趙雲の報告を受け、尚香が慌てて内情を探りにかかる。劉備の元に嫁入りした尚香には、孫家の人間とは言えなかなか情報は届けられない。嫁入りしたからには一応とは言え蜀の人間である、ということになっていた。尚香自身があまり細かいことを気にする気質ではなかったので、普段からその手の内情が耳に届かずとも、気にすることもなかった。
だが、ことに関わるとあっては尚香も呑気にはしていられない。何と言ってもは、尚香の大のお気に入りなのだったから(それが友情や愛情ではなく、の話す物語の為だとしても、付き合いの短さから言って尚香には何の責もない)。
呉の家臣の重い口をこじ開けさせるのは、案外難しいことではなかった。父や重臣達からすれば、尚香が国の内政や軍事にあれこれと口を出すこと自体が想定外で、緘口令を引いてもいなかったのだ。よって、あの夜の話や孫堅がを呼びつけた時の話をかなり具体的に知ることが出来た。
尚香の集めてきた情報や話を聞くに及び、劉備はぽかんと口を開け、馬良は頭痛にこめかみを押さえ、趙雲は何ともいえない複雑な表情を浮かべた。
よく、斬られなかった。
共通の感想はそれであった。
忠士の揃う呉の家臣の前で、世継ぎを殴りつけた挙句に声高に罵り、跡継ぎをやめろと迫った上で殺してみろと喚く。
考えられない。そも、有り得ない。
しかし、はそれをやってのけたのだ。そして、孫堅に気に入られた。
「まぁね、父様好みの武勇伝よね……それにしても、って……」
尚香は、溜息で自らの言葉を濁らせた。
続く言葉の表現はどうあれ、似たようなものだろう。希代の大馬鹿者だ。
形だけ見れば孫策の邪恋なのだ。失踪しようが世を儚もうが、それは呉の連中にとっては恨み骨髄だろうが、跡継ぎが血迷ったのはお前を恋い慕っての上だ、責任とって死ねなどと言えば、世間のいい物笑いの種になるだけだ。
仮にも蜀の外交の一端を担う者が、その相手の内政に干渉してどうしようというのだ。孫堅も孫堅だ。酔狂にも程があるだろう。そんな孫堅の酔狂を止めない家臣にも頭が痛い。
「周兄も情けない、何で止めてくれないのよ……」
こんな時には必ず止めに入ってくれると思っていたのに、と、尚香は身内の間でしか使わない周瑜の呼称を使いながら愚痴った。尚香が劉備達に気を許している証拠だろう。劉備の口元が穏やかな笑みを浮かべる。
しかし、今はのことを考えなければならない。下手に謝罪に行けば、逆手に取られてをくれと言い出しかねない。決して手放してくれるなと言った臥龍の頼みを、劉備は重く受け止めていた。
馬良が、恐る恐る口を開く。
「あの……実は、丞相から言い付かっていたことがありまして……」
何、と居合わせた者が一斉に驚きの声を上げる。
「もしも、殿のことで何か……例えば、何方かが殿を得たい、と殿に申し込まれた時に、と……」
正に今がその時である。
「孔明は、この事態を見抜いていたというのか?」
半ば感動して、劉備は声を震わせた。
全てを見抜いていた、ということはあるまい。だが、誰ぞが……勿論孫策がを得たいと望んでいたのは分かっていたので、それ以外の誰かということだが……を得たいと望むだろうことを、諸葛亮は見抜いていたということになる。
しかも、劉備に直接となれば、を欲する相手を孫堅と見抜いてのことになろう。孫策の気質から言って、己の方寸を隠し立てはすまいし、となれば家臣がを得たいと口にすることは君主孫家の手前、有り得ない。
趙雲は苦い顔を隠せなかった。
諸葛亮は、をだしにして孫呉を翻弄するつもりなのか。
それはの命を弄ぶと同義だ。
馬良が趙雲の顔色に気付き、困ったように劉備を見遣る。
「……子龍、そのような顔をいたすな。孔明とてを己が珠と申している以上、の身に危険が及ぶような真似はすまい。馬良、して、孔明はなんと?」
趙雲は僅かに顔を赤らめ、黙礼して劉備と馬良に詫びる。ここのところ、己を律することが出来ずにいる。すべてのせいだ。脳裏に浮かぶ能天気な笑顔に、愁然として眉を顰めた。
気遣わしげに趙雲を見遣りながら、馬良は主君に恭しく頭を下げた。
「は、丞相の申されるには、船を待て、と……」
