寝不足でぼーっとした頭を持て余しながら、は部屋の隅で体育座りを敢行中だった。
朝一で馬良に罷免を命じられたのだ。
正しくは尚香付きの文官に転属という名目だったが、一日中尚香にくっついていろと言うわけでもなく、呉の文官避けにそんな役職を頂戴したに過ぎない。
はっきり言って、がいると仕事が進まないのだ。
孫策が乱入してきたり呉の文官の来襲を裁いたり、小喬や大喬、甘寧などの態度から乱入者はこれから増える一方と見切った馬良は、を閑職に回すことで身の安泰を守ったのだ。
無論、馬良自身の保全もさることながら、自身への被害をも慮っての転属だった。尚香付けともなれば、生半な文官はに近寄れない。
だが、は仕事を干されて何もすることがなくなってしまった。
劉備に命じられた『お話の時間』は午後、現代で言うところの三時から二時間と定められた。まだまだ間がある。空いた時間はの好きにしていい、書簡を読むなり散歩するなりすればいいと言われても、その気になれなかった。
尚香のお相手が嫌だというのではない。馬良の側で仕事を覚えていくことに生き甲斐めいた物を見出していたは、それを取り上げられたショックでめげてしまっていたのだ。
どかどかと、勝手に人の室に入り込んでくる足音が聞こえた。
また孫策かと、は苛つきを隠せずに立ち上がった。八つ当たり所がわざわざやって来てくれたのだ。鴨葱だ。美味しく戴いても良かろう。
「ちょっ……」
「お、いたな」
孫策ではなかった。甘寧だった。
「暇そうだな……よっしゃ、ちょうどいいな」
快活に笑うと、の手を引き廊下へ駆け出す。
いきなりのことでが面食らっていると、『明日っつったろ?』と甘寧は振り返りざま笑った。
明日というのは今日の宴のつもりだった。甘寧は勝手にいいように捉えて、を迎えに来たのだ。
違う、と言いたいのだが、口を開こうとすると甘寧が腕をぐいっと引く。舌を噛みそうになって、何も言えなくなった。
甘寧は、用意させていたらしい栗毛の美しい鬣の馬に跨り、有無を言わさずを引っ張り上げた。
「掴まってろよ!」
言うなり、甘寧は荒っぽく馬を走らせる。
掴まっていろと言われても、は馬に荷物のように載せられているだけで、掴まる所は何処にもない。
落ちそうになるのを必死にこらえるしかなかった。
攫われるようにして、は初めて呉の城下町へ降りることとなった。
「お頭!」
甘寧が馬の足を緩めたのは、高台にある呉の居城からずいぶんと下に降りた辺りだった。
達、蜀の人間が船をつけた場所とはまた違う、呉の庶民が生活しているであろう川の側には、細々とした煙が幾つも幾つも立ち込めて、賑やかな人の声と雑踏の足音が青空に響き渡っていた。
甘寧の周りに無骨な男達が駆け寄ってくる。お頭、と呼んでいることからして、これがかの有名な錦帆賊に違いない。は、人相の悪い男達にじろじろと不躾に眺め回され、身を固くした。
突然、尻の辺りをさわっと撫でられ、ぎゃあっと悲鳴を上げる。
「何してんだ、馬鹿野郎」
甘寧が尻を触ったと思しき男の頭を殴りつける。
「痛っ、だってお頭、この女、俺達への土産じゃねぇんですかい」
「誰がンなこと言った。コレは蜀の文官でってんだ。わざわざお前ぇらに会わせてやろうって連れてきたんじゃねぇか。汚ぇ手で触んじゃねぇ、ブチ殺すぞ」
甘寧が睨みを効かすと、男達は一も二もなくへい、と声を揃えた。
大したお頭ぶりだ。
が呆然と男達を見回していると、甘寧が人懐こそうににいっと笑った。
あ、自慢したいんだな。
何となく察した。
甘寧は馬からひらりと飛び降りると、を抱えて角の家に入る。中には大きな卓が所狭しと並べられており、粗末な三つ足の椅子が合わせてごろごろと置かれていた。
酒臭い匂いが充満しているから、酒場なのだろう。
「親父、酒だ。俺の分と、こいつの分もな」
呼ばれた店主と思しき男は、不思議そうにを見ていたが、甘寧に催促されて慌てて酒を用意し始めた。
