厚くて高い壁が周りを囲んでいる。
 膝を抱えて空を見上げて、一人ぼっちで気が楽だ。



 引き出しの中から小箱を取り出し、ハンドタオルに包んだネックレスを取り出す。
 牀に上がってううむと悩む。
 今日は探しにも行けなかった。
 考えて、やはりもらえないと思った。見れば見るほど高価なものだ。こんなものは、そう易々ともらっていいものではない。
 例え、キスとの引き換えだとしても。
 つか、私は売女かって。
 体の(キスだが)代償に光物もらったなど、のプライドが許さない。
 城に行って探せば早いのかもしれないが、そんな理由で入れてもらうのも何だか申し訳ない。第一、理由を話すに話せないではないか。
 呉の人達が帰る時に、行列が見える所で張り付くか……でも、見つけてもどうやって返したものだかなぁ……。
 行列に駆け寄るだけで相当目立つと思われた。
 やはり、白風がまた仕事をサボって抜け出すのを待つしかないだろうか。
 ごと。
 何処からか物音がした。
 門の外はともかく、屋敷の中にはしかいないはずだ。広い部屋の窓や扉はすべて鍵がかかるようになっていたし、用心して寝る前にすべて施錠するように心掛けている。誰かが訪問した時は、庭先から回り込んで声を掛けることになっている。
 きょろきょろと見回し、明り取りの窓に人影を見つけた。そう言えば、あそこだけは鍵がかかるようになっていない。
 あんな所から、当たり前のように入ってこようとする馬鹿には、心当たりは一人しかいなかった。
「……白風?」
「おぉ」
 やはり、白風だった。前回もきっと、こうやって入ってきたのだろう。上半身を先に部屋の中に入れ、よっと小さく掛け声をかけると、壁を手で押すようにして下半身も小さな枠からすべり込ませてきた。頭から落ちる、と思った瞬間、くるりと反転して見事に着地する。音もしない。見事なものだ。
 猫みたいだな、と思った。
 白風はすっくと立ち上がると、人懐こい笑みで近付いてくる。
「おー、今日はうなされてねぇみたいだな」
 良かった良かった、などと呑気に言いながら、牀にどかっと腰掛けた。
 うなされるも何も、まだ寝ていないのだから当たり前だ。
「何、心配してきてくれたの」
 おうよ、と笑う。隠そうともしない。それ以前に、裏表というものがまったくないのかもしれない。
「……ま、いいや。ちょうど良かった、私も白風探してたんだ」
「俺を?」
 は白風の手を取ると、ネックレスをねじ込んだ。
「返す」
 白風は、とネックレスを交互に見遣ると、不貞腐れたように唇を尖らせた。
「……何だよ、気に入らなかったのかよ」
「気に入る入らないじゃなくって、こんなのもらえないから」
「何でだよ」
 もらう理由がない。無銭飲食しかけたのは白風だけではない。も食べたから、指輪を渡したのだ。白風だけだったら、働いて返せと置いて帰ったかもしれない。
「だから、いらない」
「じゃあ、捨てちまえよ。俺だっていらねぇ」
 唖然とさせられる。こんな高そうな物、捨ててしまえと言える神経が分からない。
 何処かのお坊ちゃまなのだろうか。それにしては妙に腕っ節も強いし、何だかイメージにそぐわない。
「……じゃあ、もらうよ……でも、何も返せないよ、私」
 溜息を吐きつつハンドタオルでネックレスを包もうとすると、白風がネックレスを取り上げた。
「んな、嫌そうにもらうんだったら、俺が捨てる。他の、何かもっとお前が喜ぶ奴持ってくる」
 言うなり飛び出そうとするので、慌てて服の裾を掴んで引き留めた。
