孫堅は、眠っているかのように静かに目を閉じていた。
「……殿、聞いておられるのですか」
 野太い声が、焦れたような早口で孫堅を急かす。
 ゆるり、と目を開ければ、傍らで古参の忠臣、黄蓋が心配そうに孫堅を見つめていた。
「お前が俺に仕えてくれてから、もうずいぶん経つな」
 話を急に変えられて、黄蓋は不満そうに鼻を鳴らした。
 黄蓋は、孫堅がを手に入れようとすることに反対していた。呉に迎え入れるのに異論はない。真正直なの言葉や姿勢は、武人である黄蓋には心地よいものだった。
 だがしかし、である。
 は孫策が愛する女だ。表向きは蜀の文官として一線を画そうとするも、孫策を憎からず思っているのは先日の『暴言』でも察しがついた。
 だからこそ、長子たる孫策の手からを取り上げるような真似をして、無用のいざこざを起こすことはあるまいと言っているのだ。その程度の分別を付けずして、天下など望むべくもない。
 まあ聞け、と孫堅は黄蓋を制した。
「俺も年を取った」
 孫堅の口から、意外な言葉が飛び出した。黄蓋も思わず呆気に取られてしまうほど、それは孫堅に似つかわしくない言葉だった。
 孫堅が苦く笑う。
「何を驚くことがある。あれほど大きな息子達が三人もいれば、俺も年を取って当たり前ではないか?」
 黄蓋が口篭るのを見て、孫堅は言葉を続けた。
「そろそろ、策に跡目を任せようと思う」
 今度こそ、黄蓋は言葉を失った。大きく目も口も開けたまま、唖然として孫堅を見つめている。孫堅はようやくいつもの笑みを浮かべ、内緒話をするように黄蓋の耳元に口を寄せた。
「無論、今すぐの話ではない。だが、策に跡目を継がせた後は、俺は一切の政務から身を引き、隠居しようと思う」
 黄蓋は、未だに声もない。自我こそ取り戻したが、懸命に首を横に振るのが精一杯だ。
「今でなくとも、いずれは必ず迎える日のことだ。……戦で命を落とさねば、の話だがな。その時、俺の手には何も残さずに去るつもりだ。全て、息子達に託そうと思う」
 領土や兵は勿論、未来も、希望も、全て。
 孫堅は手を広げた。その手の中に何が見えているのか、ただじっと見つめている。
「だが、俺も人の子だ。虚無には耐え難い」
 優しい手が欲しい。慰めの歌を得たい。我侭と言えばそれまでの、他愛の無い願いだった。
「いかんか」
 黄蓋の顔が渋面を作る。いけない、と言っているではないか。
 けれど、孫堅は引くまい。この無邪気な欲念こそが、孫家の強さの根幹なのだ。孫堅は、かつて黄蓋に同じように呟いたことがある。
 この天下を、豊かで穏やかな、光溢れるものとしたい。
 そうして、どんな苦難も戦いも乗り越えてきた。そうしたい、ただそれだけで駆けてきた後ろ姿を黄蓋は追ってきたのだ。
 黄蓋は、溜息を吐いて頭を振った。
 その後は、必ず『仕様のない方ですなぁ』と言って、苦い物を飲み込むように口を曲げるのだ。長の付き合いで分かりきった黄蓋の癖だ。
「……本当に、まったく仕様のない方ですな」
 孫堅は、微かに笑った。

 宴が始まるや否や、小喬が小走りにやって来て、の手を引く。
「こっち、こっちー」
 困ったようなが仕方なく立ち上がるのを、構わずにぐいぐいと引っ張る。
 蜀側の席から広間を横切って呉の、小喬と大喬の席へと引っ張っていかれるので、上座の孫堅や劉備達の前を横切るような形になる。
 蜀側はもちろん、呉の陣営も呆気に取られていた。特に、周瑜の動揺は隠しがたいものがあった。小喬が、大喬を気遣ってかを嫌っているのは皆が知っていることで、それこそ昨日の宴で決定的に破局したと思われていた。
 それが今、小喬が自らに付き纏い、べったりと腕にぶら下がっているような状態だ。
 甘寧がひょこひょことやって来ると、小喬がを隠すように両腕を広げた。
「だめー! 大姐は、今日は私達と一緒にいるのー!」
 小喬は大喬を振り返ると、ねーっ、と声を揃えた。甘寧の不審気な視線を受け、むしろが居心地悪そうに肩を竦めた。
