孫策が消えた。
 最初の半日は皆半ば呆れつつも、食事時になれば帰ってくるだろうと笑っていた。
 それが丸一日になり、二日になり、三日目の朝を迎えて騒然とし始めた。
 警邏の兵からは何も報告はない。仮に……にしても考えたくもなかったが、孫策が誰かに討たれたのだとしても、その遺骸も見つからないのは不自然だ。遺骸を晒し、その死を見せ付けることにこそ暗殺の意義はある。
 だから孫策は無事で、何らかの理由で警邏の網を潜り抜けて移動しているのだろうと察しがついた。
 問題は、その『何らかの理由』の方だろう。
「お前のせいだ!」
 孫権は配下の面前でを詰った。皆、声を揃える者こそあれ、制止しようと言うものは誰もいない。皆が皆、度合いはともあれ孫策の失踪の原因はにあると信じきっていた。
 ただ一人、大喬だけは何か言いたげだったのだが、周瑜と小喬に制され、その後は自室へ篭っていた。眠らずに孫策の帰りを待ち続けていたので、弱っていたのだ。食事もろくに取っていないようだ。
「行く先に心当たりはないのか!」
 次々と責め立てられるのだが、としてもあればとっくに申請している。ここはの見知らぬ土地で、心当たりがあるのはむしろ孫権達の方だと思うのだが、孫策の失踪で心を乱しているせいか、誰もその点に気がついていないか、分かっていながらも動揺のはけ口をに求めているのかもしれない。
 は病床から起き出してすぐ、孫策を心配して右往左往する人々の集まる広間に立っていた。
 この件に関しては部外者である、と劉備や趙雲は広間に入れてももらえないのだが、に限ってはお前こそがことの原因だと言わんばかりに馬良の元から引き摺って連れてこられ、責められたり冷たい目を浴びせられたりしている。

 が黙ったままぼんやりと壁と床の隙間を見ているのを、やれ可愛げがないの自覚がないのと陰口を浴びせる輩の背後で、凌統はじっとを見つめていた。
 十中八九はが原因だ。
 凌統もそう感じている。
 けれど、それは決しての責任ではない。孫策が一方的に惚れて、が受け入れなかった、ただそれだけの話だ。
 相手が孫策でさえなければ、本来責められるべきはではなく孫策の方だろう。
 しかしは言い訳も言い返しも一言もせず、甘んじて責めを受けているように見えた。
 呉と蜀の同盟の為だろうか。それとも、本気で自分が悪いと思っているのだろうか。
 病み上がりのせいか肌が青白く、目は濁って重たげだ。
 倒れちまう、何だってあんたはそう頑ななんだ。
 イライラとするのはのやり口が性に合わないから、為しようが気に食わないからだ。
 凌統は敢えてそう結論付けると、己の視線を無理やりから引き剥がした。

「メシ、食ってんのか」
 甘寧が声を掛けると、は困ったように口元だけ歪めて笑った。疲れた顔をしている。
 病で寝ていて、治るか治らないかのうちに訳も分からず引っ張り出されて、顔も知らないような連中から当り散らされている。甘寧はに同情を禁じえない。
 何だかよく分からないが、飛び出していったのは孫策の勝手で、のせいとは思えなかった。大の男がたかだか五日やそこら居なくなったというだけで、これだけ大騒ぎするのがそも間違いのような気がする。見つからないようにしているのは孫策だ。つまり、それは誰にも会いたくないということで、要するに一人にしてくれという本人の意思表示のようなものだろう。
 こうして青白い文官どもに当り散らされているこそがいい迷惑だ。
「座るか? 椅子、持ってきてやろうか?」
「甘寧」
 うるさい周瑜に見つかって、言外に『余計なことをするな』と釘を刺される。甘寧は舌打ちをし、に向き直った。
 は小さな声で、『ごめんなさい』と囁いた。視線は相変わらず下を向いたままだ。何ともしようがなく、居心地の悪い沈黙に耐えかねて、甘寧はのそばを離れた。

 孫堅はこの場にはいない。何を思ってか、一度も広間には顔を出していなかった。
 呂蒙や陸遜も、時折状況を確認しに来ることはあったが、には痛々しい目を向けるだけで、声を掛けることはなかった。掛けられなかった。
 何となれば、周瑜が厳しく目を光らせていたからだ。
 周瑜自身、時折を哀れむような目で盗み見ることもある。だが、周瑜は孫策の失踪には必ずやが関係しているに違いないと信じ込んでいる。出来るなら、これを機にを孫呉から排除してしまいたい。そう思っている。何か失態でも犯してくれればと思うのだが、は怒りも泣きもせず、黙って己に与えられる仕打ちに耐えていた。
 は時々、何もない一点に固定していた視線を窓の外に向ける。
 何を考えているのかまったく読めない表情に、差し込む光が病的な肌の白さを浮き立たせる。
 この女の、何処が君をそこまで駆り立てる?
