気分は針の筵のまま宴から引き上げた。
 この手の宴は朝までやるものなのかと思っていたが、さすがに連日のせいか、夜中には一度中締めとなり、呑みたい者だけが残って宴会を続けていた。
 半分近くの者が残っていたが、は体調がまだ本調子に戻っていないということになっているので、早々に引き上げてくることができた。馬良のとりなしに心から感謝したものだ。
 室の前に、王埜がいた。
 少しぎょっとして立ち竦んでいると、顔を赤くして、申し訳なさそうに頭を下げてきた。
 が近くまで来ると、改めて頭を下げた。
「ごめん、俺、何も知らなかったもんだから……」
 は微かに笑みを浮かべつつ、首を横に振った。
 普段から仕事熱心で、色恋沙汰は元より遊びにもほとんど興味のない真面目な王埜が、そこら辺で噂される類の話を耳に入れることは少ない。の件も知らなくて当然だと、他ならぬ本人がそう思ったし、王埜に想われていたことが嬉しくないとは言えなかった。何もなければ、それこそ一人でいた頃のだったら、嬉しくて涙の一つも零していたかもしれない。
 今は、そうではない。
 おかしなことになっているという自覚がある。事実を知った王埜も、もう引け腰になっているのがありありと分かる。
 当たり前か、なんたって、今日分かっただけでも子龍に伯符だもんね。
 他にも、馬超や姜維から告白されているのだと知ったら、どれだけ肝を冷やすか知れたものではない。ただの一文官にしてみれば、これらの名前は雲上人にも近しい名のはずだ。
「……本当に、言い訳かも知れないけど……俺は、を嫁にもらいたいって、会ってからずっと思ってたよ。でも、の迷惑になるのは嫌だったし、当分言うつもりはなかったんだ」
 今日だって、言うつもりはなかった、と王埜は項垂れた。
「宴に呼ばれて、酒呑んで、気が大きくなっていたのかもしれないな……本当に、ごめん」
 頭を下げる王埜に、はただ微笑んで見せるしかなかった。王埜が悪いのではないし、誰が悪いのでもない。
「私の方こそ、ごめん……気持ちは嬉しかったけど、私……」
 いい、いいと王埜は慌ててを諌める。顔が真っ赤だ。
「……なかったことにしてもらえないか。明日から、今まで通り、普通に仕事しよう。そうしてもらえないか」
 王埜の申し出は、にこそ有難いものだった。迷わず大きく頷くと、王埜の顔が少し緩んだ。
 その顔が再度、赤くなる。
「……矛盾、しているかもしれないけど……最後に、あの、これきりでいいから」
 口付けを求められ、も顔を赤らめた。
 うわぁ。
 は心臓がばくばくするのに焦った。
 なんか、少女漫画みたいなー!
 返事をしないの頬に、王埜の手が触れる。王埜の顔が真っ赤で、頬に触れる手が震えている。緊張した面持ちが無性に可愛らしくて、は、これっきりの最後ならいいか、とそっと目を閉じた。

 突然声が掛かり、二人は猫のように全身の毛を逆立てた。王埜は驚きのあまりから飛びのいている。
 声のした方、の背後を振り返ると、孫策がにこにこ笑いながら歩いてくるところだった。
「ちょっ……ここ、蜀の……!」
 慌てるあまり言葉にならないに、孫策は明るく笑い、固いこと言うなよ、と肩を抱き寄せた。
「話、済んだか?」
 無邪気に王埜に語りかける孫策に、王埜も口篭りながらはぁ、と曖昧に頷くしかなかった。
「じゃあいいよな。今度は、俺がこいつと話するから、悪ぃな!」
 もがくを軽く室に押し込んで、孫策は扉を閉めてしまった。
 王埜は、やはり呆然と扉を見つめていたが、がっくりと肩を落として自室に戻っていった。

