大喬は、足早に廊下を歩いていた。
 常にない緊張を含む表情、またその手には戦場以外では決して持つことのなかった喬美が携えられ、敏い者であれば何がしかの決意を感じ取れたに違いない。
 だが、大喬の進む先には生憎人気はなく、結果、誰も大喬を止めることが出来なかった。
 廊下から庭に駆け下りる。ここを突っ切れば、恐らくまだ間に合うはずだ。
 茂みが頬を掠る。気にもならない。
 大喬の足は徐々に早くなり、仕舞には駆け出していた。
 まだ、間に合うはずだ。

 は、何処からか足早に駆けて来る足音に気がついた。
 それにしても、呉の人間というのは忙しない。孫策は元より、孫権といい太史慈といい、何をあんなに急ぐことがあるか。
 昔の人間はもっとのんびりしていると思っていた。意外とそうではないらしい。それとも、この世界が無双だからだろうか。
 何にせよ、ややこしい話だ。
 足音の主が徐々に近付いてくる。誰だろう。音が軽いから、太史慈ということはなかろう。
 茂みの影から飛び出してきたのは、大喬だった。
 を見つけて、びっくりしたような顔をしている。
 とて、まさか大喬が飛び出してくるとは思ってなかったので、驚いて固まってしまった。
「……あの……」
 大喬がおずおずと口を開く。一度閉じ、何か葛藤しているようにきゅっと唇を噛んだ。
 何だろう。孫策のことだろうか。
 有り得る、とは冷や汗をかいた。
 孫策が諦めず、が諦めさせるのを諦め、一番わりを食ったのは誰あろう大喬だ。
 しかし、言い訳するわけではないが、はまだ孫策を選んだわけではない。進展しないまま蜀に帰るなら、それもアリか、などと無責任なことすら考えている。
 だから、もし大喬が『嫌だ』と言うなら、はそれを理由に孫策を退けられる自信があった。
 大喬が、可愛らしい赤い実のような色の唇を開いた。
「あきらめて、くれますか?」
 は、孫策の顔が脳裏に過ぎるのを意識しながら、こっくりと頷いた。

 どかどかと、うるさく走り回る音がする。
 一体何事かと周瑜は筆を置いた。音が近付いてくる。戸口に立って、音を待ち構えた。
 曲がり角から、が飛び出してきた。
 思わず眉間に皺が寄る。
 だが、は周瑜の腕を掴むと、ぐいぐいと引き摺っていこうとする。非力なことこの上ない、足に力を入れれば、周瑜の体は僅かでも動きはしなかった。
 焦れたが見上げる、その目に涙が浮いているのを見てぎょっとする。
「お願いだから!」
 順序が違う。まず何をお願いしたいかが先だろう。
 だが、は半泣きで懸命に周瑜を連れて行こうとする。
「子龍が、いないの、だから、駄目なの、早く、お願いだから!」
「何だ!」
 いい加減腹が立ってきて、怒鳴りつけた。
 の眦から涙が零れ落ちる。
「どーした、周瑜」
 仕事となると雲隠れするくせに、揉め事が起こると途端に顔を出す。
 溜息を吐いて振り返った先に、何事かと顔を出す孫策の姿があった。
「伯符!」
 動かない周瑜に見切りをつけ、は孫策に飛びついた。孫策の字を呼び捨てにするに、周瑜は眉を顰め、孫策は喜びに顔を輝かせた。
「どうし……!」
 の涙に孫策の顔色が変わる。
「周瑜、お前……!」
 深々と溜息を吐く。早合点も孫策の特徴だ。普段なら苦笑いで済ませられても、今回ばかりは勘弁して欲しかった。
 は、二人の漫才に付き合う気はさらさらないらしく、今度は孫策の手を掴んで引っ張り出した。
「早く、早く伯符!」
 訳が分からないなりに、の必死さに孫策は素直に従う。こっちのが早ぇ、と駆け出したを抱え上げ、孫策は周瑜の横をすり抜けた。
 どっちだ、と言いながら駆けていく孫策の後ろ姿を、周瑜は溜息を吐き、山積みになった仕事の処理速度を如何にして取り戻すか、そんなことを考えながら追いかけた。