椀のような木の器に、なみなみと白濁した酒が注がれる。
甘寧は無言で器を受け取ると、一息に飲み干した。
「呑めよ」
が戸惑っていると、甘寧が勧めてくる。
「……いや、呑むのはいいんですけど、私、後で尚香様のとこに行かなきゃいかんのですが」
それまでには帰らないとまずい。
「一日くれぇいいじゃねぇか」
「いや、それが大喬殿と小喬殿もいらっしゃるんで、外すわけには……」
甘寧が面白くなさそうに口を歪める。重ねて言ってこないのは、さすがにまずいと思ったからだろうか。
はぁ、と大きく息を吐き出し、椅子をぐらぐらと揺らしている。
「何だ、つまんねぇ。俺ぁ、ここならお前ぇとゆっくり呑めると思ってたのによ」
が悪いわけではないのだが、あまりに落胆しているので思わずすいませんと謝ってしまう。
「……城の宴だとよ、出ねぇわけにもいかねぇけど、何か堅っ苦しくてな」
落ち着いて呑んでらんねぇんだよなぁ、と甘寧は嘆く。
にしてみれば、あれでもずいぶん砕けていると思うのだが、甘寧が言うところの『柔ら気持ちいい酒の席』とやらがどんなものだか想像もつかない。
たら、と汗が流れた。
ストリップショーでもやれと言われたら如何しようかと焦り出す。
「なぁ」
突然甘寧に話を振られ、はぎくりと顔を強張らせた。
「なんか歌ってくれや」
「な、なんかというとなんでしょう」
何でも、と甘寧は頬杖ついてを見つめる。
甘寧の、猫のような目がきらきらと光って見える。少し吊り目気味で、ややもするとキツイ印象を持ちがちだが、そうしていると可愛らしいとさえ思えるのが不思議だった。
は、酒を一口呑んだ。甘いような、苦いような味だった。どぶろくみたいなものだろうか。アルコール度は高そうだが、飲み口は悪くない。素朴な味だった。
静かな、語りかけるような歌が自然に紡がれた。
甘寧は、心地よさげに目を閉じた。
陽だまりで眠る猫のようだ、と思った。
歌い終わると、甘寧はぱっちりと目を開けた。
「眠くなるな」
けらけらと笑う。失礼な言い草だったが、何故か腹は立たなかった。
酒を煽ると、突然背後からおおおーとどよめきが溢れた。驚いて振り返ると、錦帆賊の連中が何時の間にかの後ろに詰め掛けていた。
「いい呑みっぷりだろ?」
甘寧が愉快そうに笑う。錦帆賊は一様にへい、と頷き、我先にへのお代わりを親父に命じた。
「そそそ、そんなには呑めませんて!」
慌てるに、甘寧は腹を抱えて本格的に笑い出した。甘寧が笑うと、錦帆賊の連中も嬉しそうに笑う。
ああ、アイドルとその親衛隊なんだな。
は内心そんなことを考えていた。甘寧の一挙一投足に注目し、無垢な憧れの眼差しを向けている。
確かに、甘寧は水賊上がりにしては肌も白く、その身に刻まれた龍の刺青といいカリスマ的な雰囲気を持ち合わせている。多くの錦帆賊の中にあっても、恐らくまず目を引くのは甘寧だろう。
外見だけではない、何か人を惹きつけて止まない魅力がある。
同じ水賊上がりでも、周泰とはやはり何かが違う。呉に身を投じても尚『お頭』と呼ばれる所以だろうか。
「なぁ」
が錦帆賊から酒臭い歓待を受けていると、甘寧が再び声を掛けてくる。
「歌」
子供が母親にせびるように、甘寧はに歌を強請る。
「何か、楽しい奴。こないだのみたいな」
じゃあ、とが器を置くと、錦帆賊も大人しくの周りから一歩退く。申し合わせたようなタイミングの良さに、は可笑しくなってくすくすと笑った。
大の大人が、頬に朱を差して照れている。
が歌いだすと、自然に手拍子が沸き起こった。ずっとアカペラで歌っていただけに、その手拍子はには有難かった。リズムが掴みやすい。歌いやすくて、楽しくなってきた。
座っていたが、手が勝手に振りをつける。
手拍子に、次第に足を踏み鳴らす音が混じり、空気が熱を帯びる。
の歌が終わると、どぉっとどよめきが湧き上がる。の体が持ち上げられ、男達の肩に抱え上げられる。を他の連中に見せびらかすようにくるくると回る男達に、は恥ずかしさを覚えながらも声を上げて笑った。
