「……つか、必要、と言った方がいいのかな」
 うん、と軽く頷いて、は小喬に向き直った。
 何でこのことを?
 問われて、小喬は言葉に詰まった。困らせてやりたかったからとはさすがに言えない。
「いるか、いないかだけ、知りたかったんだもん」
 呟きにも似た小喬の返事に、居合わせた陸遜、甘寧、呂蒙は同時にぴんと来るものがあった。その表情にありありと小喬への咎めが表れて、小喬は首を竦めた。
 は、気がついていないのか唇に指を押し当てて何事か考えている。
「うーん、あの、存在証明になるんで、如何言ったらわかりやすいかなぁ」
 存在証明、と言う聞き慣れない言葉に、小喬は眉を顰めた。陸遜は逆に顔を輝かせている。
「それは、どのような」
 勢い込む陸遜に、は少し身を引いた。
「……いや、あの、私もそんなに詳しいわけじゃないんで……」
 呂蒙が無言で陸遜を嗜め、陸遜は恥ずかしそうにに詫び、しかしが話をするのを待つように背筋を伸ばした。
 は気まずそうに陸遜を見ていたが、輝く理知の目に根負けしたのか、陸遜に向き直るように椅子に座り直した。
「要するに、神様が何処にいるのか誰も知らないし見たこともない、ですよね。そういうものを存在するって説得……とはちょっと違うかな、とにかく、こうこう、こうだから存在するって説明を成り立たせる議論のことですよね。まあ、神様じゃなくてもいい、例えば海を見たことのない人間に、海があるのはどう証明したらいいのか、とか、そういうことですよ」
 海ぃ、と甘寧は唸った。
「海は海じゃねぇか、ちゃんとあるだろ?」
「何処に?」
 けろりとしては甘寧に問い返す。
「ど……何処にってお前、ここから東にずっと行きゃ……」
「東の何処? それは湖じゃないの? そも、海って何?」
 はあぁ? と甘寧は声を引っくり返した。の言っていることがまったく分からない。
「だから、海を知っている人間は、海そのものを見たことがあるから問題ないんですよ。だけど、生まれてこの方山の中に暮らしてきて、海なんてものは見たことがない、それが大きなしょっぱい水の水溜りだと説明して想像が出来るかといったらまず出来ません。ない、とされているものを如何にして存在すると説明できるか如何か、大雑把過ぎますけど、存在証明ってのはそういうことですよね」
 飲み込みが早い陸遜は、なるほど、と手を叩いた。
「あるものならば見せれば説明は不要ですね。けれど、神は誰も見たことがない、見せようがない、だからその存在の根拠を言葉で説明しなければいけない、それが存在証明、ということですね」
 まあそんな感じです、とは頷く。呂蒙は呆気に取られて、ただ二人の遣り取りを見ている。
「では、殿の存在証明をお聞かせいただきたい……神とは、何処に、どのように存在するとお考えですか」
 はぁ、とは気の抜けた返事をする。
 からすれば、この時代の神様と言うものは人を超越した存在で、陸遜のようにいわゆる『学問』のように捉えて話が出来るとは思ってもいなかった。存在証明という言葉は使ったが、分かりやすい言葉を選んだだけのつもりで、専門と言うわけでもない。何処に、と言われても、居場所を説明する為の論拠を提示する類のものでもないから、半ば呆然と考えを纏めるしかなかった。
 陸遜は陸遜で、一向に肩に力の入らぬを、こんな議論には慣れきってしまっている熟練の学士然として見てしまっている。さすがは諸葛亮の珠、毅然とされていると感心するばかりだ。先日の、孫策を怒鳴りつけたの姿を目の当たりにしてしまっているだけに、色眼鏡の度も強くなっているのかもしれない。
 の目がぼんやりと宙に向けられ、放心しているかと思えば突然手にした杯を一気に煽った。
 ええい、やるしかねぇ。
「何処……と言われれば」
 とん、と陸遜の胸を叩く。
「ここですよね」
 陸遜の目が丸くなる。は構わず続けた。
「色々とね、それこそ私なんかが言うのもおこがましいほど、議論されているはずですよ、神の存在証明っていうのは。まあ、私はそっちの方はあんまり詳しくないんで、省かせて下さい。何だったかな、宇宙論だか目的論だか、そんな感じのね。で、まあ、神様が何故いると言うのか、何故必要かと言ったら、」