「……何、船……?」
劉備の疑問は極当然のものである。帰る為の船は港にある。敢えて船を送って来ようというのか。何の為に。
諸葛亮の意図を見抜ける者はこの場にはおらず、自然に互いの顔を見合わせ、一様に首を傾げた。
そして、尚香には掴めなかった情報が一つあることを、この時劉備達はまだ知らずにいた。
はめきめきと快復していった。
ホイミじゃなくてベホマズンですぜ、とはの言葉だが、周囲の者には意味がさっぱり分からない。要するに、『体の調子がとても良くなってます』と言うことだろう、と落ち着いた。
たぶん、孫策のことを吹っ切れたのが良かったのだ。
孫策はどうしたってのことを諦められないという。だったら、諦めさせるのは諦めるしかない。普通に、ただあるがままに任せよう。
そう決めた瞬間から、熱は平熱に落ち着き、落ちていた食欲も俄然沸いてきた。食べれば体が力を取り戻すのは自然の摂理のようなもので、医者も驚くほどの快復ぶりだった。
気がかりといえば、やたらと見舞い品が持ち込まれることだった。名前も知らないような呉の人々が、こぞって高価そうな金品を持ち込むのだ。ただでさえ狭い(日本人のにすればずいぶん広いのだが)室は、見舞い品でほとんど埋まっているような状態だった。
「おかしいだろう」
は見舞い品の数々を見渡しながら、ぼそりと呟いた。
劉備が倒れたというならまだ分かる。だが、倒れたのはだ。他国の下っ端文官だ。この扱いは、どう考えても納得のいくものではない。
馬良が間に立ってずいぶん言い含めてくれたようだが、見舞い品の数は減るどころか増えるばかりだ。
「いらねー……」
何だか高そうなものばかりだ。見舞い品の定番といえば花か菓子折りが基本のにはよく分からないが、壺だの置物だの書架だのが山積みになっている。
今日はだいぶ気分が良いので仕事に復帰しようとしたのだが、馬良に止められてしまった。こちらの都合もあるので、もう少し伏せていろと言う。
どんな都合だか分からないが、馬良の命でもあったし、は大人しく室に引っ込んだ。仕方なしに見舞い品のリストアップと贈り主の確認をしている。後でお礼がてら返品しに伺う所存だ。
「痔主にキムチを贈るような真似をする」
ぶつぶつ言いながら筆を走らせていると、ふと人の気配に気がついた。
開け放した戸口の傍らに、孫権が立っている。
は婆臭く、あらあらと言って立ち上がった。
「何か御用でしょうか」
言ってから、思い出したように拱手の礼を取るが、筆も書き付けていた竹簡も持ったままだ。下げた竹簡がぷらぷらと揺れて、孫権は何とも言えない顔をした。
「……もう、起き上がっても良いのか」
「いいか悪いかという点に関しては、私と医師殿とで見解が分かれるところです」
どう返答したらいいのか、答えに詰まる。
黙ってしまった孫権に対して、は平気の平左で孫権を見上げている。
死にかけてより後、この女は何かが変わった。
孫権は、その『何か』に気圧される自分を感じている。目が離せなくなる。
唐突に孫堅の言葉が蘇った。
――あの娘を口説き落とせ――
兄が知ったらどれだけ激怒することだろう。言われずとも皆、自粛して沈黙している。けれど、主君の命に背くわけにも行かず、の気を解そうとばかりに争って見舞いの品を贈っている。商人達はほくほく顔で自慢の品とやらを持ち込んでいるようだ。
孫権も、何か買い求めようか悩んで、結局やめてしまった。けれど、こうして話す切っ掛けを見出せずにいると、やはり何か持ってくれば良かったと後悔した。
「そう言えば」
口篭る孫権を見かねてか、が突然口を開いた。
「花、有難うございました」
言っていることが分からず、孫権はの顔をまじまじと見つめた。
あの花、とが指差す方を見ると、周泰に持たせた空木の枝が、だいぶ花弁を散らしてはいたが、まだ寝台の横に飾ってあった。
だが、あの花は孫策から贈らせたことになっているはずだった。孫権が、周泰にそう伝えろと命じたのだ。間違えるはずがない。
「孫策、様にお礼言ったら、知らねぇって言われて。そしたら、孫策、様が周泰殿に聞いてくれて」