 物凄い力で引っ張られ、は牀の上に倒れ伏した。離さなかった自分の手を、褒めてやりたい。
「……何だよ、離せよ」
「離すか、このボケ! 他の何持ってきたって、喜びゃしないっつーの。あんた人の話聞いてなかったでしょ」
 倒れた拍子に敷布にこすって、肘の下から手首まで赤くなってしまった。ひりひりとするのを撫でさする。
「じゃ、何持ってきたら喜ぶんだよ」
「何持ってきたって喜ばないって言ってんでしょー。聞け、人の話」
 なかなか痛みが引かない。結構な勢いで擦ってしまったらしい。
「……痛ぇか?」
 が顔を上げると、白風が情けない顔をして赤くなったところを覗き込んでいる。不意に舌が伸び、の腕をべろりと舐めた。
 ぎゃ、と声を上げて腕を振り上げる。白風はべろを出したまま、きょとんとしてを見上げている。
「怪我したわけじゃないんだから、唾なんてつけんでよろしい」
 驚いて、皮膚の痛みも忘れてしまった。
「……それ、もらう。ちょうだい」
 段々恥ずかしくなってきて、頬が赤くなるのを誤魔化そうと白風の手にあるネックレスを指差す。
「……だってお前、コレ嫌いなんだろ」
 嫌いなのではなく、高価すぎるからもらえないと言っているのだ。まったく話が通じてない。
「じゃ、好きなんだな? コレもらうと、お前、嬉しいんだな?」
 好きか嫌いしかないのか、この男は。
 面倒で、適当にうんうんと頷くと、途端に機嫌を直してにこにこと笑い出した。
「じゃ、やる」
 つけてやると言いながらの後ろに回りこむ。こんな夜中に着けなくてもいいとは思うのだが、また機嫌が悪くなると面倒なので黙っていた。
 不器用なのか、なかなかネックレスを着けられないようだ。
 首筋をくすぐられて、こそばゆい。
 が身を固くして耐えていると、背後の白風が満足げに鼻息を吹きかけてきた。どうやら留められたようだ。
「な、こっち向けよ」
 が白風を振り返ると、白風は得意げに鼻を蠢かしていたが、すい、と指を伸ばしての髪をすくい、耳に掛けた。
 耳は弱いのだ。
 思わず小さく声を立てると、白風の表情がひどく真面目なものに変わった。
「……、誰かの妾か何かなのか?」
「誰が妾か」
 妻でも何でもない。ちょっと人様の役に立つことをして、褒美にこの屋敷を借り受けているだけだと、簡略に説明した。呉の人間に詳しいことを話すのも憚られたし、話しても分かってもらえないだろう。特に白風には、細かく話しても無駄のような気がした。
「じゃあ、別に決まった男がいるとか、そういうわけじゃないんだな?」
「……いや、決まった男って言われても」
 選べとは言われているが、どう説明したものだろう。説明してもいい話なのかも分からない。
 話が見えずに戸惑っていると、白風が飛びついてきた。
 ぎゃ、と呻いている間に、白風はに馬乗りになった。完全に押さえつけてから、上から見下ろしてくる。
、俺と一緒に来い。ぜってぇ後悔させねぇから」
「何ですと」
 反射で零れた言葉に、白風はげらげらと笑う。
「……あー、面白ぇ。やっぱ、お前最高だぜ。な、俺と一緒に来いよ、な」
 言うなりの耳に口付けをしてくる。
「や、馬鹿、やめろっての!」
 じたばたと暴れるが、白風の馬鹿力には敵うべくもない。加えて、執拗な耳への愛撫に腰砕けになってしまう。
「ここ、弱ぇ? 気持ちいい?」
 舌先で耳を突付かれて、ぞくぞくとしてしまう。昼間に馬超と戯れていたせいもあるのか、体が熱くなり始めた。
 まずい。
 は動揺を隠せずにいた。趙雲に『いやらしい体』と言われたことを思い出す。
 違う!
