今は何も考えたくない。
 このままでいい。



 キスって、どんな時にするものなんだろう。
 アメリカとかヨーロッパなら挨拶だろうが、ここは中国だ。
「食わんのか」
 声を掛けられて、我に返った。
 卓の向こうで、馬超が茶碗を手にを見つめている。が箸を取り直したのを見て、馬超も食事を再開した。馬超は箸使いも奇麗だ。育ちがいいのだろう。
 つい、唇を凝視してしまう。厚過ぎず、薄過ぎず、朱くて形のいい、柔らかそうな唇だ。
「……何だ」
 馬超の頬が赤らんでいる。困惑が顔に出ている。先程からずっとこんなことを繰り返しているから、当たり前かもしれない
 んにゃ、とは返事にならない返事をし、箸で魚の切り身をほぐした。
 しばらくを伺っていた馬超も、食事を再開する。
 と、またが馬超(の唇)を凝視する。
 馬超は深々と溜息を吐きつつ、箸を乱暴に置いた。
「……何だ!」
 んにゃ、と返事をし、ほぐした魚を口に運ぶが、馬超はじと目でを見つめるばかりで、食事を再開しようとはしなかった。
「食べないの?」
 が問うと、馬超はまた溜息を吐いて仰け反った。
「じろじろ見られながらでは、落ち着いて食えたものではない。何だ、言いたいことがあるならさっさと言え」
 箸の先をかじって、んにゃんにゃ言っていたも、諦めたように箸を下ろした。
「……あのさ……孟起って、キスする時ってどんな時?」
 きす? と聞き返してくるので、接吻、と言い直すと馬超の顔が赤く染まった。
「な……何だお前、昼から」
 元はと言えば、馬超が昼飯食わせろと言って押しかけて来たのだから、昼で当たり前なのだ。
 そう指摘すると、馬超は頭を抱えた。耳まで赤くなっている。怒ったのかもしれないが、意外に純情なところもある馬超だから、本当に恥ずかしがっているだけかもしれない。
 会話を変えた方がいいだろうか。
「それにしても久し振りだよね、忙しかった?」
 馬超が上目遣いにちらりと視線を向けてきた。
「岱が」
 突然馬岱の名前が出て、は首を傾げる。
「……お前は、追えば逃げる女だから、たまには引けと……だが」
 お前がなかなか来ないから、とぼそぼそと呟くと、不貞腐れたようにそっぽを向いた。顔がますます赤くなる。
 やべぇ。
 も釣られて赤くなりながら、顔を逸らした。
 こいつ、滅茶苦茶可愛ぇ。
 口に出したら絶対怒られるので言わないが、馬超のこういうところは殺人的に可愛いと思ってしまう。
「……何だ」
 物言いたげなのが顔に出たのか、馬超が気付いて突っ込んでくる。う、にゃ、と口篭って誤魔化そうとしたが、馬超は席を立ってのところに来ると、が座っている椅子をごと引き寄せた。
「今」
 は?