 の案内によって導かれた先で、周瑜は唖然とさせられた。
 喬美を携え、きっと太史慈を睨みつける大喬、睨まれつつも虎撲殴狼改を構えることもできずにいる太史慈。その二人の対峙。
 夢でも見ているのかと思った。
「止めて!」
 が孫策に叫んでいる。
 言われずとも、孫策は二人の間に飛び込んでいこうとする。
「邪魔しないで下さい、孫策様!」
 大喬が叫ぶ。決意を秘めた、何者をも退けんとする声にさしもの孫策も足を止めた。
「……いや、あのちょっと待てよ大喬! な、何が何だか俺にはさっぱり……」
 言って太史慈を振り返るが、孫策の困惑をそのまま映したかのように、太史慈もまた困惑していた。
 大喬は、太史慈を睨んで構えを解かぬまま、ずいと一歩踏み出した。
「……太史慈様に、勝たなくちゃいけないんです……!」
 ようやく大喬の口から理由めいた言葉が出たが、理解するにはまだまだ乏しい。
「だから、誤解なんだってばっ!」
 半ギレ状態のが叫ぶ。
 誤解、誤解とは何だ。
「姉上」
 周瑜は努めて冷静を装い、大喬に近付く。
「……来ないで下さい!」
 これは、私の仕事なんです、私がやらなくちゃいけないんです、と続ける声が、僅かに怯えている。
 味方と対峙するなど、大喬には初めての体験だろう。何か思いつめた風な大喬を刺激せぬよう、周瑜は全神経をすり減らして動揺を押し殺さなければならなかった。
殿が、泣きながら私達の所に走ってきた」
 はっと息を飲み、大喬がゆっくりとを振り返る。
 その目が、頬が、涙でぐしょぐしょになっているのを、今ようやく知ったとばかりに目を見開く。
「あ……」
 大喬の構えが崩れた。
 隙を逃さず、孫策が大喬を抱き締める。
「だ、駄目です孫策様! 離して下さい!」
 私は、私は太史慈様を、と暴れもがく大喬を、だが孫策はしっかと抱き締め、離さなかった。
 しばらくして、大喬の手がだらりと地面に向けて垂れ下がる。
「……ぅ……」
 大喬の目から、涙が溢れた。
 美人は得だ、泣いても美人だ。
 は自分の涙を袖口でぐいぐいと拭った。
 でも、とにかく止められて良かった。
 鼻を赤くして、ほっと安堵するを、傍らから周瑜が苦い顔で見つめていた。
「なぁ、大喬。何があった? どうしたってんだよ」
 孫策が、優しく大喬に語り掛ける。
 だが、大喬は激しく首を振って、回答を拒む。
 太史慈は、困惑を納めることのできぬまま、先程の状況を思い返していた。

 の制止を振り切って飛び出してきた大喬に、突然手合わせを申し込まれた時の太史慈の動揺は激しかった。つい先刻までのことで揺さぶられた心を、ようやく落ち着けたばかりだっただけに尚、動揺したといっていいだろう。
 が必死に大喬を止める。誤解です、と何度も何度も叫ぶ。けれど、目に露な決意を浮かべた大喬は聞く耳を持たなかった。
『勝負です、太史慈様。私が勝ったら、様は貴方のことを諦めて下さると約束して下さいました!』
 ですから、とと大喬の声が重なった。
『誤解ですってば!』『勝負です!』
 太史慈には、何が何やら分からなかった。

