だいぶ快復した。だから、いい加減仕事に戻りたかった。
 けれど馬良はいい顔をしない。医師もだ。原因がはっきりしない以上、迂闊に起き出してまた倒れられては困ると言う。
 からしてみれば、原因などはっきりしたものだ。
 過度のストレスから来る胃痛及び偏頭痛、肩こり、睡眠不足に食欲減退からくる体力と抵抗力の低下だ。
 ストレスの大本である孫策とのことは、自力、というのは少し違うかもしれないが、克服した。視力もすっかり元通りだ。
 今日もいい天気である。青い空、白い雲、絶好の机仕事日和である。
「……天気と机仕事とは関連がないように思いますが」
「墨がよく乾いて竹簡巻くのが早く済むじゃないですか!」
 それはそうですが、と馬良は深々と溜息を吐いた。
「……どうしてもアレでしたら、見舞いの品を返品に回ってきますが」
 の言葉に、馬良は慌てて引き留めに入る。
 今更見舞いの品を返すのも無礼な話だが、が呉の家臣の屋敷を回る途中で閉じ込められたり攫われたりしては厄介だ。
 趙雲でも護衛につけることができれば安心なのだが、大袈裟にしたくないという劉備の意向を受けて、連れてきた将兵はごく僅かだ。劉備を害されるようなことにでもなれば、まったく本末転倒と言えよう。後から尚香が名乗りを上げてくれたが、一文官の護衛に呉の姫君をつけるなどとはもっての他だ。呉の家臣共に歯を剥かれてもおかしくない。
 馬良は、に負担をかけたくないという配慮から、呉の陣営のとんでもない企み……孫堅がを欲しているということは本人に秘密にしている。なので、はお気楽なものだ。
「ははぁ、蜀に帰ってから密かに売り払って、国財の足しになさろうというお考えですね!」
 思ってもいないことを言い出されて、馬良は汗をたらりと流した。
「……違うんですか?」
 無邪気に首を傾げる。
 もう、そういうことでいい。
 馬良は、眉どころか髪も白くなりそうだと心密かに危惧した。

