特別に湯を多く用意してもらい、盥に張って身を洗い清めた。
蜀に居れば、春花が背中を流して念入りに身支度してくれただろう。今は一人で身支度しなければならない。それが少し淋しい。
湯で体や髪の汚れを落として、ふと鼻を蠢かす。くん、と音を立てて鼻をひくつかせると、趙雲に塗り篭められた香油の甘い香りが漂ってくる。
腰が痛いのはともかく、この甘い匂いが取れないのは困った。
精液臭いよりはマシか、と空笑いして、がっくりと湯の中に手を着いた。
今宵の宴には、だけでなくの同僚の王埜も呼ばれた。突然のことで驚く王埜は、緊張で身を固くしていた。
も慣れたわけではない。だが、肩に力が入って首を埋めるようにしている王埜を見ていると、逆に緊張が和らいだ。呉の宴はそんなに堅苦しいものではない、席の順だって早い者勝ちなんだと言うと、王埜はびっくりして目を丸くした。
蜀側の席は、一応こちらで勝手に地位の高い順に設定している。あちらからは指定もなく、そも早い者勝ちだというのだから、構うまい。よって、は一番末席に席を定められた。
芸妓ではないので、それに他の文官からも気にされているとやんわり断った結果がこれだった。
ちゃんとした席を作り、同僚を呼ぶ。それなら構うまい、と孫堅は有無を言わせぬ態度だったという。
色々とあるだったが、その歌を面白がり興を覚える者は少なくない。劉備ですら、こんな特技があるのなら、蜀でも歌ってくれれば良かったのにと言い出す始末だ。
自身は、そんなに言われるほど上手いとは思っていないが、歌詞や曲調がこの時代にはないもので、耳新しい分良く聞こえるのだろうと思っていた。
趙雲からはなるべく控えろ、せめて踊るなと言われているし、王埜の前ではさすがに気恥ずかしい。
今日は喉が痛いから、と誤魔化して、席で王埜と話をしていた。
きちんと席があると誘い出しにくいのか、尚香が気を利かせて張り付いているせいか、それともその両方か分からないが、孫堅は無理にを誘い出すようなこともなかった。
孫策がやたらとにこにこしながらこちらを見ているのが見えた。周瑜に何か言われるたびに仏頂面をしている。大喬とはほぼ向かい合わせの状態だが、目が合うたびににこりと微笑みかけてくる。も慌てて引き攣った笑いを浮かべて応えるのだが、こうも目が合うということは、大喬もまたこちらをじっと見ているに違いない。
何ともおかしな状況になった。
王埜が、暗記したという孫子の兵法を分かりやすく教えてくれるのを幸いに、なるべくそちらを見るようにした。
語っている内に王埜の酒は進み、付き合っているも合わせて量をこなす。真面目な話をしているせいか、あまり酔いは回らなかった。
王埜が酒盃を空にし、手酌しようとするのをが押し留めて注いでやる。
「手酌は出世しないって言うよー」
笑いながら言うと、王埜は真面目な顔をして頷いた。
「そうか、じゃあこれからはに酌してもらうことにするよ」
見上げた王埜の目が熱い。
おや、と見つめ返すと、途端にぱっ赤くなって俯いた。
「……」
気まずい空気が流れた。何か、これはいかん空気の気がする。
「あの、俺、ごめん、今言うつもりじゃないから」
何を言うつもりかしらないが、今ここではまずいだろう。
「……で、何だったっけ、孫子が」
誤魔化そうとして本線に戻ろうとするが、王埜は杯の酒で口を潤すと、静かに杯を置いた。
「うん、この宴が終わったら、聞いて欲しい話があるんだ」
酔ってんのか。いや、確実に酔ってんな。
の額に汗が浮かぶ。を巡って趙雲や馬超が争っていることなど、王埜が知る由もない。極一部の、それこそ諸葛亮や劉備など、将の軍議に顔を出すような上の人間しか知らない話なのだ。
まして、孫策がに惚れていることなど、呉の人間には知れ渡っていたとしても蜀の人間である王埜にはなかなか伝わるものでもない。
