背後を振り返り振り返り、劉備と尚香に与えられた室まで来て、また廊下を注意深く見回し、
しっかりと扉を閉めた。
 尚香はすっかり眠っているらしかった。
 その寝顔を優しく見つめ、劉備は不安気なを手招きした。
 物音を立てないようにそっと素早く駆けてくるに、劉備も趙雲もこっそり笑った。
 尚香を寝台に残し、室の隅に三人で寄る。
、忙しいだろうが、馬良には私から言って置く故、明日から尚香の相手をしてもらえぬだろうか」
 異論などない。
 はこっくりと頷き、眠る尚香を伺った。
「決まった時間に、尚香様のお相手を勤められるようにします」
 劉備は、結婚の挨拶という名目で呉との交渉事に余念がない。劉備が望んでいるわけではなく、先方から隙あらば劉備の足元を崩してやろうと乗り込んでくるのだ。受けざるを得ない。
 それは覚悟の上なので仕方ないとして、尚香が手持ち無沙汰になりがちだった。実家なのだから、気晴らしの方法は幾らでもありそうなものなのだが、の『物語』を知ってしまってからは、気晴らしにも熱が入れられない。恋のような中毒性を持って熱中しているのだ。
 もまさかそこまでとは思ってもみなかったから、劉備から話を聞いて仰天した。
「例えば、馬で遠乗りに行ったとするだろう。広い野原に出ると、尚香が突然『ヤマトタケルみたい』だと言うらしい。供の者は知らないから、尚香の言葉が分からぬらしくてな……尚香も説明しようとするらしいのだが、上手く言葉にならず、苛つくことも多々あるらしい」
 読み専ってことですね、とが答え、劉備はきょとんとして首を傾げた。
 伝わらないのはともかく、要するに尚香は同人にはまりたてと似たような状態なのだろう。語り合う同志がいない。かといって読み専なので、作品を記すこともできない。新しい萌えを得ようにも作者急病で続きを知ることもできない。
 あまりにぴったりの表現に、は空笑いした。
 孫尚香をはめた!
 嬉しくなかった。
 その時、趙雲が廊下を見る。何の音もない。は、しかし趙雲が何かを察知したのだろうと慌てて劉備を背に庇った。
 劉備は、微かに苦笑していたのだが、は気がつくこともない。
「劉備様。尚香様のお加減、如何でございましょうか」
 呉の家人と思しき声に、は趙雲を見上げる。
 趙雲は、に安堵させるように優しく微笑みかけると、自ら扉に向かう。開けはせず、扉越しに返答した。
「尚香様は眠っておられる。しばし様子を伺おうと思う故、孫堅様には左様お伝え願いたい」
 扉の前の人物は、呉から差し向けられた劉備達付けの家人なのだろう。孫堅達との連絡役になっているらしい。少しの間何か躊躇ったようにしていて、趙雲が劉備を振り返る。
「……その、出来ましたら殿に広間に戻られるように……と。女手が必要でしたら、女官を差し向けます故」
 は、ぽかんとして口を開けた。こちらに来てからせいぜい三十分だ。広間から伝達しに来る時間を考えれば、もっと短い時間で孫堅は痺れを切らしたことになる。
 は劉備を不安そうに見上げた。先程の、孫堅の視線が気になっていた。
 劉備が柔らかく微笑み、それだけでは安堵することが出来た。劉備の微笑みは、本当に穏やかで夜の月のように清らかだ。この微笑の為に命を投げ出す兵士の気持ちが、には何となくだが分かる気がした。
「ここはいいから、は広間に戻るといい。呉の方達は、本当にがお気に召したらしい」
 は少し不貞腐れて、そうでしょうか、とぶっきらぼうに呟いた。お気に召した割には、相当な扱いを受けている気がする。
 劉備はの肩を軽く抱き、は頬を赤らめた。
の物語も、歌も、本当に面白いからな。私も、蜀に戻ったらゆっくり聞かせてもらいたいものだ」
 恥ずかしそうに俯いていたも、顔を真っ赤にして頷いた。
 そんなの反応に、趙雲は少し面白くなさそうだったが、劉備からを預かると、扉まで手を取って導く。
「大変かもしれない……けれど、の仕事を自身の力で出来る限りやればいい。出来るだろう?」
