぺんにやることが増えて、考えるのも億劫だ。
詰め込めるだけ詰め込んでおけば、後が楽なのは自明の理だ。孫策に構っている時間はない。
「仕事があるんだって」
言っても離そうとしてくれないので、仕方なく腕を掴む孫策の指を引き剥がしに掛かる。
「仕事ってなんだよ」
尚香に聞いていないのだろうか。兄妹と言っても嫁入りしているから、案外自由には会えないのかもしれない。
「私、諸葛亮様の下で働かせてもらえることになったの。だから、忙しいんだ。用がないならまたね」
今日は馬超に会いに来た。しばらくは城での仕事はない。『またね』とは言ったが、これで会うのはやめようと思った。
孫策のことだから、会いに来てしまうかも知れない。
その時はその時だ。逆に期待しているようで、嫌になる。
「何だよ、それ」
の肩を掴む孫策の指に力が篭る。痛い。
「……痛いよ、もう、馬鹿力だな……」
軽口叩こうとして、失敗した。声が湿っぽい。いけない、と思った。
「お前が逃げるからだろ」
孫策の声が徐々に焦れ始める。
「お前は、俺と呉に行くんだつったろ。何だよ、仕事って」
「勝手に決めないでよ」
いかん、と思った。喧嘩になる。ここは城の中だ。孫策と喧嘩なんてしているところを見られたら、どんな影響が出るか。
「……孫策様、私は蜀の人間です。ここに連れて来られてから、そう決めたんです。私は呉には行きません」
突然口調の変わったに、孫策は驚き顔を歪ませた。
「お前がイヤだって言っても、連れてくって言っただろ」
「行きません」
連れて行く、行かないと応酬が続いた。埒が明かない。
「孫策様! 孫策様は、遊びに来られたわけではないでしょう。私のような女一人の為に、ようやく為った同盟を台無しにしてしまうおつもりですか」
「そんな口の聞き方、よせ。何でいきなり、そんな」
うろたえている。困惑が表情に表れていて、何故かの胸も痛んだ。
「私が、蜀の人間だからです」
呉に行くわけにはいかない。呉に行くのは、イコールで孫策を選ぶことになる。蜀が好きだ。孫策がいなくなって、しばらくは辛いかもしれない、けれど、ここにはの好きな人々がいてくれる。呉には呉で、孫策の帰還を心待ちにしている人たちが大勢いるだろう。
だから、別れても大丈夫なはずだ。一人がいなくても、この男が困ることは何もない。
孫策の手が離れた。
は、拱手の礼をし、孫策に別れを告げた。
もう孫策は屋敷にも来ないだろう。
淋しい、と思った。涙が出そうだ。
それは勝手なわがままだから、我慢しなければいけない。泣いて済むなら、警察なんかいらないのだ。
罰だ。
は背筋を伸ばし、込み上げてくる塩気を押さえ込んだ。
アンタ、それどこじゃないでしょ! 趙雲と馬超と姜維、気がつきゃ槍族三人衆落としちゃってんだよ! フラグ立ちまくりでどーすんの! どの男と心の物語綴る気さ、ああん?