 別に、誰でもいいというわけじゃないし、淫乱だというわけでもない。断固否定する。つか、御免被る。ここで流されてなるものか。
「馬鹿、この、やめいって、白風!」
 白風の顎を、ぐいっと押し退ける。
「だいたい、だいたい……そうだ、白風! あんた、何で私がここにいるって知ってんのよ!」
 の勢いに圧されたのか、白風の動きが止まった。
「え、いや、ちっとつけて……」
「つけてきたんかい!」
 は白風の下から抜け出し、正座した。てしてしと牀を叩き、白風にも座れと促す。
 完全にに呑まれた白風は、首をすくめながら胡坐をかいた。
「何でつけたりするの」
「いや、だってお前」
「だってじゃない、だってじゃ」
「……これきりになっちまうと思ったからよ」
 そんなん理由になるか、とが吠える。白風はただ首をすくめた。
「だいたい私、好きな人いるもん」
 二人もだけど、とこっそり呟く。白風には聞こえなかったのか、ぎょっとしたように目を丸くした。
「だから、こんなことしないで。困る」
 ぜいぜいと弾む息を抑えて、努めて冷静に言い放つ。白風が何か言いかけ、口を閉じた。
 むっつりと黙りこんだ白風を、はじっと見つめた。
「もう、帰りな。また抜け出してきたんでしょ。心配してきてくれたのは、有難いけど……」
「……そうだよ、心配して来たんだよ」
 白風が突然顔を上げる。
 やばい、薮蛇だった。
 膝に置いていたの手を、白風が握り締める。痛い。白風の顔が近いが、離すこともできない。
「お前が、またうなされてんじゃねぇかって、すっげぇ気になってた。お前が好きな奴ってのがどんな奴か知らねぇ。でも、あんなうなされ方してんのに、お前を一人にしちまう奴なんか、やめちまえよ。絶対俺のがいいって。俺なら絶対、お前をほっとかねぇ。一晩中でもそばにいて、お前が厭な夢見れねぇようにしてやる。だから、俺と一緒に来い。絶対後悔させねぇ、だから」
 絶対、絶対と繰り返す。何の根拠があって『絶対』などと言えるのだろう。は、白風の熱い言葉とは裏腹に、気持ちがどんどん冷えていくのを感じていた。
「……悪いけど、絶対なんて言葉信じられない。私が夢でうなされているのだって、私が内緒にしているだけだから。勝手なこと言わないで……もう、帰って」
 二度と来ないで。
 には、白風の言葉を受け入れることは出来なかった。
「信じられねぇのかよ」
「信じられないよ」
 白風にとって自分の何処がいいのか、何が気に入ったのか分からない。何度も会ったという訳でもないのだ。ほんの一日、三度顔を合わせた。それだけだ。
 言葉が途切れた。
「……どうしたら、信じてくれんだよ」
「どうも。何したって、信じられない」
 は、首の後ろに手を回し、ネックレスを外した。白風に差し出す。
「ごめん、やっぱり受け取れない。これ持って、もう帰って」
「いらねぇ」
 白風はむっつりと黙っている。がしつこくと手を差し出すと、白風の手がそれを弾いた。
 甲高い音がして、ネックレスは部屋の隅に飛んだ。
「いらねぇって言ってんだろ!」
 そのまま立ち上がり、に背を向ける。
 帰るのかと思った。だが白風は、立ち尽くしていた。何かを待っているようにも見えた。
「……わりぃ」
 振り返りもせず零れた声音が、痛々しい。
 は唇を噛んで、言葉を飲み込んだ。ここでも謝れば、白風の心も軽くなるかもしれない。また笑って話が出来るようになるかもしれない。だが、はここでこの関係を断たねばならないと思った。白風の、いや、自分の為にならない。
 好きになってもらっても、困るのだ。
 胸の内で、ごめんね、と呟いた。
 白風の姿が、明かり取りの窓から消えた。
 どっと疲れて、うずくまった。手が痛い。胸は、更に押し潰されるように痛かった。
 ああ、もうやだ。
 気持ちを向けられ、受け入れられないことがこんなに辛いこととは。
 傲慢だと思う。惨いと思う。馬鹿みたいだと思う。
 だが、どうすればいいのだ。
 は牀を降りて、部屋の隅に落ちたネックレスを拾い上げた。
 紐が切れていて、床に金の珠が弾けて散った。
 ハンドタオルを取って、まずネックレスの大本を載せ、散らばった金色の粒を拾い上げる。
 涙が零れた。
 泣きながら、拾う。拾った粒の代わりに、涙の粒が落ちる。
 情けないような、悔しいような、辛いような、ただ悲しいような、色んな感情が渦を巻いてどっと溢れた。
「……う、うぇ、え……ぐ……うー……」
 嗚咽が漏れる。ハンドタオルを握り締める。中に包んだネックレスが、指に食い込んで痛い。だから、もっと強く握り込んだ。
「うぇ、うぐ……うぅ……」
 しゃがみ込んで、膝に目を押し当てては泣いた。
 誰もいない。一人だった。
 安心して、泣いた。

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