 胸の内にある孫策の残影に、周瑜は密かに囁きかける。
 ただの女ではないか。
 孫策は答えない。にっかり、といつものあの人懐こい笑顔を周瑜に向けるのみだ。
 いつか孫策は言っていた。に触れたのは自分だと。だから、周瑜には分からないのだと。
 あの女に触れれば、君の胸の内が分かるのか。
 訳もなく恐ろしい気がした。あの孫策をあそこまで変えてしまう女に、触れたが最後自分はどう変わってしまうのだろう。そんなことを考えて、はっと我に返る。
 何を考えている。私の目的は、あの女の排除だ。孫策が帰ってくる前に、何とかしてあの女を。
 そして孫策が帰って来て、あの女がいないことを知った時、いったいどんな顔をするのだろうか。
 周瑜は己の中に大きな矛盾と迷いがあるのを覚りながら、有効な対処法を見出せずにいた。

 太史慈は、必死になって主の姿を捜し求めていた。
 他に仕事がないわけではない。ただ、無闇と不安が湧き上がり、押し潰されてしまいそうな悪寒を耐え難かった。
 職務は後で取り戻せばいい。だが、孫策はそうはいかない。今見失えば、一生今日という日を後悔しそうだった。
 だから太史慈は、今日も馬を走らせる。主を求めて、ただひたすらに走らせる。
 のことが頭によぎらなかったと言えば嘘になる。恐らく、何かあったのだ。
 太史慈は唇を噛み締めた。
 どうして孫策を受け入れないのか分からない。嫌いではないのだろう。ならば、良いではないか。孫策以上に恵まれた嫁ぎ先など考えられない。ましてあの容姿で、それ以上を望むのはあまりに分不相応というものではないか。
 いや、それは自分の勝手な思いだ。ただ、孫策が傷つけられるのがたまらなく嫌なだけだ。が絶世の美女だったとしても、太史慈はやはりを同じように憎んだだろう。
 憎い、というのも少し違うような気もする。
 もどかしいのだ。どうしようもなく、もどかしいのだ。
 孫策もも不器用過ぎて、悲しくなってくる。結ばれないというならそれでも仕方ない。だが、もう少し上手くしたらいいのだ。
 自分なら。
 太史慈は眉を顰めた。自分なら、上手く出来るとでも言うのか。
 馬に鞭くれて、太史慈は更に速度を上げた。
 孫策を探しているのではないのかもしれない。ふと、そんなことを考えた。
 逃げたいだけなのかもしれない。
 そしてきっと、孫策も同じように感じているのではないか、そんな風に考えた。

 そうして、五日目の夜が来て、ひょっこり孫策が帰ってきた。
 門の前から波が伝わるように孫策帰還の報が伝わり、広間はどっと賑わった。
 孫策は何時もと変わらず、横柄な、しかし惚れ惚れとするような男臭い笑みを浮かべ、集まってくる家臣達を掻き分けながら広間にやって来た。
「孫策!」
「孫策様!」
 周瑜が、安心したような呆れたような複雑な笑みを浮かべ、大喬は涙を浮かべて孫策にしがみついた。
「はは、心配掛けて悪かったな、周瑜、大喬」
 しがみつく大喬の肩に手を回し、出迎えた周瑜の軽く挙げた手に拳を突き出す。
 まるきり、いつもの孫策だった。
「……まったく、君という奴は」
 周瑜の小言めいた言葉も軽く肩を竦めていなし、孫策は壁の方に目を向けた。
 そこに、が一人、佇んでいた。
 孫策が広間に入ってきて、居合わせた者はすべてどっと孫策の周りに詰め掛けたのに、は何も気がついていないように一人で同じ場所に立ち、同じ所を見ている。
 孫策は、大喬の肩を軽く叩いて合図を送ると、大喬もようやくに気がつき、はっと身を強張らせた。