「『大姐』と来たか。でもよぉ、昨日、俺がせっかく『大姐』と呑もうとしてた時に、横から小難しいお題出して邪魔してくれたのは何処のどなたさんだったっけか」
 小喬が、うっと息を詰める。
「それに、あの色男サンにも了解は取ってあるぜ?」
 くいっと背後を指す甘寧の指を辿ると、趙雲が取り澄まして立っていた。
 趙雲の許しが出たのなら、に否はない。昨晩のことも申し訳ない気になって、は小喬の手を軽く叩き、また明日、と囁いた。
「……ホントに?」
 半分涙目になって見つめられて、がぎょっとする。本当に、手の平を返したように懐かれてしまった。小喬が悪い子ではないのは分かっていた。ちょっと当たりがキツくてめげそうなこともあったが、元々嫌いな『キャラ』ではなかったから、厭えなかったということもある。小喬もそうだったのかもしれない。無理に嫌いになろうとして、なれなくて、悩んで苦しんだ上で仲直りした反動が出ているのかもしれない。
 甘寧の隣に腰掛けると、今度は陸遜が嬉しそうに杯を差し出してくる。が受け取ろうとすると、甘寧がひょいと取り上げた。
「陸遜サンよぉ、今日はフツーに呑ませてもらうぜ? 小難しい訳のわかんない話は御免だ」
「それはないでしょう、甘寧殿!」
 陸遜の抗議に、は苦笑いした。陸遜は、を能力以上に評価している嫌いがある。諸葛亮の言動が元なのだが、はその件を聞いていなかったので、何故陸遜がのつまらない一言一言に反応するのかが分からない。よって、陸遜の情熱はにしてみれば非常に有難迷惑なのだった。迂闊なことを口走っては諸葛亮に迷惑がかかる、それくらいなら歌を歌って馬鹿やっていた方が全然マシだと思っていた。
「俺は馬鹿だから、あんな話されてもわかんねぇんだよ!」
 陸遜と口論じみてきた甘寧が、吐き捨てるように怒鳴った。甘寧でなくとも、陸遜の口の達者さには誰も到底敵わない。周瑜辺りを連れてくれば別だろうが、そもそも陸遜が周瑜に口答えすること自体が考えられないので、論外だ。
「え、甘寧殿は馬鹿じゃないでしょう」
 呂蒙から酒を注いでもらって、ちびちびと舐めていたが突然反応する。
「……あ?」
「いやだから、甘寧殿は馬鹿じゃないでしょって、そういう話」
 それは聞こえていた。甘寧が言いたいのは、要するに、『馬鹿じゃない』と否定する根拠だ。我がことながら、甘寧は自分の学問に対しての根気のなさや屁理屈嫌いを自認していたから、の言葉が気になった。
「馬鹿っていうのは、自分の考えに固執して人の話に耳を傾けようともしない人のことを言うでしょ。甘寧殿は、ちゃんと『海は海じゃねぇか』って言ってたでしょ。ちゃんと聞いてたってことだから。理解できないのは、説明の仕方が悪いってだけで、ちゃんと説明したらちゃんと理解できますよ」
 だから馬鹿じゃあないでしょ、とは甘寧を見上げる。
「……おー」
 何だか面映くなって、甘寧はこめかみを掻いた。の方にずいと身を乗り出す。肩が触れ、顔が近付くが、は何の警戒も見せず、甘寧の目を見つめ続けた。
「お前ぇよ、ソレ、癖か?」
「あい?」
 は杯から酒をちびちびと舐めている。けれど、やはり視線は甘寧に向けられたままだ。
「そのー……人の目を覗き込むみてぇな。ここまで近付いたら、フツー避けるとかしねぇか?」
 そですか、とは初めて甘寧から目を逸らした。それも単に、思索に耽る為に目を逸らしたまでで、結論が出たとみるや再び甘寧の目を見つめた。
「話する時は、人の目を見てと教わりました」
 しかし、いくらなんでも限度があるだろう。あまりに意識されないようでは、男としては少々面白くなかった。
「お前ぇ、どういう男が好きなんだ?」
「は?」
 会話の中身が突然飛んで、もさすがに驚いたらしい。目を丸くしている。
「んー、じゃあアレだ、ウチの連中でどいつが好みだ?」
「周泰殿と呂蒙殿」
 つらっと名前を出されて、呂蒙が酒を吹く。顔を真っ赤にして派手にむせているので、陸遜が慌てて手巾を差し出し背中をさする。
 周泰はちらりとに目を向けたが、後はだんまりを決め込んだ。側にいる孫策の目が、剣呑だったせいもあろう。
「……何、そうなのかよ」