「今したい」
 はしばらく呆けて、ようやく『キスする時はどんな時』の返答なのだと気がついた。
「いや、そうじゃなくって、したいと思う時ってどういう気持ちな時かってね」
「だから、今」
 そうじゃないって言ってんだろう、と喚いたが、馬超は強引に唇を合わせてきた。
 ごはん食べてるのに、とずれた反感が湧いた。
 だが、薄目で見た馬超の睫がやっぱり長くて、その影が頬に落ちるのがとても奇麗だった。
 逆らう気力もなくなって、馬超の好きにさせる。力を抜いたのが分かったのか、馬超の方も力を抜いた。
 馬超の指が耳にかすって、ぞくっとする。何度か角度を変えて唇を合わせて、満足したのか馬超が離れた。
 は指を伸ばし、唇をなぞる。表面が熱くなっていて、ぞくぞくした。
「……もっとしたいか?」
 ろくなこと言わないな、とうんざりと馬超を見上げると、馬超は何故か嬉しそうに笑った。
「そんな顔しても駄目だ。俺を煽るだけだぞ」
 物欲しそうな顔をしている、と言われ、蹴ってやろうと上げた足を取られて、膝を割られた。すかさず馬超が体を割り込ませ、閉じられないようにしてしまう。
「……何この体勢」
「もっといいことをしてやる」
 結構です、遠慮するなと押し合っていると、室の扉がばーんと開かれた。
さま、春花がお助けいたしますからね!」
 手に竹の棒を持った春花が、がたがた震えながら立っていた。

 どうやら、春花は趙雲をの夫と勘違いしていたらしい。
 よりにもよって夫の親友(これも勘違いだと思うのだが)が、に無理やり乱暴しようとしている、人に話してはの恥になると、単身乗り込んできたのだという。
 涙ながらに語り、平身低頭で馬超に頭を下げる春花がただただ可愛かった。馬超は膨れていたが、知ったこっちゃない。
「いやぁ、もう、アタクシ愛されてるー」
 遅まきながら昼食を済ませ、食後のお茶を啜りながらは戯言をほざいた。
 馬超はずっと拗ねたままだ。春花の心尽くしの茶にも手をつけようとしない。
「……冷めるよ、孟起」
 じろりと睨めつけられて、は首をすくめた。完全に怒ってしまっている。触らぬ神に祟りなしと、は茶に集中することにした。
「不公平だ」
 え、と顔を上げると、馬超はまだ不貞腐れているような顔をしていたが、目の色がどこか違うような気がした。
 少しだけ、どきりとさせられた。
「……趙雲は、お前の世界を知っているのに、俺は知らない。趙雲はお前と暮らしていたのに、俺は暮らしてない。趙雲がお前の夫扱いで、俺は間夫扱いだ。何だ、この差は」
 暮らしたじゃん、と言うと、屋敷の中にいただけだろう、と言い返された。確かにその通りで、二の句が継げない。
「不公平だ」
 同じ言葉を繰り返し、馬超はむっつりと黙り込んだ。
 何と言ったらいいのだろう。
 も言葉を見失って、なかなか捜せないでいた。
 蜀に帰る道で、馬超がやたらと嬉しそうだったのを思い出した。と一緒に暮らせると喜んでいたのだとしたら、確かに可哀想なことをしてしまったかもしれない。
 でも、はまだ選べないでいたのだ。今も未だ選べていない。選ばないかもしれない。
 待たせているのは、残酷だというなら。
「……孟起、さ……あの……」
「それ以上、言うな」
 馬超が本気で怒った目をに向ける。思わず俯いてしまった。
「俺を喜ばせたいなら、俺を選べ。俺を選んで、本気で惚れて、抱いてくれと足を開いて見せろ。それ以外は、認めんぞ」
 わざと下世話な言葉を選んでいる。を、ではなく、自分を傷つけるようにだ。
 子供だ。
 趙雲なら、もっとうまくやるだろう。誰も傷つかないように、細心の注意を払って別れるのだろう。そして、一人で深く傷ついて、しかも自分でも気が付かない振りをするのだ。
 には、それが分かるようになっていた。
 どうしろというのだ。
 誰も傷つけたくないというのは我がままだと言うなら、誰も選ばず傷つけて別れた方がいいのだろうか。
「俺は、諦めんからな」
 先回りして馬超が宣言する。