 孫策は、の口を手の平でしっかり塞いで、背後の様子を伺う。羽交い絞めにされていたがやっとの思いで抜け出して、孫策に文句を言おうとした瞬間、その顔を見てぴきりと固まってしまった。
 昼の趙雲に続いて、今度は孫策までもが怒った顔をしている。
 厄日か、と脳裏で嘯くも、には吉日の判定が出来るほどの知識はない。
「……お前、今、何しようとしてた」
 唸り声に近い孫策の声に、内心怯えて竦むだったが、厄介な負けん気が首をもたげてしまう。
「わ、私が何しようと、関係ないでしょ」
 孫策の目が鋭くを射抜く。は口を噤むしかなかった。
 力の関係は歴然としていて、が孫策達の横にあるように勘違いするのは、結局孫策達がそうあれと許してくれるからに過ぎない。改めて、そのことを思い知らされる。
「……じゃあ、俺が何しようと、お前には関係ないってことか?」
 二の腕を掴まれ、の顔に怯えが走る。物凄い力だ。振り払えない。
 真顔の孫策が、顔を近付けてくる。怖い、でも、動けない。
 はぎゅっと目を瞑り、恐怖から目を背けた。
「……ばぁ〜か」
 こつん、と軽く額がぶつかり、目を開けると孫策の顔がごく間近にあった。もう、怒っていない。呆れたようにを覗き込んでいる。
「泣くくらいなら、最初からあんなことしてんじゃねぇ」
 確かに、目の端に濡れた感触がある。
 だが、泣いたのは孫策が怖くて、怯えたから泣いたのであって、別に王埜とのやりとりのせいではない。
「尻軽」
 詰りながら鼻を軽く噛まれ、は不貞腐れて頬を膨らませた。

 寝台に連れて行かれ、何をする気だと一瞬慌てたのだが、孫策はを座らせるとその膝に頭を乗せた。いわゆる膝枕だ。
 心地よさげに目を瞑っている孫策の顔が、の視線の真下にある。
 男臭い顔の線も、顎に生やした髭も、が触れようと思えば簡単に触れられる位置だった。
 孫策の目が開き、の視線と絡む。
「……お前、これ、まだ残ってんのか?」
 これとは何か。が首を傾げると、孫策の指がの頬を撫でた。熱い、子供のような体温の指だった。
「この、匂い。残ってんなら、捨てちまうか、もうつけないようにしろ」
 春花の母特製の香油は、趙雲がと体を繋ぐのに全て使ってしまっている。残りはない。
 趙雲とのことを思い出して頬を赤らめたは、誤魔化すように孫策に理由を問うた。
 孫策は体を起こすと、の手を取り自らの股間に押し当てた。
「ぎゃ」
 勃っていた。
 手を引くを敢えて押し留めず、孫策は胡坐をかいて頭を抱えた。
「その匂い嗅いでっと、何か変な気になっちまう……俺もいい加減おさまんねぇし、こんなん初めてだ」
 たぶん、その匂いのせいだと告げられ、はおろおろと体を撫で回す。つけたくてつけたのではない、も匂いを落とせないかとずいぶん長く湯を使ったのだが、結局落としきれなかったのだ。
「それ、あれだろ、あの時のだろ」
 が趙雲を待ち、孫策がを追ってきたあの夜の香油。
 そう言えば、あの夜の伯符も強引に過ぎた、とは思い返していた。趙雲とのことで頭に血が上っていたのだと思っていたのだが、ひょっとしたらこの香油の効力もあったのかもしれない。
 うひゃあ。
 知らぬこととは言え、後生大事に仕舞いこみ、あまつさえいい香りだからと楽しんでいた自分が恐ろしい。香油というよりは、男をその気にさせる媚薬めいたもののようだ。
「甘寧も陸遜も、何か慌てて出て行くしよ、親父はああいう人間だからわかんねぇけど、さっきの奴もコレにやられてたんじゃねーのか」
 では、下手に口付けなど許したら、その後どうなっていたか分からないかもしれない。
 最後の口付けなどと浮かれていた自分の迂闊さに、は穴があったら入りたい気持ちだ。
 孫策が、の腕を引き己の胸に抱き寄せる。
「……心配すんな、こうしてるだけだ」
 とは言え、孫策の昂ぶりは静まる気配を見せないし、熱の存在を知らしめられているとて、落ち着けるものでもない。
「……あの、大喬殿のとこに行ってきたら?」
 夫婦なのだから、それが自然に思えた。
 しかし、孫策はを不思議そうに見下ろし、首を傾げた。
「大喬のとこ行って、どうしろってんだよ」
 は?
 あまりの言葉に、が固まる。
「……え、いや……え?」
 夫婦なのだから、どちらかが昂ぶり、静めるのに遠慮はいらないだろう。まして夫である孫策が妻たる大喬の元に通うのに、何の不都合があろうか。
 孫策は、まだ不思議そうにを見下ろしている。
「……ん? あ、ひょっとして、大喬としろって言ってんのか?」
 突然閃いたというように、孫策が素っ頓狂な声を上げた。
「何、お前、俺がお前以外の女抱いてもいいっていうのか?」
 変な女だなぁ、と呆れられる。
 呆れるのはこっちだ。
「まぁ、でも、ソレはできねぇよ。大喬は、まだだからな」
 はい?
 驚愕するを、やはり孫策は不思議そうに見下ろしていた。

