どこで間違えたか覚えてない。
 だから、間違った答えが直せない。



 誰かが大声で呼んでいる。
 は、鎖で繋がれたように重い手足を無理やり引き摺って身を起こした。
 結局朝までボロ泣きして、そのまま寝入ってしまった。目元が腫れぼったい。
さまー、さまー!」
 春花の声だ。
 珍しい、春花がわざわざ起こしに来るなんて。いつもは、が起きるまで律儀に待っていてくれる。下手すると何時までも寝ていそうなので、太陽が門の屋根を越えたら起こしてくれるようには言っている。
 さてはもうそんな時間かと、よろよろと起き出し鍵を開けた。
さま、早くにすみません!」
 すみません、ということは、まだ早いということか。
 頭が回っていないので、馬鹿なことを考えた。
さま、そのお顔は……如何なさったのです、いったい……ああ、そんなお顔、お見せできませんよね、如何しましょう!」
 何か、さりげなく酷いこと言ってないかね、君。
 眩しい朝の光が、何かに遮られた。
 何だと顔を上げると、趙雲が驚いた顔をして立っている。
 変な顔、とは思った。

 春花が持ってきてくれた熱いお絞りで目元を覆う。
 塩気が残っているらしく、目元がぴりぴりとした。
 痛ぇ、畜生と呻くと、趙雲の声が近くから降ってきた。
「いったい如何したというんだ」
 頭を撫でられる。また、少し泣きたくなった。
「……なんでもない。それよか子龍、どうしたの」
 忙しいのではなかったのか。最後の素っ気無い手紙以来、何の音沙汰もなかった。手紙も出せないほど、忙しかったのではなかったのか。
「孫夫人がお呼びだ」
 迎えに来たと言われ、誰を、と聞き返す。趙雲が黙った。
「……は? え? なに、私?」
 そんな馬鹿な。孫夫人ということは、孫尚香のことだろう。
「え、何で」
「私が聞きたい」
「私も聞きたいよ。え、何でやん」
 顔を上げると、趙雲が温くなったお絞りを取り上げて、置いてあった桶の湯ですすいでくれる。絞って、また熱くなったお絞りをの目元に当てた。
 悪戯心を起こして、趙雲の手ごと押さえてみた。
 温かい。お湯に浸していたせいだろうか。意外とごつい指だ。
 趙雲が笑っている気配がする。
 ああ、好きだ。
 滅茶苦茶ときめいてしまう。
 子宮がきゅんきゅんする。
 とか考えて、いやぁ、もう下品な女だなぁ! と突っ込んだ。自分のことだったが。
「……何をにやにやしているんだ……本当に、何かあったのか」
 何も。ただ安心するだけだ。
 趙雲の手を、ぎゅっと掴む。
 何もない。もう、終わったのだから。
「子龍、私、服ないけどどうしよう」
 不意に思いついた。蜀の人ならいざ知らず、呉の姫君の前でいつもの服はまずくなかろうか。
「いつもの服で構わないということだった。孫夫人の方は、のことを詳しく知っているようだったのだが……本当に何も知らないのか?」
 知るも知らないも、会ったこともない。
 突然、白風の顔が脳裏に浮かんだが、まさか孫尚香と何か関係があるのだろうか。
 ひょっとしたら、副官とかかもしれない。あの腕っ節の強さは尋常ではない。尚香の護衛兵としては、申し分ない実力だろう。嫁入りに男がついてくるのはおかしな話かもしれないが、孫権が大事な妹を心配して、ということなら充分考えられる。
 それに、そうだとしたらネックレスの件も説明がつくのだ。
「ともかく、行ってみる」
 劉備の嫁なら、趙雲よりも立場が上ということで、と言うことはに拒否権はない。OLの悲しい習性かな、上司の命令はほぼ絶対なのだ。
 目の腫れがひいてからだな、と趙雲が笑った。
 キスしてくれないかな、と思ったが、唇には何の感触も落ちてこなかった。

 目の腫れは何とか引いたが、赤いのは何ともならなかった。マシになったようだ、ということで、急ぎ身支度と朝食を済ませ、趙雲の用意した馬車に乗った。
 趙雲と同乗で構わなかったのだが、尚香の心遣いと聞いては乗らないわけにはいかない。
 初めて乗る馬車は、なんとなく座り心地が悪かった。
 しばらく揺られて、城に着く。
 趙雲の先導で城の奥に進む。ここまで来るのは初めてかもしれない。きょろきょろしながら歩いてしまう。
 女性の護衛兵が守る一際大きな扉の前で、趙雲は拱手の礼を取る。女性も応えて、扉を開けてくれた。