 不安だからですよね、と言っては自ら頷いた。言葉は更に続く。
「人と言うのは考える葦だと言う言葉がありましてね、弱い、実に脆弱な、しかし考える、心を持つ存在だっていうことらしいんですが、弱いから、絶対に何かで迷いますよね、これはいいのか悪いのか、左にしようか右にしようか、揺れる心がある……揺れない人間なんていない、揺れないと言う人間はいるかもしれないけれど、それはその時思い出せないか虚勢を張っているだけで、必ず迷うはずなんです。何でかって言えば、それは人間が最善、より良いものを、より良いようにと求める性質があるから、人の中には快楽を求める心があって、だからこそ人は苦しいのを堪えて生きていけるということも言えるかもしれない。それはともかくね、迷った時に、人は第三者の存在を求めるんですよね。何でかというと、自分が可愛い、言葉は悪いかもしれないけれど、やっぱり生きていく上で、嫌なことや辛いことから逃げ出したい、自分を守りたいという逃避の心が働くからなんですよね。これは悪いことじゃない……むしろ、生まれてからずっとある心を守る自浄の作用なんで、いいも悪いもない話なんですが……とにかく自分でない誰かを頼りたくなる。そこで登場するのが」
 神、ですか、と陸遜が呟いた。は頷く。
「どうしようもなく貧しい、これは自分が悪いのではない、そういう運命に生まれた、これは神のせいということになりますよね。貧しい、だから裕福になりたい。けれど手立てがない、祈るしかない。祈る相手は誰ですか。神ですよね。自分でどうにもならない、どうしようもない、自分のせいにしたくない、そういう時に『恨む存在』『すがる存在』として神は生まれる、と」
「で、神を全否定した時にどうなるか。生まれつき貧しい、働いても片っ端から蓄えはなくなってしまう。これは生きているから仕方ない。貧しいのは自分のせいだ、もっと働けばいい、働いて働いて、それで裕福になれるかと言えば」
 なりません。陸遜は唇を噛み締めた。働いてすぐ結果が出るならば、誰も苦労はないのだ。よほど運が良ければともかく、まず貧しい者はその貧しさから脱却することはない。体にも限界がある。天災が訪れる。盗賊に襲われる。戦に巻き込まれる。考えられる不運は数限りない。
「そう、だから、人は神様がいないと生きられない。自分の中の不安を律するために、ないものをあるものとして生きていかなくてはならない人間もいる。その人達から神様を奪うのは、あんまり残酷
じゃあないですか」
 だから、神はいる、必要なのだとは結論付けた。
「全然、わかんない」
 黙りこくっていた小喬が、突然口を開いた。
「それは、ですから」
「陸遜様は黙ってて! 胸の中に神様がいるっていうなら、じゃあ、あたしの中にも神様がいるってことじゃん! いないもん、神様なんて!」
 嘘つき、とを詰る小喬に、陸遜は申し訳なさを感じてを振り返った。怒っているのではないかと思ったの顔は、まったく冷静そのもので、却って驚かされた。
「いますよ、小喬殿の神様なんて、誰よりも近くにいるじゃないですか」
 けろりと言い放つ。
 小喬の顔がぴきりと引き攣り、その双眸の奥に怒りが渦巻いているのが見えた。
「いないもん!」
「いますよ」
 は、手を軽く一つぽん、と鳴らし、にっこりと笑顔を作った。小喬も思わず黙る、絶妙の胡散臭さだった。
「さてここで質問です。呉が、小喬殿の大好きな人、例えば故郷でのお友達、親戚と戦をすることになりました。小喬殿はどうなさいますか?」
 思わず息を飲む。
「そんなの……!」
 そんなの答える必要ない、と言いたかった。心の動揺のままに口篭るのに、は被せるように勝手に言葉を続けた。
「そんなの、決まってます? それは何故?」
 そう、決まってる。そんなの、だって、あたしは、呉には……。
 周瑜を振り返る。気遣わしげに小喬を見守る周瑜と目が合った。
「はい」
 ぱん、と軽く手を合わせる音がした。
「その方が、小喬殿の神様ですよ」
 え、と拍子抜けしてを見つめる。周瑜様が、あたしの神様?