おどけて考えてみる。
若さで言ったら姜維だし、フィーリング(……)で言ったら馬超だろう。趙雲にはどうしても逆らえない。
今なら誰でも選り取りみどりだ。
反吐が出た。
孫策は大股で城の廊下を行く。
途中ですれ違った文官が、不審気に振り返り、追いかけてきた。
「孫策様、何か」
孫策の足は早い。文官が必死に追いかけるが、追いつけずにどんどん置いていかれる。
「孫策様!」
叫び声に反応した衛兵達が、小走りに駆け寄ってくる。
「お待ち下さい」
「何の御用でしょうか」
口々に問いかけ孫策を押し留めようとするが、孫策の歩みは止まらない。
焦れた衛兵が、槍を交差して孫策の行く手を阻んだ。
孫策は無言で腰に下げたトンファーを抜き取り、構えた。怯んで一歩引く衛兵達に孫策は一瞥をくれ、そのまま奥に向かう。
「お待ち下さい」
落ち着いた声が響き、辺りの人間は皆、声のした方を振り返る。
姜維が立っていた。
「孫家のご嫡男が、何の御用でしょう。私が承ります」
冷たささえ感じられる、威圧のある声だった。若輩とは言え、姜維は蜀の将であり、諸葛亮の秘蔵っ子でもあるのだ。これが孫策でなければ、多少はたじろいだかも知れない。
だが、孫策の目にはほの暗い怒りの火が灯っており、姜維の冷静さは逆に勢いを増させるだけだった。
「諸葛亮、とか言ったっけな。あの野郎に用がある、呼べ」
一国の丞相に向けての無礼な言葉に、周りの人間がざわめく。
姜維は、一人落ち着いていた。
「丞相はただいま職務中にて、御用ならば私が承ります。どうぞ、仰って下さい」
「お前みたいなガキに取り次いでもらうようなことじゃねぇ」
周囲のざわめきが一段と増す。
衛兵達の武器を握る手に力が篭るのを見て、姜維は手でそれらを制した。
「それでは、お部屋にお戻り下さいませ。後程、丞相にお出でになったことを申し伝えます故」
「俺は、今、用があるって言ってんだ」
姜維が浅く溜息を吐く。
「聞き分けのない方だ」
手にした槍が、一閃する。上げた姜維の顔は、静かな怒りに満ちていた。
「力で答えねば、ご納得されませんか」
「ほぉ」
孫策の顔が、強悪に笑む。
「やろうってのか、面白ぇ」
雷が落ちるような緊張感が辺りに満ちた。
孫策は構えを解き、姜維を挑発するように手招きした。不敵な笑みが、いっそ魅惑的とも言えた。
「その余裕が、命取りとならねばよろしいのですが」
姜維は槍を旋回させ、上段から中段に構え直す。槍の穂先が唸り、巻き起こった風が孫策の髪を揺らした。
「お前相手に、命取り?」
孫策が、鼻で笑う。遊んでいるのか、トンファーをくるりと一回転させた。
「ありえねぇな」
孫策の膝がぐっと深く沈み、やや上に構えた右肩に力が篭った。
「行くぜ」
わざわざ予告する孫策の余裕に、姜維が鼻白んだ時だった。
「何の騒ぎです」
諸葛亮が姜維の背後から姿を現した。姜維も孫策も、一気に戦いの気を抜く。二人に当てられていた周りの文官や衛兵達は、疲労の極みと言わんばかりに肩を降ろした。
「……よく言うぜ」
孫策がトンファーをくるりと回して、腰に戻す。
諸葛亮が曲がり角の影に身を潜めていたのを、孫策は端から知っていた。諸葛亮も、知られているのを分かっていて、今まで姿を見せなかったのだ。
「姜維。今の貴方は少し、落ち着きが足らなかったようですね」
諸葛亮の指摘に、姜維が頬を赤らめて俯いた。その様に、孫策は少し引っ掛かりを感じたのだが、今はようやく引っ張り出した獲物を叩きのめすのが先だと諸葛亮に向き直った。
「……仰りたいことは分かっておりますが、今少し猶予をいただけませんか」
おっとりと笑う諸葛亮に、孫策は言いかけた言葉を飲み込まされた。絶妙の間合いと言えた。
「尚香殿の御付に、とも考えましたが、あの方の才をそれのみに費やすには、あまりに惜しかったものですから。今少し時をいただければ、盟約に従い、必ずご満足いただけるようにいたします」
姜維の顔に不安の影が落ちた。諸葛亮は見ない振りをする。
「……絶対だな」
数瞬思考に沈んでいた孫策が、諸葛亮をきっと睨めつける。
「段取りはいたしましょう。ですが、そこから先は貴方様次第」
預言者のような宣告に、孫策は目線を険しく諸葛亮を見た。何事か言いかけた口は何も紡がず、そのまま背を向けて去って行った。
「丞相」
縋るような響きを僅かに感じて、諸葛亮は薄く笑む目を姜維に向けた。
「貴方まで、そのような目をして……あの方にも、困ったものですね」
諸葛亮の言う『あの方』が誰を指すのかは分からない。
けれど、きっと丞相には、何もかもがお見通しなのだ。
そう考えると、姜維は改めて諸葛亮に対して畏敬の念とそれを上回る何かを感じざるを得なかった。