 孫策の拙い説明では、大喬と牀入りするのは大喬が二十歳になってから、と決められているのだという。父親も既に他界している姉妹を実家暮らしさせておくのもおかしな話なので、式を先に済ませ、孫家で暮らさせてはいるが、本来の意味ではまだ二人は夫婦ではないのだ。
「まぁな、口約束みたいなもんなんだけどな……ホラ、あいつ、なんか小っこいだろ。だから、何か可哀想みたいに思っちまって」
 待つのは全然構わねぇから、そんでもいいかなって思ってる。
 孫策はそう言うと、ごろんと寝転がった。
 幾つの時に嫁入りしたのかは知らないが、大喬も納得しているのだろうか。好きな相手の下に嫁ぎ、こんなにそばにいて、肌を触れさせずに耐えられるものなのだろうか。
 黙ってしまったに、孫策は寝転がったままずりずりと這い寄り、にかっと笑った。
「何だ、焼きもちか?」
 全然ずれたことを言う。が指で孫策の鼻の頭を弾くと、痛ぇ、と言って転がった。
 鼻を抑えて呻いている孫策に、は意を決したように近付いた。
「じゃあ、大喬殿と結婚してから、女の方はどうしてたの」
 の問いに、孫策は考え込むように上を見上げてから、視線をに戻した。
「そりゃお前、俺はちゃんと大喬以外の女なんて見向きもしな「嘘つけ」
 断じる。
 蜀でに手を出してきたくせに、その時点でダウトだ。見え見えの嘘に呆れ返る。
 う、と口篭り、孫策は口を引き結んだ。
「……ま、その、な、我慢できねぇ時は、甘寧なんかと娼館に、ちっとな」
 でもあんまり行ってねぇぞ、と喚くのを、ははいはいとおざなりにいなした。
「そりゃ、周瑜は我慢してるみてぇだけどよ、はっきり言って体に悪いじゃねぇか、なぁ」
 俺は周瑜じゃねぇから我慢できねーもん、とよく分からない駄々をこねる。やはり、はいはいと適当にあしらっていると、突然孫策が飛び起き、の手を握り締めた。
「でも、お前と会ってからは行ってねぇ、これはホントだ」
 真顔で迫られて、別に責めているわけではなかったのだが、孫策の言葉が何処か嬉しかったのも事実だ。しかし、そうなると一つ気になることがある。
「え、じゃあ今はどうしてるの」
 何気ない言葉だったが、孫策は唇を噛み締めて黙り込んでしまった。
 言いたくないなら別にいいや、とが視線を逸らすと、何か勘違いしたのか孫策がわーわー言いながら飛びついてきた。
「い、言うって! ホントに行ってねぇんだから、俺!」
 口篭りながら、自分で、と言うと、それきり孫策は口を閉ざした。
「……言ったぞ、言ったからな! 信じろよ!」
 不貞腐れた孫策は、に背中を向けて胡坐をかいている。
 最初とは違う意味で怒っているように見えるのは、自慰を告白させられた憤りだろう。
 勝手に思い込んで勝手に告白したのだから、責任を感じるようなことでもない。けれど、正直に打ち明ける孫策が、には愛おしく思われた。
「手、で、してあげようか」
 それくらいなら、してあげてもいいかな、などと考えてしまう。自分でするよりは、他人の手の方が気持ちいいに決まっている。それぐらいは、何と言うか、サービスしてもいいと思った。
 孫策が、腹を立てたようにを睨みつけ、は肩を竦めた。
 不貞腐れてぶつぶつと口篭る孫策が、ちらちらとこちらに視線を送ってくる。うー、と唸ると、髪をぐしゃぐしゃに引っ掻き回した。孫策なりに、煩悶があるのかもしれない。
 ぱん、と膝を叩くと胡坐を崩し、四つん這いでとことことのところに移動してくる。
 思いつめたような顔が、不意にへらっと緩んだ。
「口でしねえ?」
 恥ずかしそうなお強請りに、は思わず孫策の額にチョップを振り下ろした。

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