「ないものをあると見なすには、偶像崇拝というか、形を伴った方がいいんです。分かりやすいですからね。それと同じレベル……程度の話で、神様なんてものはどんなものでもいい。鰯の頭も信心からと言いましてね、どんな粗末な、些細なもんでも神様になれちゃうという寸法で。要は、」
 そこに自分を託す価値があるかどうか。
 だから、神様なんて何処にでもいるし、いないと言えばいないし。けれど、いた方がいいし多い方が気が楽ですよ、そう言っては笑う。馬鹿にした感じはない。けれど、小喬は顔を赤くして俯いた。
 敵わない。
 お姉ちゃんの為に何かしてあげなくちゃと思うのに、せめて満座で恥をかかせてやるくらいしなく
ちゃと思ったのに、逆にいいようにあしらわれてしまった。
 悔しい、泣いちゃいけないと思っても自然に涙がこみ上げた。
 小喬の横を、誰かが通り過ぎた。
 ぱん、と軽い音がして、ほぼ同時に『あいたっ』という悲鳴が聞こえた。
 顔を上げると、青と白の鎧を着けた、確か蜀の趙雲という武将が小喬に向けて頭を下げていた。
「不躾な女で申し訳ありません。同盟国の都督夫人に失礼な口をききまして……南方の、田舎育ちの女ゆえ、何卒ご容赦賜りたい」
 、と呼び捨てで促され、も渋々立ち上がり、小喬に向かって深く頭を下げた。顔を上げて、おでこの辺りを撫でている。わずかに赤くなっているのが分かり、が趙雲に叩かれたのだとようやく理解した。
 趙雲は小喬に背を向けると、今度は甘寧達に向かって丁寧な拱手の礼を取った。
「まったく、礼儀作法を知らないもので申し訳ない……ご迷惑をお掛けいたしまして」
 ひょい、との体を抱き上げ、先程甘寧がしたのと同じように肩に担いで連れて行ってしまった。
 孫堅の前まで進み出ると、を下ろして再び拱手の礼を取る。孫堅が、意識しないようにして軽く頷く。趙雲はの肩を抱き、前に押し出した。
「孫夫人を殿にお返しして差し上げろ」
 暗に酌を代われ、と促し、も首を傾げつつも趙雲の指示に従う。
「え、い、いいわよ、私……」
 尚香は趙雲を無言の内に咎めるが、趙雲は知らぬ顔だ。
 脇では、孫策が噛み付くような顔をして趙雲を睨みつけた。ちゃんと言っておいたのに、何してやがる。
 やはり趙雲は知らぬ顔で、尚香を促して劉備の背後に戻ってしまった。
 は、慣れぬ手つきで孫堅に酌を勧めた。
 杯を煽った孫堅が、ふと鼻を蠢かす。何だ、と思って見ていると、孫堅は不躾にもの首筋に鼻を近づけた。驚いて身を引くのと、孫策が腹を立てて立ち上がるのがほぼ同時だった。
 孫堅はすぐにから離れた。
「……何か、付けているのか?」
 甘い香りがする、と言われ、は固まった。孫堅の言葉を聞きつけた孫策が、遠慮もなくの腰を抱いて耳元でくんくんと鼻を鳴らす。のわ、とが色気のない悲鳴を上げた。
「ホントだ。何だ? 香油か?」
 いつも何もつけてねぇのに、どうしたと聞かれても、には返す言葉がない。
 孫策が、虫の知らせでも感じたのか、ぱっと視線を趙雲に向けた。
 対して、趙雲は艶やかといっていい満面の笑みを、孫策に向けて放った。
「……この野郎」
 趙雲の明け透けな挑戦に、孫策は凶猛な笑みを浮かべて歯を剥く。
 孫堅もまた、冷ややかな視線を趙雲に向ける。
 二人の、いや他にも何人か、例えば陸遜や甘寧などが冷たい視線を趙雲に向けるのだが、趙雲はいっかな気にすることもなく、涼やかに視線を返す。
 は呆然として趙雲を見た。歌を控えろの踊るなの言っていたのは、目立つなということではなかったのか。説教した張本人が悪目立ちしてどうする。
 劉備の後ろで、今や宴の主役級に注目を浴びる趙雲を振り返り、尚香は劉備にひそひそと耳打ちする。
「……私達、生きて呉を出られるかしら」
 ふふ、と悪戯っぽく笑う尚香は、もう開き直って状況を楽しむことにしたらしい。劉備は困ったように首を傾げ、真顔で『孔明がこの事態を想定してくれていることを信じよう』と返した。

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