王埜は、の熱心な仕事振りや気さくな態度に好意を抱いてくれていた。その好意が、いつの間にか愛情に変わっていたとしても、確かに不思議はない。有難い話ではある、あるが今ここでは王埜の命取りになりかねない。
王埜は、酔っているせいか周囲の視線を物ともせず、近場の……それこそ隣の席の文官が、反対側の席の文官との話に熱中しているのを確認したのみで、の耳元に手をあててそっと囁きかけた。
「後で、お前の室に行ってもいいか?」
ぎょっとしてが身を引くのと同時に、孫策と大喬、甘寧と何故か孫権が立ち上がる。
孫権は慌てて座り直したが、孫策を周瑜が、大喬を小喬が引き留める一瞬を突いて甘寧は身軽く卓を離れ、のそばまで駆けて来た。
「よう」
人懐こく手を挙げられ、は気圧されつつも、はぁ、と頭を下げた。
「こっち来いよ」
前置きもなくの体を抱き上げ、肩に担ぎ上げると揚々と自分の席に戻る。取り残された王埜は、呆然とを見送る他なかった。
甘寧は家人に目配せして椅子を持ってこさせ、びっくりして声もないをひとまず自分が座っていた椅子に座らせてしまった。
上座側に呂蒙、下手側に陸遜が座っている。は落ち着かずきょろきょろと二人に視線を向け、甘寧に問いかけるような視線を向けた。甘寧は、にっと歯を見せて笑うと、の肩に気安く手を掛け、ぽんぽんと叩いた。
「ま、そんなびくつくなよ、変なことしねぇから」
変なこととは何だ。眉間に皺を寄せて思わず呂蒙を振り返る。甘寧の保護者のイメージがあったのだ。
呂蒙もまた渋面を作り、額をかいている。孫堅の命もあり、かといっての困惑も手に取るように分かり、どうしていいか分からず結局『すまん』と小声で謝るに落ち着いた。
が反対を向くと、陸遜が満面の笑みを浮かべており、家人から新しい杯を受け取るとに差し出した。
「お呑みになるのですよね」
断るのもはばかられる笑顔に加え、甘寧が勝手に『呑む呑む』と返事をしてに杯を握らせると、限界いっぱいまで満たしてしまった。
なみなみと注がれた薄く濁る酒を持て余しながら、誰か何とかしてくれないかと汗を隠しつつ周りを見遣った。
卓の前に、立ち塞がる人影がある。
小喬だった。
「……あなたさぁ、諸葛亮っていう人の配下なんでしょ?」
諸葛亮、というところに微かに侮蔑の響きを感じ、は顔を引き締めた。
「じゃあ、頭いいんだよね? 諸葛亮さんて、すっごく頭がいいんだもんね?」
何を言いたいのだろう。見極めて、冷静に答えなければ諸葛亮に恥をかかせることになる。
それだけは、嫌だった。
「……お仕えさせては、いただいてますが」
小喬は腰に手を当て、そう、それじゃあね、と呼吸で間を空ける。
「いっこ、教えて欲しいことがあるんだぁ……あのね」
神様って、いるのかな?
の眉が一瞬顰められるのを、小喬はしてやったりという気持ちでを見下ろした
姉、大喬がのことで苦しんでいるのを、小喬は泣きたいような歯痒さを伴って見守ってきた。何も出来ない。相手は未だ蜀にいるのだ。ぶっとばしてやることもできない。
大喬に告げると、びっくりしたような顔で諌めてきた。
そんなことをしたら駄目、そんなことしても何にもならない。
でもお姉ちゃん、あたし、それしかしてあげられないよ。
大喬には分かったと言って引き下がったが、小喬は牀の中で一人密かに泣いた。
が蜀からやって来る日が来た。小喬は誰より早く港に駆けつけ、の到着を待ったものだ。
どんな女だか、見てやる。孫策様が、お姉ちゃんより好きになる女なんているはずがない、絶対何かの間違いなんだから。
果たして船が着き、が船から下りてきた。唯一の女性文官。見間違えようがない。びっくりするほど地味で、大喬とは比べるべくもなかった。
やった、全然お姉ちゃんが勝ってる!