 心配そうに孫策を見上げるのに笑顔で応え、孫策はの元にゆっくり歩み寄った。
 の顔に孫策の影が落ちる。
 ぴくり、肩が揺れて、の目がのろのろと孫策に向けられた。
「……よぅ」
 軽く手を上げ、笑みを浮かべる孫策に、は答えない。ただ、冷たい、感情の篭らない目で孫策を見上げた。
「どちらに行かれてたんです」
 丁寧な言葉は、孫策がの口から聞くのを嫌っていると分かっていてのものなのか、だが孫策は苦く笑うだけだった。
「ちょっと、あちこちをな」
 お前を諦める為に。
 そう続けようとした。
 と趙雲が語らっているのを聞き、の言葉に打ちのめされて、孫策は訳も分からず馬を駆った。
 一日目はただ無我夢中で。
 二日目はただ憤って。
 三日目はただ悲しくて。
 四日目はただ虚しくて。
 五日目に、やっと心を落ち着かせた。
 が俺を受け入れないっていうなら、しょうがねぇじゃねぇか。
 泣かせたくないという気持ちは本当だ。笑っていて欲しい。自分に向けて笑っていて欲しい。
 それが無理だというなら、せめて泣かせないように。
 本当に、本当に滅茶苦茶好きなのだ。
 だから。
 が、孫策を見つめる。
「ちょっと?」
 返事をする暇はなかった。
 の拳が、孫策の頬骨を打ったからだ。
「な」
 広間に居合わせた全員が言葉を失った。
「ふざけんな」
 の声は低く、怒りに満ちていた。ぶるぶると震える拳は赤く腫れ上がっており、殴られた当の孫策よりもよっぽど痛そうに見えた。
「何が、ちょっと、あちこち……ふざけんな、あんた一人がいなくなっただけで、この騒ぎだ、分かってないみたいだけど、どれだけの人間が迷惑被って、ああ、あんたにはどうでもいいかもしれないけど、国の跡継ぎがいなくなってどれだけ影響があると思って、普通……普通の奴なら分かるはずだろうに、何だって、何だってあんたには分からないんだろう……!」
 徐々にの声は大きくなっていく。
 孫策はびっくりしたように目を見張って、に打たれた頬を押さえながらを見つめていた。
「何かあるなら、せめて誰かには何がしか言っていくのが常識でしょうよ! 誰も、誰一人もあんたがどうしたか分からない、あんたがどうして出て行ったのか分からない、それがどれだけ不安で悔しくて情けないか、あんたは何、誰も信じてないのか、これだけあんたを慕って集まってくれてる部下とか仲間とかに、何一つ伝えないまま出て行けちゃうくらい、それとも自分にはそれが許されるなんて、そんな風に思ってるわけか」
「何で一言もないままに出て行けるのか、私には分からない……心配してるんじゃないかとか、ちらとも思わなかったの、大事な人達なんでしょう、それとも大事じゃなかったの」
「国の跡継ぎが、ふらっといなくなって騒ぎにならないなんて、本気で思ってるの、それとも呉ってのはそういう国なの、じゃあ何でこんな大騒ぎになってるの、あんたが帰ってこない帰ってこないって、お経みたいに何度も繰り返して、そこら辺中うろつきまわって、そんな人達がいつもと同じように仕事できる、できるわけないでしょう」
「仕事が手につかなくなって、こんな中央で国纏めているような人達が仕事しなくて、あんたそれで国がどうなるか分かるの、頭が止まるってことは、端なんかもっと止まるよ、命に関わるかもしれない、そんなことになったら、あんたどう責任取るつもりなの、それとも、そんなことどうでもいいの、誰が何時どう死のうと、あんたには全然、どうでもいいってことなの」
「あんたさぁ」
「あんた、跡継ぎやめちゃえば」
 ざわり、と。
