が熱を出して何日目か、孫策にはもう分からなくなっていた。
 あんなに楽しみにしていたのに、一度は気を取り直して、諦めない、絶対モノにしてみせると鼻息を荒げていたのが嘘のように消沈していた。
 孫策の気質として、溜息はつかない。ただ頬杖をついてぼんやりとしている。
 それがどれだけ周囲に影響を及ぼすのか、きっと分かっていないのだ。
 周瑜は、乳兄弟の代わりに盛大に溜息を吐くと、手にした竹簡を丸めて紐で閉じ、元の書架に戻した。気になって、調べ物どころの話ではない。
「孫策、いい加減にしないか」
 周瑜の苛立ち混じりの声も、ぼんやりしている孫策には届かなかったらしい。同じことを、今度は前の倍ほどの声で繰り返すと、ようやく夢から覚めたように辺りを見回し、周瑜の姿を見出すと
『よぅ、周瑜』などと間抜けたことを言った。
 周瑜は再び溜息を吐く。
 美周カなどと評される彼の様は、溜息を吐いても尚麗しい。本人は努めて気にしていない風を
装っているが、多少引け目を感じることも多々ある。美しいという評価は、周瑜にとってはコンプレックスの一つなのだ。どれだけ努力しても認められにくい。造作の美醜と当人の努力は別物だと思うのだが、なかなかそう思ってはもらえない。小喬がまず気に入ったのは周瑜の顔と言うから、その点に関しては有難かったのだが、周瑜の心情は複雑だ。
 ともあれ、悩み多き美周カの目下の最大の悩みは、目の前で呆けている未来の主のことだった。
「君が是非と言うなら、私も何も止めだてすまい。今すぐあの女を捕らえ、劉備達を斬り捨てよう」
「駄目だ」
 呆けていた孫策の目に、一瞬で光が戻る。
「んなことしたら、は絶対に俺達を許さねぇ。やるなよ、周瑜」
 ぎらぎらとした目で周瑜を睨めつける。周瑜は、三度目の溜息を吐いた。
「誓ってしない、孫策。言ってみただけだ。君があまりにもおかしくなっているからいけないんだ……頼むから、しっかりしてくれ」
 周瑜が諭すように孫策の肩に手を置く。途端、孫策は幼い子供が母親に叱られたようにしょんぼりと俯いた。
「……悪ぃ、周瑜」
 あまりに力なく項垂れるので、周瑜は何と言葉をかけていいか分からなくなる。
 諸葛亮がこれを狙ってあの女を寄越したのだとしたら、周瑜はそう考えると歯軋りしたいような気にさせられる。純粋な孫策を弄するようなやり口を、許しておくわけにはいかない。
「なぁ、周瑜。俺、どうすればいい?」
 周瑜の胸の内を知ってか知らずか、孫策は無防備に相談を持ちかける。
 斬ってしまえ、そう言いたいのを堪えるのに、周瑜は唇を強く噛み締めた。

