孫策に横抱きに抱え上げられたまま、はまだ覚束ない目を凝らしていた。暗闇に近い視界でゆさゆさと揺さぶられていると、段々車酔いしたような感覚になってくる。
「孫策……様」
「伯符だ」
 そんなことはどうでもいい。
「……気持ち悪い……」
 のぐったりした一言で、ようやく孫策は足を止めた。
 意識を取り戻したばかりで呼び立てられ、緊張に次ぐ緊張を強いられた。の体力は限界を過ぎて、孫策が抱えて運ばなければ一歩も動けずにいただろう。
「……吐くか?」
 しばらく考えて、は首を横に振った。庭先を吐瀉物で汚すわけにもいかない。
「ゆっくり歩いてくれればいいから……」
 くったりと孫策の肩に頭を乗せて、は小さく呟いた。
 孫策はしばらくの様子を見ていたが、なるべく揺らさないようにそっと歩き出した。
 蜀の者達が住まう館に続く廊下の先に、人影がある。
 趙雲だった。
 孫策と趙雲の視線が絡まる。
 静かな歩みは止まらない。ゆっくりとではあったが、徐々に孫策と趙雲の距離が縮まる。
 孫策が趙雲の前まで辿り着くと、趙雲は両手を広げた。
「お手数をおかけいたしました」
 を渡せと言っている。
 孫策は、腕の中のに目を向けた。
 半ば意識を失っているらしいは、小さく呼吸を繰り返している。胸の辺りが微かに揺れるのを、孫策は何か歯痒い物を見るようにじっと見つめた。
「……俺が運んだら、駄目か?」
 趙雲の目が細く顰められる。引け目を感じているでもない、落ち着いた声をどう読み取るべきか判断がつかない。五日間、孫策は姿を消していた。の為だろう。その煽りを食ったが引き立てられ、趙雲は冷静な相貌の下で煮え滾る感情を抑えるのに四苦八苦したものだ。
 その孫策が帰ってきたのを、趙雲も物陰から見ていた。妙にさばさばした、吹っ切れたような顔
だった。
 何とはなしに、孫策はを諦めたのだと覚った。
 だが。
 孫策が意識をなくしたを抱え、血相変えて飛び込んで来た時に、それは間違いだったと見せ付けられた。すべての職務を投げ出しての枕元に詰める孫策を、趙雲は何度か見かけている。
 それが許される孫策と、それが許されない己の格差を、趙雲は苦い思いで耐えてきた。
 やっと意識が戻ったと聞き、許されての室に向かえば、既にもぬけの殻だった。孫堅に呼び出されたと聞き、趙雲は歯軋りしたいのをやっと耐えた。
 呉にある限り、私はを守ることが出来ない。
 思い知らされていた。
 趙雲は、掲げた手を静かに下ろし、強く握り締めた。
 握った拳が微かに震えているのを、孫策も苦い思いで見ていた。気持ちが分かるなどとおこがましいことは言えないし、言うつもりもない。ただ、趙雲もまた己と同じようにを必要としているということは分かる。
「こちらへ」
 握り締めていた拳から力を抜き、趙雲が孫策を先導する。
 その背中を見て、に目を向けた。
 相変わらず目を閉じたまま、身動ぎ一つしない。
 お前、ホントに何で……。
 何を問いたいのか、孫策自身にも分からなくなった。

 を牀に横たえ、掛け布を掛けてやる。壊れ物を扱うような孫策の所作に、趙雲は苦笑を浮かべた。
 孫策がくるりと振り返る。突然視線がかち合って、趙雲はらしくなく動揺した。
「悪かったな」
 突然謝られて、趙雲は思わず言葉をなくして立ち竦む。
「どうしても、俺がここまで運びたかったんだ。お前も、早くに触りたかっただろ? ごめんな」
 孫策が場所を譲ってくれるのだが、だからと言ってはいそうですかと動けるわけもない。
 趙雲が動けずにいると、孫策は不思議そうな顔で趙雲を見つめた。
「惚れてんだろ?」
 何してんだ、と言わんばかりにを指し示す孫策に、趙雲は歯切れ悪くはぁ、まぁと答えた。
「変な奴だな」
 それはこちらの言いたいことだと趙雲は思うのだが、憑き物が落ちたような孫策に、何故か上手く言い返せない。
 そんな趙雲に構わず、孫策はしゃべり続ける。
「俺な」
 を見下ろす目が優しい。
「俺、やっぱこいつが好きだ。諦めらんねぇ」
 にっ、と趙雲に笑いかける顔が、どうにも無邪気で憎めない。
「さっき、こいつと喧嘩した……もう、すげぇ楽しくて嬉しかった。俺とああやって喧嘩してくれる女、こいつしかいねぇと思う。だから、俺、諦めるのやめにした」
