恋とか愛とか、一生に一度きりでいいと思う。
面倒だから。
今日の趙雲の手紙は、何時にもまして素っ気無いものだった。
多忙ゆえ、しばらく顔を出せない。
それだけだった。横に何か記してあったが、墨で塗り潰されていた。書き損じだろうか。
食事も湯浴みも済ませ、春花もとっくに家に帰した。
は趙雲の手紙を投げ出し、牀の上で伸びをした。
城では宴会が続いているのだろう。
はあれから、白風と名乗る男に付き纏われていた。
付き纏う、というと多少語弊がある。着いて回ってくるのだ。生まれたてのひよこは、最初に見せられたものを親だと思って着いて回るというが、まさにあんな感じだった。
しばらく鼻歌というには大きめの声で鼻歌歌って、お腹がすいてきたから帰ろうかと木を降りた。
靴を拾って履き、『じゃあ帰りますね』と声をかけて歩き出した。
うん、と頷いたくせに、何故かの後を着いてくる。
こっちなんですか、と訊くと、うんうん、と頷く。
ちょっと嫌な気もしたが、帰る方向が一緒なのでは仕方ない。
しばらく歩いていたのだが、何度曲がっても白風は一向に離れようとしない。
このまま家に帰るのは憚られて、は思い切って遠回りした。
白風は着いてくる。
げ。
は内心慄いて、思わず走り出した。
白風も走り出す。
げげ。
運動不足のより、白風の方が早さも耐久力もありそうだ。
は、劉備の婚姻で賑わう街中に飛び込んだ。
人ごみの中に埋没すると、ようやく白風の姿が見えなくなった。
ほっとして歩く早さを緩める。
どうしても気になって後ろを振り返りながら歩くと、前方不注意で人にぶつかってしまった。
「あ、すいま……」
謝りかけて、あまりに人相の悪い三人組に言葉が途切れる。
人は見かけではないと言うが、この場合はお約束が過ぎた。
「どこ見て歩いてんだ」
「どう詫びてもらおうか」
「痛ぇ、ああ痛ぇな。骨が折れたかもな」
あれだけ混んでいた道がさっと開いて、は孤立無援と化す。
忙しいのか、役人が駆けつけてくる様子もない。
「……す、すいませ……」
謝ろうとするのだが、そのたびに怒鳴り声や罵声でかき消され、はパニックに陥った。
駅で酔っ払いに絡まれることはあったが、大抵すぐに駅員が駆けつけてくれたし、あまり考えもせずに勢いで口論できた。
だが、何故か今は心が萎える。怖くて、足が震える。それでも足に力を篭めて、胸を張る。こんな奴らに負けてはいけない。
「……折れるわけ、ないでしょう! そんなに折れやすい骨で、のこのここんな所に出て歩くんじゃないわよ!」
囲んだ人々の間から、どっと嘲笑が溢れた。
よし。
は、その嘲笑に力を得て男達を睨みつけた。
頭に血が上った男が、懐から刀を取り出した。
悲鳴が上がる。の顔から血の気が引いた。
「舐めやがって……」
掲げた刃が、日の光を受けて輝く。は、その光に目を奪われた。
ざっ。
背後から風が湧き上がった。
体が斜めに傾ぐ。
視界が、まっすぐな何かで塞がれた。
何だ。
「……おっ前、ちっとシャレになんねぇぞ、ソレ」
低く唸るような声。
白風だった。
金環の嵌ったトンファーがの背後から、顔の前に平行に差し出されている。視界を覆っていたのはこれだ。
に刺さるはずの刀は、白風のトンファーで弾き返され、白風の剣幕に驚いた三人組は慌てて逃げ出した。
何処からともなく拍手が沸き起こる。
白風は恥じることもなく、手を挙げて応える。
の方が恥ずかしい。
肩を竦めて俯くに、白風は何事もなかったように声をかける。
「探したぜー! あっぶなかったなぁ、間に合って良かったぜー」
あっはっは、と豪快に笑う。
何なんだ。
「あの……ありがと……」
んー? と白風はの顔を覗き込む。
間近で、子供のように笑う。
「俺、ここ、あんま詳しくねぇんだ。腹減ったなぁ、どっか旨い店知らねぇかー?」
にっ、と笑いかけられて、も釣られて笑ってしまった。
も詳しくなかったのだが、いい匂いのする店があり、白風はの手を引きさっさと入っていった。半ば引き擦られるように入ったのだが、目の前に湯気の立つ皿をごすごすと並べられるとの腹の虫がぐぅと鳴る。
「食えよ」
にこにこ笑いながら、早速皿を抱えてかっこむ白風に、も恐る恐る箸を伸ばした。
美味しい。
空腹もあって、も次々と皿に手をつける。
白風ほどではないが、それなりに食べた。
空いた皿がうず高く積まれる。
「おー、食った食った」
白風は、言うなり立ち上がると、の手を引いて出て行こうとする。
「ちょっと、お客さんお代を!」
「ツケといてくれ!」
待て!