 周瑜と別れて、孫策は一人の部屋へと通じる廊下を歩いていた。
 結局どうしたらいいかは分からなかった。
 周瑜は小喬のこともあってか、大喬さえ居れば、孫策には他に誰も要らないはずだと説教じみたことを懇々と説いた。今は気の迷いからに夢中になっているだけで、実際側室にでも迎えれば目が覚めるだろう、とも言った。何であれば、周瑜自らが諸葛亮に掛け合ってもいいと言ってくれたが、周瑜自身は劉備の言葉……は臥龍の珠だという話は、諸葛亮の策だと疑っているらしく、出来得るなら孫策のそばには置きたくないとも付け足していた。
 孫策にはどうでもいい話だった。
 ただが自分の意志で孫策の傍らに居て、孫策に笑いかけ、孫策の為に歌ってくれたなら、それで良かった。
 頭はいいのかもしれないが、腕っ節はからきし弱い、裏も表もなく感情のままに笑い怒るが、孫策の命を狙えるわけがない。
 弱くて、すぐ泣く女。
 その癖強がりを言って、自分を曲げようとしない女。
 瞼の裏にはその顔が焼きつき、耳元ではその声が囁きかける。
 あ、すげぇ好きだ。
 目の端の方から熱くなる。鼻がぐすぐすと鳴るので、勢いよく啜り上げた。
 どうしたら手に入るのだろう。
 笑いかけてくれなくては、意味がないのだ。蜀での別れの夜、孫策に指を伸ばしてきたの、やや緊張した顔が思い浮かぶ。
 好きとは言ってくれなくても、きっとそうだと確信した瞬間だったのに。
 に会いたかった。眠った顔でもいい、見たかった。
 足を早めた瞬間、誰かとぶつかりそうになって慌てて身を翻した。
「わ、わり……」
 謝ろうとした瞬間、相手を確認して愕然とする。
「そ、孫策様……」
 他ならぬ大喬だった。
 言いようのない後ろめたさに、孫策は思わず大喬から目を逸らしてしまった。そんな孫策を、大喬は潤んだ黒い大きな目で見つめた。
「どちらへ行かれるんですか、孫策様」
 努めて笑顔を浮かべる大喬に、孫策は言葉が出てこない。ちょっと、という至極曖昧なことしか言えなかった。けれど、大喬はにっこりと微笑んで、そうですか、と流してくれた。
 先程までのことでいっぱいで、大喬のことを思いやれていなかった自分を責める。
 大喬のことは好きだ、愛しているし、妻としたことを誇りに思っても後悔したことはない。
 だが、のことも捨て置けない。この手を拒み、自分のものにはならないと吐き捨てた女、なのに大喬以上に愛しく思ってしまう。
 大喬には自分しかいないが、には他にちゃんと想われている相手がいる。自分がを諦めたとしても、必ずあいつらがを守る、分かっている。
 俺が、守りたいんだ。
 違う。
 俺を選んで欲しいんだ。
 あの夜の、こちらに向けて差し伸べたあの指を、今、もう一度差し伸べて欲しい。
 孫策の心のうねりは、全て表情に表れていた。言葉よりも雄弁な表情に、大喬も悲しげな笑みを浮かべる。
「……孫策様、あの……私、実家に戻っていましょうか……」
 突然の大喬の申し出に、孫策は胸を射抜かれるような衝撃を覚えた。
「なっ」
 驚きが先に立ち、言葉が詰まって声が出ない。
 大喬は、ゆるゆると頭を横に振る。
「……いいんです、私……孫策様が苦しんでいるの、見たくないんです……」
 孫策の手が瘧にかかった病人のように震え、大喬の肩をようやく掴んだ。
「そ」
「駄目だ!」
 大喬の体を引き寄せ、腕の中に閉じ込める。あまりに華奢で軽い大喬の体を、折れてしまえと言わんばかりに抱き締める。
「孫策様」
「だ、駄目だ……駄目だ、ここにいろ、頼むから……ここにいてくれ!」
 説得も何もない、みっともない懇願に、大喬は自分の言がどれだけ深く孫策を傷つけてしまったのかを知った。
 惨いことをしてしまった。
 大喬は、愛する男を傷つけてしまった罪悪感に打ちのめされた。震える指を孫策の背に回し、慈母のように優しく慈しみながら抱き締める。
「……はい、孫策様。ごめんなさい、私、何処にも行きません……行きませんから……」
 大喬の目から、小さな真珠のような涙が一粒、頬を伝って落ちた。