 周瑜の目が、に説明を迫る。
「だから、あれですよ」
 は、鼻をすすり上げて周瑜に向き直った。
「太史慈殿に説明するのに、ちょっと例え話をしたのを、大喬殿が偶々聞いちゃったんスよね」
 例え話、と周瑜が語尾を上げて聞き返すのに、はちょっと困った顔をした。しかし、結局埒が明かぬと思い直して、思いがけない相手から突然好きだと告白される、その気持ちを分かって欲しくて、小芝居をしたことを白状した。
「……どうしてそんな馬鹿な真似をする」
 周瑜の声は苛立ちに満ちている。
 は、黙り込んで俯いた。けれど、周瑜はを許さず、の腕を取った。
「だって……!」
 の目が再び潤んでいる。動揺が少し顔に出たのを、周瑜は無理やり押さえ込んだ。
「だって、周瑜様が好きだから……!」
 唖然。
 思わず固まって、の腕を掴んでいた手から力が抜ける。それと察したは、周瑜の手からするりと腕を抜き取った。
「ほら、動揺した」
 困るでしょ、ねー? と童に教えるように覗き込まれて、周瑜の顔が憤りに歪む。
「でも、こういうのって、やられてみないと意外と分かんないんですよ」
 今の今まで泣いていたのが嘘のように、はけろりとして周瑜を見上げる。
 孫策の前でなければ叩き斬ってやるのに、と周瑜は歯噛みした。何という悪質な女だ。まさにあの諸葛亮の手先だ。
「……大喬殿、分かりました?」
 くるりと振り返るの横顔に、周瑜は今更気付かされた。大喬に知らしめる為に、わざとやったのだ。太史慈への言葉は本意ではない、芝居だったと。
 不意を突かれたとは言え、周瑜でさえ一瞬判断しかねる迫真の演技だった。ちらと見ただけの大喬が勘違いしても仕方ない。それほど真に迫った、演技とは思えないほどの……。
 周瑜は眉間に皺を刻み、思考を止めた。考えるだに無駄だ。
、俺には!」
「アホかーっ!」
 孫策とのじゃれあいに、周瑜は現実に引き戻された。ひとまず、この騒ぎを決着させねばなるまい。
「大喬姉、しかし、いったい何故このような真似を」
 涙で目を赤くした大喬が、小さく鼻をすすり上げる。
 周瑜に目礼し、断りを入れてからの方へと足を向けた。
 大喬に手を取られ、が目を丸くする。
様は、好きな人、いらっしゃらないんですよね?」
「……いない……って言うか……」
 選べないだけです、とは言い辛く、は口を濁した。
「じゃあ、じゃあ……」
 目の前の大喬の目が美しく潤み霞む。
「孫策様を好きになって下さい!」
 何ですと――――――――――――っ!?
 の言葉は生憎声にはならなかった。なっていたら、周瑜に『ふざけている』と斬られていたかもしれない。
 ただ口を大きく開け、あわわ、と声にならない声を出しているに構わず、大喬は話を続けた。
様のこと、私、最初は……正直に言います、嫌いでした。孫策様を取られてしまうって、とても心配で、不安で、怖くて……だから、だから私……」
 そうだ、それはそうだ、私だってそう思うわい、とは力強く頷いた。
「でも、こんなじゃいけないって、とにかく様とお話してみようって思って、様に歌を歌っていただいて……その歌がとても優しくて、大丈夫だよって言って下さっているような気がして……」
 その通りだ、そういう気持ちを込めて歌ってました。エライ、ちゃんと汲み取っている。
「そうしたら、私、様とだったら大丈夫だ、孫策様のことを一緒に支えていけるって、そう思って」
 そこからNGです、先生―――――――――!!
 のツッコミは何一つ音にならない。あわ、とかはわ、とか奇妙な声が漏れるだけで、後は救いを求めるように周りの三人に目を向ける。
「でも、なかなか言い出せなくて、すぐあんな騒ぎになってしまって……ずっと、ずっと様にお伝えしよう、お伝えしなくちゃって思っていて……お庭に散歩に行かれるのを見て、私、すぐ追いかけたんです」
 孫策はぱああっと顔を輝かせているし、太史慈は哀れみを込めた目でを見返すのみで、周瑜に至っては目を合わせようともしない。
「そうしたら、様が太史慈様に……私、私……様を太史慈様にお渡しするわけにはいかないって……そう思って……」
「大喬!」
 感極まった孫策が、大喬を抱き締める。
「孫策様!」
 大喬が孫策をひしと抱き返し、に向き直る。
「……ひどい勘違いをしてしまって、辛い思いをさせてしまってごめんなさい……でも、様、どうか私と一緒に孫策様を支えて下さい……!」
 お願いします、と頭を下げられて、は眩暈を起こして反っくり返りそうになった。背筋をフルに使って踏み止まる。ついでに反動に使った。
「それでいいと思ってんのか―――――――――っ!!!!!」
 大喬はびっくりして、戸惑ったように孫策を見上げる。孫策は、そんな妻を労わるように優しく微笑み、に向き直った。
「おう!」
 沈黙が落ちた。
 今度は、が固まっている。何か言おうと口を開くらしいのだが、ぱくぱくとするだけで、声にならない。
 満面の笑みを浮かべた孫策、きょとんとしている大喬、困惑顔の太史慈、むっと不機嫌顔の周瑜。
 代わる代わる見遣って、は口を閉じた。
 突然、ダッシュで走り去る。
「ちょ……」
 慌てて追いかけようとした孫策の肩を、周瑜が無言で抑えた。黙ったまま顔を横に振る。
 孫策は、唇を尖らせつつも、黙って周瑜に従った。
「孫策様」
 ぽつりと大喬が呟く。
「私、何かいけないことを言ってしまったでしょうか……」
 孫策はにっこり笑って、そんなことねぇ、も、いきなりだったからびっくりしちまったんだろう、と言ってのけた。
「……そうですよね」
 大喬も、応えてにっこりと笑った。
 ああ。
 周瑜は額に手を当てた。
 頭が痛い。
 太史慈は、そんな周瑜に僅かに同情した。

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