 うぉ、その台詞聞くとは思わなんだー、とが驚き、趙雲が何のことかはわからないまま、けれどどうせ馬鹿なことを考えたろうとを睨んだ。
 は趙雲に微笑みかけ、頑張るよーと呟いて廊下に出て行った。呉の家人は、趙雲に拱手の礼を取り、を連れて去って行った。
 趙雲が戻ると、劉備は先程までの微笑は何処へやってしまったのか、悩ましげに眉を顰めていた。
「かつて、劉表殿がご存命の時、仰っていたことがある……」
 智こそ、最後の武器であり至高の財なり。
 武具を取って戦うことは誰にでも出来るが、智という武器を得られるのはほんの僅か。武具を制するのは智であり、どんな財宝よりも智の財に勝るものはない、と言う。
「戦が収まり、最初の王が求めるのは最早武ではない。智、文化だと……劉表殿はそう仰っておられた。一万の兵と一人の文人は等価であるとさえ仰っておられた。私は、それを信じることができな
かったが……を見ていると、今になってようやく理解できるような気がするのだ」
 智こそは力であり、武を極める者が最後に望むもの。の知識は、この世でのみが知るもの、ならばの価値はどれほどのものなのだろうか。
 あの馬鹿な女にそれほどの価値があるとは、趙雲には信じ難かった。ただ、己が得たいと望むだけの、それだけの存在のはずだった。けれど、確かに馬超が落ち、姜維を魅了し、孫策が熱望し、今また孫堅ら呉の主だった将や文官たちがを夢中になって追い回しているのを考えると、否定もできなかった。
 軍師殿は、そのことをご承知だというのだろうか……。
 途端に不安になった。

 は廊下をてぺてぺと歩いていた。
 考えているのは、尚香のことだった。何とかして、同志なり、話をできる相手を作らねばならない。も仕事があるし、変な話やたらとストレスに弱い体になっているのだ。水が合わないのかもしれないし、はけ口がないのもいかんかもしれない。
 それはともかく、尚香と同レベルに盛り上がってくれる人で、適度に時間が取れる人、できれば同性ときたら心当たりは二人しかいない。
 広間に着くと、家人は恭しく頭を下げ、扉へと誘導した。
 急に扱いが良くなったことに、は居心地悪さを感じる。手の平を返すような態度に、何となく反感を持つのだ。
 腰を90度以上曲げて礼を言い、中に入る。
 待ちかねていたらしい甘寧が手を挙げて呼ぶが、は頭を下げると大喬と小喬のところに足を向ける。
「大喬殿、小喬殿、千夜一夜物語ってご存知ですか?」
 知るわけがない、と思いながら尋ねる。案の定、二人はきょとんとして互いに顔を見合わせた。
「明日から、尚香様にお話しすることになったんですけど、もし良ければお二人も」
「聞きたぁい!」
 が言い終わらない内に小喬が叫ぶ。目がきらきらしている。嬉しいらしい。
 大喬に目を向けると、ちょっと興奮したように顔を赤くして、うんうんと何度も頷いた。ひとまず交渉成立だ。
「条件があるんですけど」
 の言葉に、周瑜が殺気立つ。
 目の端に、こちらを睨みつける周瑜の姿を目に留めながら、は構わず話を続けた。大切な君主の奥方のためなのだ、構ってられるかと思った。
「尚香様にはある程度お話済みなんですよ、だから今、尚香様に話した分をお話してしまいますが、それでもよろしいですか」
 話の面白さを損なわないように、あまり端折れない。早口で話すにしても、結構な時間を食うかもしれなかった。少なくとも宴の時間はこれで潰れるだろう。
「うん、別にいいよぉ」
 小喬は簡単に頷いた。宴には出席するものの、たいしてすることもなく暇だからと言う。本当は、いてもいなくてもいいのだ、ただ、参加しないのも淋しいから来ているだけ、と笑う。大喬も同意し、はよっしゃと腕まくりをした。
、俺も俺も」
 孫策がひょこひょことやってくるが、はにべもない。
「孫策サマは仕事があるでしょ」
「な「嘘付け」
 即座に却下する。
 孫権が深々と溜息を吐いた。孫策に対してかに対してかは不明だ。