は必死に踏ん張る。白風が、何事かと振り返るのを耳に口を寄せ『お金は!』と囁くと、『ない!』とやたらはっきりと返事した。
「抜け出すのに必死で、そこまで気が回んなかったぜ」
からからと笑う。はがっくりと項垂れ、肩からかけた鞄を開けた。
自分の世界のお金ならいくらかあったが、こちらの世界のお金はあまり持ち合わせがなかった。必要なものはたいてい手元に揃っていたし、買い物をする必要があまりなかったのだ。
うーん、と悩んで、店主の前に立つ。
「持ち合わせがないんで……これじゃ駄目ですか」
指から金の指輪を抜き取る。それほど高くないファッションリングだが、細工は凝っていて、少し粒の大きいガーネットとメレダイヤがついている。
「……い、いいのかい? これなら、店中の食材料理したってお釣りが出そうなもんだが」
それまで怒っていた店主の態度が、急に軟化する。
お気に入りだったので少し惜しい気がしたが、持ち合わせがない以上は仕方ないと腹をくくった。
「おい、」
白風が慌てて駆け寄ってくる。
「別に、俺だって金がねぇわけじゃねぇんだ、今は持ってないだけで、戻れば」
「うるさし」
は、白風の言葉をぴしりと遮った。
「一見の客が、いきなりやってきてツケにしろだなんて甘過ぎるでしょうが。持ち合わせがないのに物食うな。店の人だって迷惑でしょうが」
がみがみと説教を始めたを、今度は店主がまあまあと宥める。
白風は、ぶすっと膨れていた。こ憎たらしいな、とが睨めつける。
「あんた達だったら、しばらく持ち合わせなしで食べに来ていいよ。先払いって事でさ。まぁ、これでもお土産に持ってって、仲直りして、ね」
店主が、ふかした饅頭をいくつか竹皮を編んだ袋に入れてくれた。
が頭を下げ、お礼を言っている間に、白風はさっさと店を出て行った。
先に帰ったかと思ったのだが、白風は店の外で待っていた。
「……後で金持ってきて、あの指輪返してもらうから、よ」
いかにも言いにくそうに、だが申し訳なさそうにぼそぼそと呟く。
「いいよ、もう。しばらくただで食べに来ていいって言われたし」
美味しかったから、今度春花も連れてきてやろう。
「じゃあ、私、もう帰るから」
そう言って手を挙げるが、白風はててて、と着いてくる。
「……白風も、帰んなよ」
「帰り道、わかんねぇ」
あっけらかんと言ってのける。
げ。
「ど、どーすんの」
が焦っているのに、白風はまったく気にしてないようだ。
「んー……なぁ、城ってどう行きゃいいんだ?」
城、と言ったら、劉備のいる城だろうか。
「何、白風、呉の人なの?」
白風は、の言葉に一瞬ぎくりとしたように見えた。
「……あ、あんた、仕事サボって蜀の見物に来ちゃったんでしょう。帰ったら罰受けるんじゃないの」
「あ、ば、ばれなきゃ大丈夫だろ」
ばれるも何も、もうばれてるんじゃないだろうか。腕っ節も強いし、結構目立つし、今更のような気がする。
「……まぁ、いいけど。じゃあ、途中まで送ってってあげよう」
白風は、嬉しそうに笑うと、の持っている袋を取り上げ、饅頭を頬張った。
さっきまであれほど食べていたのに、まだ食べるかと呆れた。
「よく食べれるね」
「ほーは? ……ぅん、お前、食べねぇの?」
「今はいいなぁ」
そっか、と白風は二つ目の饅頭に手を伸ばした。
げ。
それにしても、美味そうに食べる。食べっぷりもいい。
結局、城までの道の間に白風は饅頭を全部平らげた。
白風が『ここまででいい』と言うので、城の近くで別れた。
ちゃんと潜り込めただろうか。クビになってないといいが。
妙に人好きのする感じだから、意外とちゃっかり取り成しているかもしれない。
今日はたくさん歩いた。
夢を見ないといいな。
は、そっと目を閉じた。
彼女が闇から現れる。
何も見えない真っ暗な世界で、能面のような強張った無表情で、その手に銀色に光る刃をきらめかせ、にじりじりと迫ってくる。
音はない。
だから、余計に怖い。
刃が高々と振り上げられる。
彼女の顔は真っ黒で見えない。
てっぺんまで振り上げられた刃が、きらきらと輝いている。
落ちてくる。
「っ!」
はっとした。
誰かがの体を抱き締めている。
真っ暗で、誰だかわからない。
「……子龍? 孟起? ……伯約殿?」
誰だか分からないまま、思いつく字を挙げる。
背中に回った手に、ぐっと力が篭る。
「……俺」
「白風?」
何故ここに?