 よろしくな、と言われても何をよろしくしたらいいのか分からない。やはり、はぁ、と間抜けな返答をしてしまった。
「後で、医者とか食いもんとか用意させるからよ。お前も、時間があったらの様子見てやってくれよ」
 なっ、と気安く肩を叩き、孫策は室を出て行こうとする。
 呆然と見送る趙雲の前で、突然孫策が踵を反した。
 すたすたと近付いてくると、趙雲の肩をがばっと抱いて、下を向かせる。殺気もないので、趙雲は為されるがままだ。
 間近にある孫策の顔は真剣そのものだ。その目に気圧されて、一瞬孫策の言うことが理解できなかった。
「親父が、に目をつけた」
 趙雲の口元から、はっと息を飲む鋭い音が漏れた。
 孫策の父、つまり孫堅がに目をつけた。
 それは、つまりどういうことなのか。
「……根拠はねぇ、けど、十中八九は間違いねぇ。いいか、親父には注意しろよ」
 ぱっと手を離し顔を上げると、孫策の真剣な表情はいつもの悪戯めいた子供の顔に戻った。
 じゃあな、と手を挙げて出て行く孫策の背を、思わず趙雲は追いかけた。
「……お待ち下さい、孫堅殿は、貴方とのことを」
 孫策がを抱いたことを、知らないのか。
 一瞬の間を置いて孫策が振り返る。
 口の端を引き上げた男臭い笑みは、何処か自棄気味にも見えた。
「あの親父が、そんなこと気にする玉かよ」
 どかどかと荒い足音が遠退き、呆然としていた趙雲の耳に、微かな声が届いた。
 枕元に近寄ると、が薄く目を開いて趙雲を見上げている。
 もたもたと手を伸ばしてくるのに軽く笑って、その手を自分の物と重ね合わせた。
「しりゅー」
 もつれた舌で字を呼ばれ、趙雲の口元が僅かに緩む。
「はくふは?」
 伯符。
 孫策の字を象ったの唇に、趙雲は自分の中の温もりがざらりと音を立てて零れ落ちていくのを感じた。
「……医者を、呼びに行かれたようだ」
 努めて冷静に声を出す。
 は何も気付かず、そう、と呟くと趙雲の手を柔々と握る。
「しりゅー」
 たどたどしい声に、趙雲は何故だか体の奥底からこみ上げるような熱を感じる。喚き散らしたいのを耐え、趙雲は静かにの言葉を待った。
「ごめんね」
 何が、ごめん?
「また、やっちゃった」
 何を。
「死んじゃう、とこだった」
 唐突に過ぎる言葉に、趙雲は先程とは別の衝撃を受けた。
、何をしたと? 何をしたんだ、!」
 眠そうに目を閉じかけるだったが、最早気遣ってはおられない。死ぬようなこととは何なのか、趙雲は焦ってを揺すった。
「……はくふ、に」
 目をこすりながら、は言葉を続ける。
「跡継ぎ、やめちゃえって、言っちゃって」
 それで、と言うなり、は口を閉じ、寝息を立て始めた。
 趙雲は、呆れ返って口が聞けなくなっていた。よりにもよって、そんな馬鹿なことを言ったのか。
 先程の孫策の言葉が蘇る。
 親父が、に目をつけた。
 もしの言葉が本当なら、それで孫堅の目に適ってしまったのだとしたら、趙雲に為す術はない。注意しろといわれても、何を如何しろと言うのだ。
「…………」
 趙雲はがっくりと項垂れた。
 呉に来てからのの行動は、目に余るものがある。歌うわ踊るわの次は、内政干渉ときた。
 一瞬の慟哭にも似た衝動を、趙雲は恥じた。
 馬鹿馬鹿しい。
 もう、何もかも投げ出してしまいたい。の面倒を見るのなら、暴れ馬をいなした方がまだ楽だ。
 こうしてはいられない。ことは済んでしまったようだが、とにかくまず劉備と尚香の耳にこの件を届けなければ。対応も対策も、出来うる限り早く考えた方が良い。
 だと言うのに。
 の手は趙雲の手から離れようとせず、解こうとした途端力を篭めて握りこまれる。
 何時もなら嬉しい無意識の仕草も、今はただ腹だたしいだけだ。
 けれど、解けない。情けないことではあったが、今だからこそ、逆に解けない。解くことが出来れば、を諦めることもできるような気もするのに。
 趙雲は深く溜息を吐くと、諦めて牀の縁に腰掛けた。
 悩ましく髪をかき上げ、を睨みつける。
「……ああ、この……馬鹿女」
 蜀で変わらずを待ち続けているだろう男の口を真似て、を詰った。
 寝ているはずのの唇から、不服めいた唸り声が漏れた。

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