 まるで蛇が鱗を立てて這いずり回るような、そんなざわめきが起こった。
「やめて、弟に譲れば。こんな傍迷惑な跡継ぎ、いるだけ迷惑でしょう」
 の肩が掴まれ、猛烈な勢いで引き摺り倒される。
 名前を出された孫権が怒り、を倒したのだ。孫策が止める間もない。
「やめろ、権!」
 慌てて孫権を取り押さえる孫策だが、孫権も遮二無二孫策の腕を振り払おうとする。
「止めないで下さい兄上、この女は、今、殺されても文句が言えぬことを申しました!」
「殺せば」
 が、壁に取り縋りながら身を起こす。倒された時に足でも捻ったか、よろけるのを壁に縋って抑えている。
「殺せば?」
 再度、無表情な声が静まり返った広間に響く。
「私が言ったことが間違っているって言うなら、正しくないって言うなら」
 の指……人差し指が、すぅっと持ち上がり自身の首の横に当てられる。
「この首、今すぐ叩き落せ」
 誰も、動くことすら出来ずにいた。
 孫権も、の目に圧されて射竦められている。
 孫策は、静かにを見つめた。
「悪ぃ」
「謝る相手が違う」
 間髪居れずにが言い返す。孫策は、うん、と小さく頷いて、目を閉じた。
「権」
 まだ取り押さえたままの弟の名を呼ぶ。
「周瑜……大喬」
 呆然と成り行きを見守っていた乳兄弟、愛しい妻の名を呼ぶ。
「黄蓋、呂蒙、陸遜、周泰、凌統、甘寧、小喬」
 信頼すべき仲間の名を呼ぶ。
「それから……太史慈」
 苦い顔で見守っていた腹心の部下であり友の名を呼ぶ。
「他のみんなも……親父も。俺が悪かった。勘弁してくれとは言わねぇ、でも、もうこんな勝手はしねぇ。約束する」
 何時の間にか孫堅が広間に入っていた。皆、気がついておらず、周瑜ですら慌てた。
「……これでいいか、……?」
 は壁に縋ったまま、ぐったりと、ただ呼吸だけは息苦しそうに弾ませていた。額には脂汗が滲み、顔色は青白く血が抜けたようになっていた。
 孫策の手がの額に押し当てられ、その熱さに一瞬手を引きかける。慌てての体を横抱きに抱きかかえた。
「権、医者だ! 医者呼んで来い!」
 怒鳴りながらもを抱えて走り出そうとすると、の手が孫策の肩を押す。
「……下ろして……平気だから……」
「駄目だ!」
 怒気を孕んで、孫策が怒鳴る。
「絶対平気なんかじゃねぇ、だから、ソレは聞いてやらねぇ! 黙って俺の言うこと、聞け!」
 の目が、何か言いたげに細められ、力尽きたように閉じた。
 孫策はもう何も言わず、何も振り返らずに駆け出した。
 二人の後ろ姿を呆然と見送っていた孫権が、はっと我に返って慌てて医者の指示を出す。ついで、の部屋の牀に掛け布を運ぶよう、白湯を沸かしておくようなど、細かい指示を出す。
 広間が突然音を取り戻した。
 蜂の巣を突付いたようになり、半ば混乱した状態の中、周瑜はそっと孫堅に近付いた。
「……何か、嬉しそうに見受けられますが」
 棘の含まれた声に、孫堅は口の端を上げて笑った。
「周瑜」
 厳格な君主の声に、周瑜も改めて姿勢を正した。
「あの娘の激情が我が孫呉に欲しい。策を練れ」
 周瑜が思わず『それは』と口篭るのに、孫堅は今度は子供のように無邪気に笑った。
「……本音を言えば、俺があの娘を得たいのだ……まぁ、息子と争うような愚は犯したくないとは思うのだが、こればかりはなかなかな」
 これも臥龍の策だと思うか、と問いかけてくる。周瑜は毒気を抜かれて何も答えられなかった。

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