疑問が沸く。呆けている頭では、何も考えられなかった。
また、見ちゃったのか。
指先を目の近くに持ってきて、じっと見つめる。やはり微かに震えていた。
「」
呼ばれて顔を上げると、白風がの手に何かねじ込んでくる。震える指には力が入らず、はそれを取り落とした。
しゃら、と音を立てて敷布の上に落ちたのは、金色に輝くネックレスだった。
「な」
は、一気に覚醒した。
「何、これ……!」
月明かりを眩く反射し美しく輝く金のネックレスは、いかにも高価そうな細かい細工が施され、トップには大きな赤い石がついている。
「……どうしたの……これ……」
恐る恐る尋ねるに、白風は少し気弱げに背中を丸め、の目を覗き込んだ。
「気にいらねぇ? これじゃ、駄目か?」
何が。
「指輪の代わり。指輪、もう売っちまったって言うし、しょうがなかったからよ、代わりにコレ」
聞きたいのはそういうことじゃない。
「……ぬ、盗んだの……?」
「んなわけねぇ」
きっぱりと否定され、は少し安堵した。
「もらってきた」
だから、何処からだよ!
安堵できねぇー、とは呻き、敷布の上のネックレスと白風の顔を何度も見比べた。
「もらえないよ、こんなの」
「……気にいらねぇか? 違うのにするか?」
だから、そうじゃなくて、とは言うのだが、白風にはイマイチぴんと来ないらしい。
「……こんな高そうなの、受け取れないって言ってるの。何処から持ってきたのか知らないけど、返してきなよ」
ひょっとして、孫尚香の私物なのではないだろうか。それなら、この高価な作りも納得がいく。仕事抜け出したどころの騒ぎではない。だが、今返せばまだ、誰にも気付かれないかもしれない。
「……盗ったんじゃねぇって、言ってるだろ」
の考えが伝わったのか、白風は唇を尖らした。
「あぁ、もう何でもいいから返してきなよ、私はいいって言ったじゃん」
誰がそんなこと頼んだか、と付け足すと、白風はむっとして俯いた。
完全に拗ねた。
困った人だなぁとは頭をかいた。寝汗でパジャマがぐっしょり濡れてて気持ち悪い。早く、帰ってもらえないだろうか。
待てよ。
白風は何処から入って来たのだ。それ以前に、何故の居る屋敷を知っていたのだ。
「ちょっ」
の言葉は最後まで発せられることはなかった。
白風が、の口を塞いだからだ。
顎の辺りにちくちくとした感触がある。
白風が離れても、はしばらく固まったままだった。
「コレでいいや」
何がだ。
「だからそれ、お前のな。いいな」
白風は、牀から飛び降りると明り取りの窓まで飛び上がり、するりと外に飛び出した。
あまりの素早さに、は呆然と見送るしかなかった。
あんな小さな窓から、人が出入りできるというのも驚きだったし、ほとんど天井に近い高さにあるのだ。それを一足飛びに飛び出していく、白風の身体能力の高さは只者ではない。
いったい、何者なのだ。
は固まったまま、白風が飛び出していった窓を何時までも見つめていた。