小喬は大喬の元に駆け戻り、大喬が如何に勝っているか、如何に美しいかを褒めちぎった。
けれど、大喬は少し悲しそうに微笑んで、首を横に振った。
気持ちは嬉しい、けれど、孫策様が好きになったひとをそんな風に言わないで。
大喬はそう言って、少し一人になりたいから、と言って室に引き篭もってしまった。
小喬は、自分のしたことが大喬にまったく喜ばれず、それどころか悲しませたことに衝撃を受けた。
あの女のせいだ、あの女がのこのこ呉まで来なければ良かったのに。
宴の席に、本来なら呼ばれるはずのないが姿を現した時も、小喬はぎょっと目を剥いたものだ。何で、誰がとイライラしていると、尚香がに手を振る。
酷いよ尚香ちゃん!
いくら孫策様の妹でも、大喬の気持ちを考えたらそんなことできないはずだ。
大喬は、じっとを見ている。孫策に手を引かれ、ふざけているを見ている。
小喬はたまらない気持ちになった。
あんな、全然綺麗じゃない女に、お姉ちゃんより全然年取っている女に、如何して孫策様は構ったりするの。
悲しくて泣きたい、でも、大喬がそうしないのに小喬がそうするわけにはいかなかった。
そのうち、がみっともなく酔い始めた。
君主の孫堅様の前で酔っ払うなんて、なんてだらしないんだろう。もう、気になんかしない、きっと男の人にべたべたするのだけが上手な、嫌な女なんだ。すぐに孫策様だって分かるもん。だって、孫策様はお姉ちゃんの大切な旦那様だもんね。
そして、の歌が広間に響き渡った。
何。
何なの。
この歌は、何なの。
それは、にとっては他愛のない歌で、小喬達にとっては、初めて聞く衝撃だった。
伸びやかで複雑な曲、素直な心情を秘めた詞、は難なく歌っていたが、小喬は泣き出したくなるのを必死で堪えた。
媚びる以外何も特技のない女なんだと、やっと溜飲を下げたところだというのに、の歌はあんまり綺麗で切なくて、小喬は腹の奥底がかっと燃え立つような憤りを覚えた。
隣の大喬は、うっとりと聞き入っている。
何で。
お姉ちゃん、あの女のこと、本当は嫌いなんでしょ。
何で、そんな風に聞いていられるの。
次の日の宴、はこれ見よがしに孫策を避けていた。
何かあったんだろうか。
小喬は、喜ばなくてはいけないと思いつつ、どきっと鳴る心臓を押さえた。
孫策の目が、いつもと全然違っている。怖いくらい冷たくて熱い目を、ずっとに向けている。
何があったんだろう。喧嘩したのかな。じゃあ、喜ばなくちゃ。お姉ちゃんだって、これで安心なんだから。
そうして宴が進み、は甘寧に請われて歌を歌い、おどけて踊る。
馬っ鹿みたい。変な踊り。
小喬は、敢えての方から目を背けた。けれど、大喬はずっとを見ている。
歌が終わり、がこちらに歩いてきた。
大喬が身を乗り出そうとする。けれど、先に孫堅がに声を掛け、は孫堅の元に行ってしまった。
すかされて、大喬は気落ちしたように俯いた。
お姉ちゃん、あの女に何か言ってやるつもりなんだ。
小喬は、胸をどきどきさせながら大喬を盗み見た。歌い終えて、何も知らないがのこのこと歩いてくる。
今だ、言っちゃえお姉ちゃん!