 体力快復を兼ねて庭を散歩するのは許されて、は室の裏手にある小さな庭をふらふらと歩いていた。
 小さいとは言っても広さそのものはそれなりにある。何より、作りこまれた庭園の見事さは、山林をそのまま縮尺して造ったのかと思うほどだ。
 よって、死角も多い。
 よく茂った木の周りをくるりと回ったところに、重厚かつ豪奢な真紅の胴鎧があった。胴鎧がある、というか、太史慈が立っていた。あまりに唐突に目の前で出くわしたので、胴鎧しか目に入らなかったのだ。
 が無言で太史慈を見上げる。
 太史慈の唇が、僅かに開きかけた。
 だっ
 ダッシュして逃げようとしたの足は、他愛無く空回りして宙に浮く。掴まれた肩が後ろに持っていかれて、はあっさりと太史慈の腕の中に引き寄せられた。
 この筋力の差はいかんともし難い。
 が悪いと言うわけではない、単にこちらの世界の武将達が化け物なのだ。持っている武器も、よくよく見れば皆レベル4武器だ。全部集めるの苦労したなぁ、などと思い出に逃避してみた。
 現況は何も変わらなかったが。
「……逃げずに、話を聞いてもらいたい」
 何もしない、と言われても、既に太史慈の腕に捕らえられている状態で、『犯される』と叫んだらそれなりに大騒ぎになりそうだった。
 首をぐいっと捻じ曲げて、太史慈の顔を見上げる。
 如何にも真面目そうな、誠実そうな相貌をしている。騒ぎにしては可哀想か。
 諦めてが力を抜いても、太史慈は尚も様子を伺うように動かない。不意をついて逃げられると思っているのかもしれない。
 しばらくしてようやく太史慈の腕から開放されて、向かい合わせに立つ。
 でかいなぁ。
 太史慈の身長は確か190cm。兜を被っていることもあって、更に大きく見える。周泰は2mあるが、下から見上げる分には大差ない。
 繁々と眺めていると、気恥ずかしいのか太史慈の頬が僅かに染まる。
「……えーと……何、でしょう」
 自分まで恥ずかしくなってきて、は太史慈を促した。さっさと済ませようと思った。長時間の散歩は許されていないのだ。太史慈と二人きりでいるのが見つかったら、騒ぎの元にならないとも限らない。
 太史慈の眉が、困ったように顰められる。話の切り口を探しているかのようだ。とは言え、話す内容はだいたい見当がついていた。
「……孫策殿のことだが……」
 やっぱり、とは内心で呟いた。
「孫策殿は、立派な方だ。それは、多少強引なところもあるかもしれんが、部下思いでもあるし、勇敢な方だ」
 だから、と言って太史慈は口篭った。
 だから、孫策殿を選んで欲しい。そういうことだろう。
 は溜息を吐いた。
 太史慈の頬に朱が走る。馬鹿にされたと思ったのだろう。何事か言い募ろうとするのを、が遮った。
「好きです」
 言うなり、が太史慈の胸に飛び込んでくる。厚い胴鎧には手が回せないと見たか、胸に縋りつくように体を押し付けてくる。
 太史慈の混乱は計り知れない。
 呆然と目と口を開き、言葉を発せないでいる。
 体が固まってしまい、中途半端に持ち上げられた両の手の指は折れ曲がり、を抱くでもなく引き剥がすでもない。
 どれくらいの時が流れたのか、は太史慈から身を離した。
 未だに衝撃から立ち直れないでいる太史慈に、はぴしりと指を突きつけた。
「困ったでしょう!」
 太史慈の目が困惑に揺れる。
「意識してない相手にいきなり告白されたら、どうしていいか分かんなくなるでしょ? 私もそうなんです」
 別に今も全然考えてないわけではない。告白されてからこの方、物凄く悩んでいる。
「嫌いなわけじゃなし、でもじゃあ好きかって言ったらそうなのか自信がないし、宙ぶらりで落ち着かないんですよ……そりゃ、嬉しくないって言ったら嘘になりますよ、でも、困るでしょう」
 困ったでしょ、ね、と念を押されて、太史慈は勢いのまま頷いた。頷いてから、いくら何でもに失礼なのではないかと慌てて伺うが、は気にした様子もない。
「孫策様のことは、流れに任せようって思ってます……それでやっと落ち着いたんで……太史慈殿には申し訳ないですけど、もう少し長い目で見て下さい」
 長い目で見られれば何の問題もない。
 孫堅が発した馬鹿げた命を、は知らないからそんな悠長なことが言っていられるのだ。知ったら、何と言うだろう。激怒するだろうか。呆れるだろうか。いっそ、言ってしまおうか。
 孫策が傷つく。
 仮にも親の言葉ではない。優秀な官僚を得たいが為というお題目こそあれ、それが単なる口実であると太史慈は見抜いている。性質の悪いのは、見抜かれようが構わないといけしゃあしゃあとしている孫堅の態度だ。
 太史慈には理解し難い、しかし抗いがたい孫堅の君主としての魅力が、周囲の反対を無言の内にねじ伏せている。
 だからこそ、一刻も早くを孫策の物にしてしまわなければならない。
 焦りがあった。
「……では、何故……何故、孫策殿とあのような……」
 口走ってから、しまったと息を飲む。の顔が朱に染まり、唇が歪む。
 泣いていたではないか。すすり泣く声を、孫策を責める声を聞いていたのに、迂闊にも思い出させてしまった。
 が傷ついた。
 太史慈は、言い繕おうと焦る。だが、何と言ったら許されるのだろうか。
 おたつく太史慈を他所に、は大きく溜息を吐くことで引き攣った顔を無理やり緩めた。
 責められるだろうか。それならそれでいい、自分はそれだけのことを言ってしまった。
 太史慈は握った拳に力を篭めた。
「あ・れ・は、伯符が無理やり乗っかってきちゃうからいけないんですっ!」
 びすっと鼻先に指を突きつけられ、太史慈は思わず後退った。
 の顔は真っ赤で、怒りに歪んでいるようにも見えたが、何処か照れ臭い、初夜を明けた新妻のような、愛らしい羞恥を浮かべていた。
「内緒ですよ、絶対他の人には内緒ですからねっ!」
 がうがうと噛み付くように吠え立てるに、太史慈は気圧されて頷く。
 よぉーし、と偉そうに腕組みしてうんうんと頷くと、は拱手の礼をして去って行った。

 呆然としたまま取り残された太史慈は、兜を脱いで深々と息を吐いた。どっと疲れが押し寄せた。
 拱手をすればいいというものではないだろう。礼を逸している。
 よくよく考えれば、女の口から何ともはしたない言葉を聞いてしまった。しかも、何気なく孫策を字で呼び捨てにしていたのにも気がついてしまった。何という無礼。何という僭越。
 けれど、孫策が聞いたら喜びで顔をくしゃくしゃにするだろう、そんな気がした。
 今更ながらに顔が焼けるように熱くなる。いくら鈍い太史慈相手に知らしめようとしたとは言え、
想ってもいない相手に『好きだ』などとよく言えたものだ。しかも、胸に取り縋るというろくでもない演技まで披露する。やり過ぎだろう。いや、絶対にやり過ぎだ。
 南方の出と言うから、ひょっとしたらには普通のことなのかもしれない。けれど、自分にはあまりに驚愕に過ぎる。
 しっかりしろ、逃げようとしたあの女を引き留めた時にも、己はこの腕にあの女を抱いていたではないか。
 そう、あの時はむしろ自分の意志でを抱き留めたのだ。
 だが、その事実は太史慈の鼓動を悪戯に早めるだけで、落ち着かせてくれるものではなかった。
 胴鎧越しで、に直接触れたわけでもない。しかし、確かにここに居た、熱はなくともその重みが残っている。
 嬉しくないと言ったら、嘘になる。
 いいや違う、そうではない。
 けれど、太史慈の心臓は、制されることもなく何時までもうるさく鳴り響いていた。

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