「何でだよ、俺も聞きてぇ」
「お仕事しない子には話してあげません」
 子、と言われ、孫策が膨れる。実際仕事をサボっているので、誰も擁護してくれない。陸遜がおずおずと挙手した。
「私も、お聞かせ願えないでしょうか」
「陸遜殿も、昼の間はお忙しいでしょう」
 却下をくらい、陸遜ががっかりと肩を落とす。大喬と小喬は軍を預かる身とは言っても、政務に口を出すわけではない。他の将よりは多少時間に余裕があるはずなのだ。何より、萌えのポイントは男と女で確実に異なろう。だからは、元々この二人以外を誘うつもりはなかった。萌えのポイントがずれると、それだけで話の腰を折られる可能性が高い。尚香と二喬は似た傾向だと踏んだ。まったく同じでないのもポイントが高い。好みが違えば話もそれだけ盛り上がる。
「……俺も、いかんのだろうな」
 それまで黙っていた孫堅が、苦笑交じりに口を出す。
 はぁ、申し訳ありませんが、とはあまり申し訳なさそうに答えた。
 尚香が、『父様は後!』と叫んでいたのを気にしたのだ。
「今でなくてはいかんのか、俺も、お前の歌をずっと楽しみにしていたのだが」
 は、う、と唸ると何か考え込む。
「あ……した……明日、必ず」
 うん、と頷き、もう一度同じことを繰り返した。
 明日明日と約束を重ね過ぎている。全部守れるのか、忘れずにいられるか心配になるほどだ。
 あたしの部屋に行こ、と小喬が手を引っ張り、大喬と隣り合わせで退室する。
 出て行ったかと思ったら、突然だけ戻ってきて、甘寧のところに駆けてきた。
「すいません、明日、必ず」
 ごめんなさい、とひそと囁き、そのまま駆け戻っていった。
 呆気に取られていた甘寧が、くっくっと笑いを噛み殺し、孫策は面白くもなさそうにむすっと不貞腐れていた。
 まったく、何ということだ。
 周瑜は頭痛を覚えて、眉間を指で強く解した。
 誰も彼もがあの女の虜か。何か、おかしな術でも使っているのではあるまいな。
 自分だけはそうはなるまい、冷静であろうと周瑜は胸の内で再度誓った。

 水差しを用意してもらい、一口飲むと深呼吸する。灯りは蝋燭と月明かりだけだ。舞台としてはなかなかよろしい、とは微笑む。
 二喬はの前で、待ちかねるように体を前に傾けた。
 は口を湿らすと、二喬に向き直った。
「んじゃ、いきますよ」
 まくりますからねぇ、と言うなり、は声音を作って語り始めた。
「これなるは遥か西の国の物語、見渡す限り砂、砂、砂の国の物語。残虐なる王、夜毎に娘を差し出させ、日が明くると共に娘を殺す。才女有り、王の惨き仕打ちを留めんと、自ら王の元に出向く。そして語る、千夜と一夜の物語。命がけの物語」
 流れるような、講談めいた早口の語りに、二喬は目を大きく見開いた。
「……あるところに、アラジンという若い男がおりました。この男、貧しく、日毎の糧にも困るような生活をしておりました……」
 口調が突然変わる。声音も変わり、語りかけるような口調は、話す速さこそ変わらないがまるで別人のように二喬には感じられた。
 尚香ちゃん、ずるいよ。こんな楽しい話、独り占めしてたなんて!
 小喬はほんの少し愚痴めいた気持ちを覚えたが、すぐに意識をの語りに戻した。下手をすると、の語りから振り落とされてしまう。そんなの絶対嫌だと思った。
 が呉にいてくれればいい。千夜一夜の物語なら、千と一夜ここにいればいい。もっと、ずっとずっといてくれればいい、それで、ずっと語っていてくれたら。
「アラジンは、せめて灯りをとその汚いランプを擦りました……するとどうでしょう、中から煙が沸き立ち、その煙の中からとてつもなく大きな男が現れてアラジンにお辞儀をしました……『ご主人様、御用をお申し付け下さいませ!』……」
 の話は途切れることなく続く。二人はただ目を輝かせて聞き入った。

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