甘寧は、そんなを見て笑った。
ガキの頃に周りにいた女達をに重ねていた。けれど、はきっともっと何かが違う。あっという間に錦帆賊に慣れ親しんでいる。こんなことは、普通の女にはできない。普通の女なら、体を抱え上げられたら悲鳴を上げるだろう。卒倒してもおかしくない。けれど、はただ楽しげに笑っている。催促されなくても歌を歌いだし、錦帆賊の男達は喜び勇んでの周りを取り囲む。
は特別だ。
特別な女だ。
祭り上げられていたと、甘寧の目があった。にこり、と笑うに、甘寧は腕を伸ばした。
「何をしてるんだい?」
突然、水をぶちまけられたように辺りの熱が冷める。
入口に、細身の長身の影が伸びた。
凌統だった。
何の迷いもなくすたすたと踏み込んでくると、錦帆賊の肩に持ち上げられていたを引き摺り下ろした。乱暴な所作に、錦帆賊の男達が歯を剥く。
が、凌統の鋭い視線を浴びると、怯んで目を逸らした。
一通り威嚇を済ますと、凌統はを睨めつけた。
「あんた、何してんだよ」
何、と言われても返す言葉もない。俯きかける顎を取られて、無理やり上を向かされた。
「あんた、蜀の人間だろ? それがのこのここんな所まで降りてきてさぁ……ここで殺されても、文句言えねーっつの」
呉の城下を探っていたと言われても否定はできない。しかも、こんなに堂々とでは隠しようがない。
「よせ、凌統。そいつは、俺が」
「分かってるっつの、あんた見かけて追っかけてきたんだからさ」
甘寧が間に入ろうとするのを、凌統はイライラと吐き捨てて止めた。
ここしばらく、凌統は賊退治に出かけていた。密告から呆気なく隠れ家が割れ、思いがけず早く戻ることが出来たのだが、その帰路の途中、甘寧の馬に担ぎ上げられたを見てしまった。慌てて部下に先に戻るように命じ、駆け去った甘寧の後を追って来た。城下町まで来て、まさかそんなと思いながら歩いていると、何処からか賑やかな声がする。近付けば、手拍子や足音に混じっての歌声が聞こえ、ぎょっとして此処まで走りこんできたのだった。
「この女は連れて帰るぜ、甘寧サンよ」
言うなりを肩に担ぎ上げる。背は高いが細身の体の、何処にこんな力があるのだろうか。
暴れるのも躊躇われて、は甘寧に視線を送った。甘寧が近付こうとするのを首を振って押し留める。
凌統は振り返りもせず、来た時と同じようにすたすたと酒場を後にした。甘寧は、きり、と歯噛みして、その後ろ姿を見送った。
馬に、今度はちゃんと座って乗り込み、揺られている。
凌統は何も言わないし、も何も言えずにいた。
城に戻り、門兵が不思議そうにを見た。凌統が無言のまま首を横に振ると、門兵は慌ててこくこくと頷いた。門兵はともかく、城下の方の口止めは甘寧に任せるしかない。錦帆賊なんて大した名前を名乗る連中を従えているのだから、何とかしろよと凌統は胸の内で悪態をついた。
「凌統」
これから何処かへ出掛けると思しき周瑜が、愛馬に跨り通りがかった。馬を寄せてくる。
凌統が小さく舌打ちしたのを、だけが聞いた。
「如何した」
疑わしげな眼差しをに向ける。凌統は、肩を竦めて笑みを作った。
「いや何、このヒトが暇そうにしてたから、ちょっとそこらへ遠乗りにお誘いしただけですよ」
が思わず凌統を振り仰ぐと、凌統は作ったような笑顔を……実際作っていたわけだが、浮かべてを見返した。
周瑜は、案の定顰め面をした。
「……殿がお気に召しているとは言え、他国の者を無闇に城外に連れ出すのは感心せぬな」
凌統は肩を竦めて、へらへらと笑うだけだった。周瑜は渋面のまま、馬首を返して去った。
周瑜の姿が見えなくなり、が呆然と凌統を見上げると、作っていた顔を崩してきつく睨みつけた。
「言えないだろ、城下町に下りていたので拾ってきましたなんてさ!」
怒りを押し殺した声に項垂れ、しょんぼりとするを苛立たしげに見つめながら、凌統は何故自分がこんな真似をしなくてはならないのか、喚き散らしたいのを堪えた。