 趙雲はその場に留まっている。
「……子龍は?」
「私は中に入るわけには行かない」
 一人で行くのだと思うと、途端に心細くなった。趙雲が困ったように微笑む。
 趙雲を困らせるのは嫌だった。背筋をしゃんと伸ばす。
 中に進むと、背後で扉が閉まった。
 やはり、心細い。でも、進むしかない。嫌なことは、さっさと済ますに限る。
「孫夫人、です。遅くなって、申し訳ありませんでした」
 奥から、明るい可愛らしい声で入室を促す声がする。
 おずおずと奥へ進むと、ショートカットの若い娘が笑顔で出迎えてくれた。美人だ。
「私が尚香よ。急に呼びつけて、ごめんなさいね」
 やはり、会った覚えがない。名前を名乗るということは、尚香もに会うのは初めてということだろう。
「お初にお目にかかります、孫夫人。あの……」
「尚香って呼んで頂戴。私もあなたをって呼ばせてもらうから」
 気軽に声をかけ、の腕を取って更に奥へと誘う。寝室に入ってしまうのではないだろうか。気後れして、足に力を篭めてしまった。
 尚香が気付き、に耳打ちする。
「ごめんなさい、黙って着いてきてもらえるかしら。人払いはしたんだけど、外に居る衛兵に聞かれたくないの」
 そう言われては着いていかざるを得ない。奥の部屋はやはり寝室で、そしてやはり白風がいた。
 白風は、の姿を見て立ち上がる。
 少し苦い顔をしている。は、顔を合わせられずに俯いた。
「なぁに、お葬式みたいに。いつもの兄様らしくもない」
 兄様。
 にいさま?
 何?
、知ってるわよね。孫伯符、私の兄よ。私の婚姻に、父様の名代で着いて来てくれたの」
 孫伯符。
 はくふ。
 はくふう?
「ほら、兄様、何してんの。わざわざ私に頭を下げて呼び出したのに、突っ立っちゃってしょうがないわねぇ」
 孫伯符ということは、孫策だ。
 小覇王だ。
 ということは。
「ああ」
 は、にっこりと微笑んだ。釣られて、白風……孫策も、固くなりながらも口元を綻ばせた。
「孫、伯符様。お噂はかねがね!」
 孫策と尚香が、ぴたりと動きを止めた。
「……え……あの、。兄様、よ? 孫伯符……よ?」
「ええ、お会いできて、光栄に存じます!」
 にこにこ。
 は満面の笑みを浮かべている。
 孫策は、呆然としていた頭を勢い良く振り、に掴みかかった。
「ちょ……おい、、冗談よせよ、俺だって!」
「はいぃ?」
 は微笑を浮かべながら首を傾げる。
「伯符様とお会いするのは、本日が初めてと存じますが。呉の皆様がいらっしゃってから、城に参内するのは初めてですし!」
「いや、だからほら、川岸で……」
 何のことでしょうかぁ、とはにこにこしている。
 孫策は、の頭がどうかしてしまったのだと思った。慌てるばかりで、如何したらいいのかまったく分からない。助けを求めるように尚香を振り返るが、尚香にはもっと状況が飲み込めていない。
「伯符様とは、お会いしたことありませんよ、伯符様とは!」
 の口元が、微かに痙攣している。
 孫策が、はっとして冷や汗をたらりと流した。尚香が目敏く気付き、孫策を肘で突付く。
 は素早く一歩下がり、孫策の手を払いのけた。
「御用がないようですから、失礼してよろしいでしょうか!」
、待て、俺が悪かったから、だから待てよ」
 孫策が手を伸ばすが、は恐ろしいほど素早く身を引いた。
 笑みを崩さぬまま一礼すると、さっと寝室を飛び出していく。
「お邪魔いたしましたぁ!」
 大きな声を上げると、扉が開く。は逃げるように素早く廊下に出ると、くるりと身を翻し、拱手の礼を取った。
 ぱたん。
 扉が閉まり、の姿を隠した。
 孫策は、腕を伸ばした体勢のまま固まってしまっていた。
「何、兄様、どういうことよ!」
 尚香が、一人取り残された苛立ちのまま孫策に掴みかかる。孫策は、己の髪を勢い良く引っ掻き回した。
「……俺、あいつに俺の名前名乗ってなかったんだよ……代わりに、白風って名乗って……だから、あいつ怒っちまったみたいだ……」
「はくふう? 何それ、何でそんなことしたの!」
「仕方ねぇだろ、だってあん時は、やっと抜け出した所だったし、名前なんか名乗ったら好き勝手できねぇじゃねぇか!」
 自業自得じゃないの、と怒鳴られて、孫策は口をへの字に曲げた。
「……どうするの、すっごく怒ってたみたいだけど」
「どうするって、お前が言ったんじゃねぇか、ちゃんと申し込まねぇからだって」
「だって、名前も名乗ってないなんて知らなかったもの! 気に入ったからってその場で押し倒すなんて、普通の女だったら誰だって嫌に決まってるでしょ!」
 申し込み以前の問題だ。
 孫策はまた口をへの字に曲げて押し黙った。
「……ねぇ兄様。そんなにあの人が気に入ったの?」
 おう、と重々しく頷くのに、尚香は溜息を吐いた。
「あの……こんなこと言うと何だけど、あの人、そんなに綺麗ってわけでもないし、可愛いってわけでもないでしょう……年だって、兄様と変わらないんじゃないの? 私から見れば、大喬姉さまの方がずっと奇麗で可愛いと思うわよ。どうしても、連れて帰るって言うの?」
 おう、と迷いもせずに孫策が頷く。
 尚香は呆れて物が言えない、とばかりに口を開けた。
「何でよ。何で、そんなにあの人がいいの」
 孫策はむ、と一声唸った。今更考え込んでいるようだ。尚香は呆れながらも、孫策の言葉を待った。
「……あいつ、泣くから」
 予想外の言葉に、尚香は毒気を抜かれて呆然とした。
「夢でよ、何かよくわかんねぇけど、夢見てうなされて、あいつ泣くんだよ。ほっとけねぇじゃねえか」
 だから、俺が連れて帰って、あいつがうなされないようにしてやるんだ。
 訳がわからないわよ、と尚香がキレると、孫策も負けずに俺だってわかんねぇよ、と怒鳴り返した。
「……連れ戻してくる」
 孫策は言うなり、身を翻して窓から飛び出していった。尚香が止める間もない。
「……何処に行ったか、分かってるのかしら……」
 尚香は半ば呆れ、半ば心配して駆け去る孫策の後姿を見送った。