「俺は、お前が何と言おうと、お前を俺のものにする。忘れずに覚えておけ」
 物じゃねーって。
 ツッコミを入れると馬超が膨れる。
「物の方がマシだ、口答えしないからな」
 ダッチワイフ扱いかとツッコミかけて、説明するのが面倒だと気が付き、黙った。
 馬超も黙ってしまい、沈黙が落ちた。
「……お前は?」
 突然問いかけられて、首を傾げる。
「お前は、いつしたくなる?」
 キスのことだろうか。
「えー……酔っ払っていい気持ちになった時……とか?」
 予想通り酒を用意しろと言い出す馬超に、は遠慮なく冷たい視線を送った。
「誰にでもしたくなるわけじゃないよ」
「俺は」
 どうだと訊かれても。
 は馬超を呆れたように睨みつけていたが、溜息を吐いてばったりと卓に倒れ伏した。
 馬超は、ただじっとを見つめる。
 しばらくして、が僅かに顔を上げ、だが馬超と視線が合うとすぐに逸らした。何だかな、もう、とぶつぶつ言っているのが聞こえてくる。
 勢いをつけて立ち上がったが、馬超の元に大股で近付いてくる。手と足が同時に出ているのはご愛嬌か。
「……目くらい、つぶってよ」
 馬超は声もなく華やかに笑い、は思いがけないその笑みに心臓を射抜かれたような気がした。
 無意識でやっているとしたら、たいしたジゴロだ。ジゴロという言い方は古いか。でも、馬超は昔の人間だから、早過ぎるくらいかもしれない。
「早く」
 がうろたえていると、馬超がの腰を抱き寄せて強請る。
 ええい、口をくっつけるだけだ。ままよ、と勢いで唇を突き出すと、突然馬超が笑い出した。
「何だ、その顔は」
 かなり面白かったらしく、涙を浮かべて笑っている。頭にきて膝を蹴ると、泣き所に当たったのか呻いて椅子から転げ落ちた。
 ばかめ。
 床に転がって仰向けに倒れる馬超のそばに屈みこみ、顔を抑えて口付けた。
 軽く触れただけで、体がぞくぞくとする。
 すぐに身を起こした。
「はい、おしまい」
 顔が熱い。手で扇ぐが、ちっとも涼しくならなかった。
 片手が引っ張られる。
「……もう一回」
「もうしない、一回だけだって」
「もう一回」
 起き上がりもせずにの手をぐいぐい引っ張ってくる。
 子供め。
 馬超の半身に覆い被さるようにして、唇を触れさせた。馬超の手がの頭を押さえつけ、軽く触れ合っていた唇をより深く重ねる。舌が触れ合った。
 体の痺れが、体の奥の方から波のように悦を押し立てる。蕾が、きゅっと締まった。
「……なんか、私が孟起を押し倒してるみたいだね」
「押し倒してもいいぞ」
 笑いながらを抱き締める馬超の顔が、不意に切なげに顰められた。
 艶やか過ぎて、卑猥だと思ってしまった。欲情させられそうになる。
 は、必死に意識を逸らした。
「……、俺を選べ」
 偉そうに命令する言葉が、まるで縋りつく子供の声のようで、は冗談でも突き放せなかった。
 けれど、うん、と頷くことも出来なくて、はただ沈黙した。
 馬超より自分を好きになってくれる人などいないと思う。どうして選べないんだろう。
 考え込んでしまったの頬を、馬超がするりと撫でた。
「……もう一回」
 馬超の指が、の唇をなぞる。
 誘惑上手だ。ホストになれる。専門なら、だが。
「……これで最後ね」
 軽く触れた口付けは、何の拍子でか『ちゅっ』と音がして、は非常に恥ずかしい思いをした。
 馬超が微笑み、の頬をまた撫でた。
「もう一回」
「……おい」
 転がっている馬超に見切りをつけ、は椅子に掛け直し、冷えてしまった茶を啜った。
 湯飲みを空け、お代わりを注いで、それを飲み干してもまだ馬超は転がっていた。
 も馬超も意地っ張りだ。
 春花が、戻りの遅い馬超に痺れを切らした馬岱を案内して部屋に入った時も、まだ二人の冷戦は続いていた。
 まったくもって、見ているこちらの方が恥ずかしい方達ですねという馬岱の正直な感想に、が血の涙を流して不貞寝に突入したのは、この際仕方のないことだろう。

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