 大喬と別れて、孫策は廊下を歩いていた。
 足元が覚束ない。指先はまだ痺れたように震えている。
 大喬と別れて生きていくなどと、考えられない。今、死よりも深い恐怖感と共に思い知らされた。
 だが、を手放すこともまた考えられなかった。
 の国では、一人の男は一人の女とだけ結ばれるという。孫策は鼻で笑ったが、もしそうなら、自分はどうすればいいのだろうか。
 大喬か、か、どちらか一人を選ぶなど考えられない。どちらも必要だ。どちらかが欠ければ、孫策の心もまたえぐられてしまう。
――大喬が居れば、君には他に誰も必要ないはずだろう?
 違ぇ、違ぇよ周瑜。俺には、大喬もも、どっちも必要なんだ。どっちかが居ればいいとか居なくてもいいとか、そんなん考えられねぇ!
 考えたくない、今はただ、の穏やかな寝顔を、そうでなければ柔らかな微笑を、せめて優しげな愛の歌を得たかった。そうしたら、こんな情けない気持ちから逃れられる。
 の室が近付いて、扉が見えてくる。
 孫策の口元に笑みが浮かんだ。
 一歩、大きく踏み込んで、孫策の足が止まる。
 誰かいる。
 話し声がする。と、この声は趙雲だ。
 瞬間、足元が石のようになり、足元の固い床が突然消え失せたような落下感を感じた。五感は機能をがくんと低下させ、身の内にある心臓だけが、忙しなくばくばくと言っているのが聞こえた。
 暗闇に閉じ込められているような孫策に、の声が流れ込む。
『私、孫策のこと、嫌いじゃないよ』
 好き、ではなく嫌いではない。
 それは、いったいどんな効力のある言葉なのだろう。
 嫌いではない、ということは、好きでもない、そういうことなのではないだろうか。
『秘密、ね。……もう、言わないから……二度と、言わないから』
 どうして。
 何故、もう言わない? 嫌いじゃない、そんな曖昧な言葉さえ、もう聞くことは叶わないのか。
『早く蜀に帰りたい』
 心臓が、ばくん、と激しく波打った。
 それは、あたかも見えない何者かが孫策の心臓を握り潰してしまったような、激痛を伴う激しい音だった。
 孫策は震える唇を噛み締め、音もなく後退した。
 化け物と出くわしたかのように孫策の体は震え、肌は色を失くし、足取りは宙を泳ぐかのような有様だった。
 
 孫策の唇が、愛しい女の名を象る。
 噛み砕くように、孫策は唇を歪め歯を食いしばった。

「……どうかした、子龍」
 無言になってしまった趙雲を、は不思議そうに見上げた。
「いや、何でもない」
 どうやら、は何も気がつかなかったらしい。扉の外にあった孫策の気配は、一瞬趙雲を圧倒するほど殺気立ち、趙雲は密かに立てかけておいた豪竜胆に指を掛けていた。
 けれど孫策は愛用の覇王を手に踊りこんでくることもなく、そのまま音もなく立ち去っていった。それに合わせ、趙雲も豪竜胆からそっと指を離した。
 行為に疲れたのか趙雲の存在に安堵したのか、は趙雲にもたれたまま何時の間にか眠っていた。起こさないようにそっと横たえ、触れるだけの口付けを施す。
 孫策の胸の嵐は容易く想像できた。それと同じ嵐を、趙雲もまた胸に秘めている。
 かと言って、譲ってやる気は毛頭ない。のいない日々を思い返せば、鳥肌が立つ。会いたいと願い続けて、ようやく会えて、日を重ねるごとにこの頑なで無防備な女を愛しく想う。
 何故、と問われても返答はしかねる。
 皮膚の隅々から、血肉の欠片に至るまで全てがを欲している。感覚として捕らえるならば、そう説明するしかなかった。
 は、私のものだ。
 一人ごち、の唇を今度は吸い上げる。小さく呻き声が上がったが、が目を覚ますことはなかった。
 趙雲は、仮眠に与えられた時間を全ての傍らで過ごすことにした。体がどれだけ疲れようが、この安らぎには換えがたい。
 愛しい、という言葉を実感した。

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