 何処が、と問われて、はにこにこと答える。
「タッパがある人が好きなんですよぅ!」
 確かに、周泰は呉の中でも際立って背が高い。甘寧は、何だそんなことかと拍子抜けしたが、孫策は未だ周泰に剣呑な目を向けている。孫策は呉の中でも割と背が低い方なのだ。
「おっさんは?」
「昔、お世話になった上司にすっごい似てるんです!」
 仕事が出来て律儀で真面目で、とにかくカッコ良かった、とが頬を染める。呂蒙も何となく恥かしくなり、から目を逸らしつつ照れて赤くなった。が、その視線の先に剣呑な目をした孫策を見出し、慌てて姿勢を正した。
「何だ、そんなことか」
 同じ言葉を繰り返し、甘寧はの肩に手を回した。
「俺にしろよ、俺はいいぞ〜」
 がきょとんとしていると、耳元にひそっと囁きかける。デカイから、絶対満足させてやる、と。
「でかい……?」
 が呟き、呂蒙が再び吹き出す。陸遜がジト目でにやにや笑っている甘寧を睨み、説教の一つも垂れようと口を開いた時だった。
「甘寧殿!」
 ばん、とが卓を叩き、腕を外させて甘寧に向き直る。顔が怒っている。
 勢いに呑まれて、甘寧も戸惑いながらに向き直った。
「何だよ、ンな怒んなくたって……」
 冗談の通じない奴だな、と甘寧が苦々しく思うと同時に、が甘寧の目の前に指を突き出した。
「おっきければいいなんて、男の幻想です!」
 一瞬、辺りがしぃんと静まり返る。
「……あぁ?」
 甘寧が困惑して声を上げる。は極々真面目な顔で、ぴしりと卓を叩いた。
「そーゆーね、勝手な妄想は迷惑ですから改めて下さい? 好きな人とだったら、大概の女はもうそれだけで満足なもんなんですから! おっきければいいなんて、どーしてそう考えるかなぁ……痛いだけですよ、そんなん突っ込まれても。少なくとも、私はヤです」
 はくどくどと説教するのだが、話がとんでもなく率直で、どうにも道義と掛け離れている。
「……いや、だってお前ぇ」
「だってじゃありません、だってじゃ」
 ぴしぴしと卓を叩く。
「甘寧殿、好きな人いないんですか。好きな人作って、その人としなさい、私が言ってること分かるから」
 論より証拠だ、とは一人勝手に納得している。
 趙雲は、何をか言わんや、と呆れている。が処女でなくなったのはこちらに来てからで、それこそ一年も経っていない。偉そうに説教できる立場か。
 それとも……を抱いた中に、確たる差を見出せる程の男がいたということなのだろうか。
 いや、と趙雲はすぐに妄想を打ち払った。であれば、あんな風にゆらゆらと揺れるわけがない。
 今いるこの面子の中で、誰が一番馬鹿かと言えばに間違いないと、趙雲は溜息を吐いた。
 とは言え、甘寧はそんなことを知る由もない。の言葉をただ鵜呑みにしていた。
「……惚れた女と、ねぇ」
 んじゃあ、と甘寧は不敵に微笑む。
「お前ぇでいいや。俺としようぜ」
 ぱちぃん、といい音が響いた。が甘寧の額を叩いたのだ。皆が皆、ぎょっとしてと甘寧を見遣る。
 衆目の面前で顔を叩かれる、それはこの上もない侮辱だ。
 にベタ惚れしている孫策はともかく、甘寧の血の気の多さは天下一品だ。陸遜も呂蒙も、甘寧を取り押さえようと思わず身構えた。
「……ってぇな、バカ。何しやがる」
 甘寧は、鉢巻越しに叩かれた額を撫でた。怒ってすらいない。むしろ、楽しそうだ。
「好きな女とって言ってるでしょう、好きな女って!」
 馬鹿だなぁこの人は、と憤慨しているは、周りが呆気に取られているのにまったく気がついていないようだ。甘寧との口論に夢中になっている。
「だから、お前ぇでいいって言ってるじゃねぇか」
「もー、だからぁ、決めて好きになるもんじゃないでしょう、分かんない人だなぁ」
 けらけらと甘寧が笑い、は甘寧が話を聞かないと言って怒っている。
 周泰の目の前を、孫策がだかだかと歩いていく。
「てめぇ、甘寧っ!」
 を背後から抱き寄せ、甘寧から引き剥がす。
「これは、俺のだって言ってんだろっ!」
 コレ扱いされ、がむっとする。甘寧は、そんなの顔を見て、面白そうに笑った。