ばれてしまったらしい。周泰を責めるわけにはいかない。ばたばたしていて、兄に伝え忘れたのは自分なのだから。
それにしても、孫策の名を呼びかけては慌てて『様』付けするのが気に触る。常は呼び捨てにでもしているというのだろうか。
それほど親しいのだろうか。
孫権の眉がむっと顰められ、は動揺したようにぶんぶんと手を振った。
「あ、いやあの、周泰殿はずいぶん頑張ったみたいなんですけど、何か、かまかけられたらしくて、それに見事に引っ掛かっちゃったらしくてだから、あの」
どうやら、周泰に対して怒っていると勘違いしたらしい。
「……兄上を呼び捨てにしているのか?」
の目が丸く見開かれて、その目に自分の顔が映っているのが見えた。
頓狂な顔をしている。
何故だか自己嫌悪に陥って、孫権は顔を逸らした。
「あ、いえ、呼び捨てにしろとは言われてますけど」
なかなかそうはいかないじゃないですかー、とは苦笑して頭をかく。
「……孫策サマ、初めは私に偽名名乗られてましたし」
初耳だ。
孫権は無言で話を促した。
「劉備様と尚香様の結婚式の日、私やることがまだなかったんで、川っぺりで鼻歌歌ってたんですよね。そしたら、孫策サマが通りかかって」
「……待て、何故兄上がそんな所に」
式が行われていたというなら、孫策が同列していなくてはおかしい。
だが、はあっさりと、抜け出してきたみたいですよ、と言い放った。けろりとしている。
「堅苦しい式とか、性に合わなかったんじゃないですか」
孫策の気性がそういうものだと、あたかも生来から知り抜いているようなの口振りが気に触る。一年と経っていない付き合いで、孫策の何が分かるというのか。
何故だか無性に腹が立って、孫権はつい声を荒げた。
「そこで兄上を誑かしたのか!」
突然大きな声を出されて、はびっくりしたようだ。笑みが消えて、ただ孫権を見つめている。
孫権は己の短気を恥じ、口元を押さえて俯いた。抑えたところで、発した言葉が取り消せるわけもない。何と言って誤魔化そうか、孫権は頭の中で上滑りする思考を、必死に纏めようとした。
「……歌、歌いました」
口火を切ったのはやはりだった。
「それが誑かしたってことになるなら、そうかもしれません」
すみません、と頭を下げる。
が謝る理屈はない。悪いのは短気を起こした自分で、が兄を誑かしたのではなく、兄がに想いを寄せただけだ。
分かっているのに、言葉が出ない。鷹揚に無言で頷き、沈黙が落ちた。
何をしているのか、と孫権は胸の内で自問する。
謝りにきたのではなかったのか。
孫策が失踪した時、無闇に責め立てて悪かった、と、乱暴にしてすまなかった、と、謝るつもりで訪れたのに、反対に詰って謝らせてしまった。
謝らなければ、すまなかったと、ただ一言でいい、謝らなければ。
「は」
の顔に悲しみや憤りはない、それだけがただ孫権の救いだった。
「花、を」
から逸らした視線の先に、空木の花がある。
「やろう」
言うなり孫権は踵を返して出て行ってしまった。後に残されたは、ぽかんと口を開いて孫権を見送った。
何しにきたんだろうか、と首を傾げる。
髭のせいか、それとも硬質な声音のせいか、孫権の前に立つとやたらと気圧される。孫堅の、柔軟に絡みつき気付かない内に囚われる話術よりはよっぽど緊張しないで済むのだが、それでもにとっては孫権は苦手な部類の人かもしれない。
しばらく立ち尽くしていたが、気を取り直して見舞い品のリストアップに励もうと再び腰を屈めた。遠くから、どかどかと足音が聞こえて、段々大きくなった。
あん、と後ろを振り返ると、ちょうど孫権が入ってきたところだった。
右手に細い空木の枝を握り締めている。の前に立つと、無言でずいっと押し出してきた。
は、孫権と空木を呆然と見比べる。
孫権の顔が急に赤くなり、の手を取ると無理やり空木の枝を押し込めた。握り締めていた筆が落ちて、孫権の手を汚した。が思わず声を上げるが、孫権は気にも留めない。に背を向けると、入って来た時と同じようにどかどかと足音を立てて去って行った。
その後ろ姿、耳の後ろまで真っ赤なのをは目敏く見つけてしまった。
「……ツンデレ?」
何とはなしに呟いた言葉が、意外にしっくり来た。