小喬の心の声援を受けてか、大喬は勢い良く立ち上がった。
「あの!」
そして大喬は、きょとんとしているに歌を請うたのだ。小喬は、がっかりして俯いた。
お姉ちゃん、馬鹿だ。この女がお姉ちゃんの為にちゃんと歌うわけない。きっと変な歌を歌ってお姉ちゃんを馬鹿にするか、適当に歌って誤魔化すに決まってるよ。
けれど。
けれど、は大喬に、優しい、静かな歌を歌った。伸びやかな高音が、決して耳障りでなく響き渡る。
拍手はない。しんとしている。
は気にした様子もなく、ただ大喬を優しい眼差しで見つめ、一礼して去って行った。
どうして。
お姉ちゃん、騙されちゃ駄目、あの女は、孫策様を騙して取り入った女なんだから。
大喬の唇から、細く深い溜息が漏れた。
駄目、お姉ちゃん。
「……あの方となら、私……」
駄目。
は、いつまでも戻ってこなかった。
そうしてが寝込んだという話が聞こえてきて、きっと罰が当たったんだ、と言うと大喬は眉を顰めて小喬を咎めた。挙句、お見舞いに行ったら駄目かしら、と呟くのを聞いて、小喬は姉の前で声を上げて泣いた。
泣き喚く小喬を持て余して、大喬は見舞いには行かないと約束してくれた。
小喬は、夕方まで泣き続けた。
駄目、お姉ちゃん、駄目。あんな女を許したら駄目。絶対に、絶対に駄目なんだから。
次の日、孫策が姿を消した。
寝込んでいたが、皆が集まる広場に連れてこられた。
青白い、やつれた姿に小喬は胸に剣を突き立てられたような気持ちになった。
孫策様を誘惑したりするから、罰が当たったんだ。
皆がを責め立てる。孫策を心配して、焦る気持ちのままにに問い詰める。
自業自得だ。罰が当たったんだ。
は、いつも同じ所を見ている。そこを通して、遠い所を見ている。
いなくなった孫策様を見ているんじゃないのかな。
突拍子もなく思いついたことなのに、何だか不思議と本当のことに思えた。怖くなって、小喬は広間から逃げ出した。大喬の看病と言う名目で、とにかくから離れられることにほっとした。
孫策が戻ったと聞いて、飛び起きた大喬と共に広間に向かう。孫策もそこに向かったと聞いたからだ。さっきまで寝込んでいたのに、軽快な走りを見せる姉の姿に、小喬は呆れながらも嬉しくなったものだ。
広間に立ち尽くす、の姿を見るまでは。
たった数日の間に更に顔色は白くなり、まるで影すら薄くなったかのような姿に、小喬は怯えた。
孫策が帰ってきて沸き立つ広間の中で、のいる場所だけがまるで異質で別の世界のようだった。
縋りつく大喬を残し、孫策がの元へと歩み寄る。
駄目、どうしてお姉ちゃんを置いて行っちゃうの。酷いよ孫策様。
乾いた打撃音が響いた。
が孫策を殴った瞬間を、小喬は確かにこの目で見た。だが、あまりに現実味のない光景は、理性が拒んでなかなか受け入れられなかった。
の怒鳴り声が広間いっぱいに広がる。
――大事な人達なんでしょう
――それとも大事じゃなかったの
真っ赤な火みたいだと思った。の怒る姿は、まるで金の火の粉を撒き散らす、真っ赤な火みたいだ。
の体が引き倒され、床に転がる。足首が変な風に曲がったのを、小喬は見てしまった。
痛い、と思った。けれどは自分で立ち上がり、尚も孫策に迫った。命を掛けた。
駄目。
どうして、そこまでするの。何でそこまで出来るの。は、孫策様が好きだというわけじゃないらしい、とは聞いていた。でも、そうしたら孫策こそがに執着していることになる。
それは駄目、孫策様が執着していいのは、お姉ちゃんだけなのに。
が悪いということにするには、が孫策を追い掛け回していなければならないのだ。なのに、は孫策の不実を詰り、不徳を責め、不義を叱る。
――謝る相手が違う
孫策がを好きでいる理由があってはいけないのに、こんなにも見せ付けられる。
大切そうにを抱えて、その目ががとても愛おしいと語っていて、小喬はまた泣きたくなった。
そして孫策のあの宣言。は自分の物だと、堂々と言葉と態度で示す孫策の惨い仕打ちに項垂れる大喬の背中を見つめて、やっぱりを許してやることなどできないと思った。
孫策の信心嫌いは度を抜いている。迷信とか信仰とか、そういう胡散臭いと思われる物は何もかも厭う。だから、が神様を『いる』と言えば、少なからず孫策の不興を買うことになる。
逆に、『いない』と言うなら何故人は神を信じて止まないのか、追求することが出来る。いないものを信じる民衆を、馬鹿にしているのかと詰ることが出来る。それは、建前でも民を愛して止まないという劉備の考えに反しているから、やはり君主の不信を招くことになるだろう。
ぱっと思いついたわりに、なかなかいい考えだと思えた。
さぁ、どうするの。
小喬は唇の端をにっと吊り上げた。
は、んー、と唸り声を立てると、意外にあっさりと返答した。
「います……ね」
ちらりと見遣った孫策の眉が、くっと引き上がるのがよく分かった。小喬は心密かに『やった』と快哉を叫んでいた。