「まだそうと決まったわけじゃねぇみてぇだけどな」
 趙雲は、突然甘寧に『なっ』と振られて、眉を寄せた。どうも、こういう厚かましい性格が得意でない。
「……それに、この女を落とせって言うのは、大」
 甘寧の言葉は、最後まで言い終えなかった。
っ!!!!!!!」
 突然、尚香が立ち上がったかと思うと激しく卓を叩いた。
「は、はいぃっ!」
 はぎくりとして飛び上がると、尚香に向かって直立不動の体勢を取った。
「こっち、来なさいっ!!」
 怒鳴られて、は慌てて尚香の元に駆けつける。隣にいた劉備も、趙雲さえもびっくりしている。
 が到着すると、尚香は椅子が倒れているにも関わらず座ろうとする。は慌てて椅子を直し、何とか尚香が腰を降ろす瞬間に間に合わせた。ところが、尚香は気付きもしない。そのまま、普通にに向かい直す。
「私、怒ってるのよ……怒ってるのよ、私!」
 何で二度繰り返すんだろう、とはこっそり汗を拭いた。
「こっち来てから、ずっと、ずっと、ずぅーっと私、我慢してるのよ!」
 駄々をこねるように腕を振り回している。は、何が何だかわからないまま相槌を打つ。
が忙しいから、具合が悪いから、玄徳様が我慢しなさいって言うから我慢してるの! 分かる? 私、我慢してるの!」
 尚香の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ち、皆がぎょっとした。
「す、すいません……」
 思わず謝るが、相変わらず話が見えない。
「何で私が怒ってるか、分かる? 何で私が怒ってるのか!」
 戸惑っているに憤ったか、尚香が怒鳴る。無論分からないので、はえーとえーとを繰り返した。
「話の、続きはっ!!」
 あ。
 はようやく尚香の言わんとするところを理解し、深く深く納得した。
 呉に来るまでの間、尚香に千夜一夜物語を話して聞かせていたのだ。確か、いいところで孫策の出迎えという乱入を受け、それきりになっていた。
 そりゃあ焦れるし苛つきもするだろう。週刊連載の途中、いいところで作者急病により休載されていたようなものなのだ。にも、その気持ちはよく分かる。
 しかし、尚香のこの荒れっぷりは何なのだろう。泣き喚いて卓に突っ伏してしまっている。
 ふと、倒れた杯が目に入った。
「……尚香様、御呑みになったんですか……?」
 劉備に問うが、劉備も困惑して孫堅の方を向く。孫堅は、ははは、と笑った。
 いや、ははは、違うから。
 眉間に皺を寄せるに、孫堅は悪戯っぽく肩をすくめた。
「……尚香は下戸故、一口でも酒を呑むと荒れてなぁ」
 下戸違う、それ酒乱。
 は劉備を促し、早々に泣き疲れて眠りにつこうとする尚香を運び出すことにした。趙雲が手を貸そうとするので、尚香は劉備の妻なのだから、劉備が運ぶのが道理だと突っ撥ねた。
 趙雲が軽く睨むが、へへん、と胸を張っていなす。劉備が微笑で趙雲を宥め、孫堅に一時退室の非礼を詫びた。
「こちらこそ、娘がすまんな……そうだ、
 話を振られて、がきょとんと振り返る。
「今度、俺にもその話を聞かせてくれ」
 劉備の腕の中で眠っていると思っていた尚香が飛び跳ね、駄目、と怒鳴った。
「父様は、後! 私が最後まで聞いてから!」
 言うなり、尚香は劉備の首に腕を回す。
「……玄徳様、早く蜀に帰りましょう?」
 ぴく、と広間の空気が震えた。異質な雰囲気に、さえも思わず辺りを見回した。尚香は気がついていないようで、劉備に『早く帰って、を私の女官にしてもらう』と駄々をこねている。
 劉備に付き従う趙雲と目が合うが、趙雲の目は無表情に、ただを促した。従った方が良いと判断し、も何事もなかったように劉備と尚香に随行した。
 甘寧におーいと声を掛けられ、後で戻りますから、とおざなりに返事する。
 ふと振り返ると、孫堅がじっと見つめていた。
 尚香を心配しているのか。でも、それにしては。
 何となく不安になって、慌てて趙雲を追った。

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