 白風は、孫伯符だった。
 妻帯者じゃねぇか!
 の怒りは、頂点に達していた。騙す騙さない以前の問題だ。
 二喬の一人を嫁にして、まだ足りねぇってか、ふざけやがって。
 ぎりぎりと歯軋りする。
 下手に知識があるもので、まさか孫策が存命しているとは知らなかった。そのうえ、大喬を嫁にしている孫策が、自分にちょっかいかけてこようとは思いも拠らなかった。
 孫策の愛妻家ぶりは、史実でもゲームの中でもよく知っている。
 要するに、をからかっているのか、ふざけているのかどちらかだろう。
 どちらも御免だ。
 は足音も高く、城内を歩き回った。出口を探しているのだが、一向にそれらしき所に出ない。歩みを止めるのも癪で、遮二無二歩き回る。
 畜生、昨日流した水分返せ!
 そんなことを考えていると、また水気が湧き上がって来る。熱い、に近い、温かい水がぶわっと広がり、目の水晶体に沁みる。
 畜生、もう、水の一滴だって惜しいぞ!
 指で押さえる。盛り上がっていた水の珠が裂けて、指を伝って流れ落ちた。鼻の奥がじんとする。
 トイレでもないだろうかと辺りを見回すが、よく分からなかった。
さま」
 突然名を呼ばれ、振り返ると、見知らぬ男が拱手の礼を取っていた。
 誰だろうと思いながら、とりあえず頭を下げる。
「ご案内いたします、こちらへ」
 男が手で指し示しながら、慇懃に腰を屈めてを促す。
 誰だろう。着いて行っていいものだろうか。
 迷ったものの、他にどうしていいか分からない。
 は目元を袖で乱暴に擦り、小走りで男の背中を追った。

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