今宵も宴が賑々しく開かれている。

大姐」
殿」
 名を呼ばれるたびにあわあわと泡を吹きながら走るを、凌統は呆気に取られて見ていた。
 自分がいなかった数日の間に、はすっかり呉に受け入れられ、慕われている。特に、かつては目の敵にしていたはずの小喬が、の腕にぶら下がるようにして身を寄せているのを見て、凌統は何故か裏切られたような気持ちにさえなった。
 周瑜はともかく、と言うより、周瑜以外は皆、にころりといってしまったようだ。
 それは、確かに大殿たる孫堅の命でを呉に迎え入れろと命が下ってはいたが、この手の平を返したような態度は何なのか。凌統は、あまりの馬鹿馬鹿しさにやってられるかと酒を煽った。
 ぱたぱた音を立てて小走りに走るが通りかかる。
「……ちょっと」
 はいぃ、と声を引っくり返して振り返るは、凌統の不機嫌な顔を見て、あ、と小さく声を立てた。それがまた凌統の癇に障る。
「うるさいよ、埃が舞って酒にも入るだろ? もう少し静かに歩けないもんかね」
 は素直に頭を下げるが、その顔に何か言いたげなのに力を得て、凌統の舌は滑らかに回る。
「だいたい、あんた蜀の文官だろうに。ウチの芸妓ってわけじゃないんだから、ちょっとは落ち着いて席に着いてたら」
 やはり素直に詫びるに、小喬が飛びついてくる。
「何よ、大姐を苛めないでよ!」
 凌統は小喬を白い目で見遣る。あまりに馬鹿にしきった表情に、小喬は食って掛かることも出来ず、逆に口篭った。
「何ですか、その『大姐』って。俺の記憶違いでなければ、小喬殿は相当その文官殿を嫌っていたはずですがねぇ」
 凌統の言葉に、小喬は慌てふためいて『しーっ、しーっ!』と打ち消そうとするのだが、実際は本人も知っている周知の事実だ。
 気まずさと恥ずかしさから涙目になる小喬に、は腰を屈めて微笑んだ。
「……仲直り、したんですよね」
 ね、と促されて、小喬の顔が明るく輝く。
 うん、うんと何度も大きく頷くと、幸せそうにの腕にぶら下がった。
 やってられないっつの。
 凌統は胸の内で密かに吐き捨て、二人から目を逸らした。

 呉で最初に出会ったのは自分だっただろうと思っている。
 あの孫策が惚気、褒めちぎる女がどんな女なのか見てやろう、最初はそれだけだった。あばたもえくぼと言うから期待は端からしていなかったし、孫策の話では外面と言うよりは中身に惚れた口だと覚ったからだ。
 第一印象は思った以上に地味で、でもそんなに悪くはない、という程度だった。
 話しかけて、ついでにからかって、表情がくるくる変わるのを楽しんだ。ちょっといいな、と思ったのは確かだ。取り澄ました女は、それはそれでいいかもしれないが、凌統の好みで言えば気さくで気の置けない女の方が楽でいい。だが、孫策がいずれは第二夫人にと願っているのは分かっていたから、自分の女にするわけじゃない、なら付き合いやすいヒトならそれでいいと思ったし、なら良かろう、と踏んでもいた。
 歌を聴いた。
 切ない恋の歌だった。
 自身の心情を歌ってのものではない、の国ではありふれた歌だと聞いた。
 こんな歌が、ありふれているというのか。
 凌統は、に目を奪われた。孫策の言葉が蘇って、柄にもなく焦るのを必死で押さえつけた。
 翌日、蜀の面々が逗留する屋敷に足を向けたのは、何となくそうしたかったのだと言う外はない。行って会えるという保障もなかった。けれど、足が勝手に向かっていたのだ。
 会ってどうしよう、何を言おうというのもほとんど考えていなかった。会えると思ってもいなかったから、まぁいいやと気楽に出向き、ばったりと出くわしてしまった。
 何で、と一瞬戦慄めいたものを感じていた。
 何で会えるかなって考えただけで、会えちまうんだよ。
 おかしいじゃないかと、凌統は訳も分からずうろたえた。その場を取り繕って話をして、動悸がようやく静まった頃、今度はが訳の分からないことを言い出した。
 『じゃあ、私が裸で寝てたのは?』
 知らない、知ったことじゃない、なのに一瞬、の裸を脳裏に浮かべてしまった。
 艶やかな皮膚が赤く染まって、身を捻る緩やかな腰のラインが悩ましげだった。
 バッカじゃないの、と自分を罵倒して、と適当に話をして。
 そして趙雲の存在を知ったのだ。
 若殿を誑かしておきながら、情人と連れ立ってその国に乗り込める最低な女。
 そんな女なら、どうでもいい。あの歌はやっぱり歌がいいだけで、歌い手に何かを感じたわけじゃない。俺はこの女とは関わらない、もうこの女には興味はない。せいぜい、孫策様には頑張っていただいて、勝手にしてもらったらいい。
 そこに甘寧が乱入してきた。
 馬鹿な奴だ、何にも知らないでへらへらしやがって。その女は大した玉なんだよ、せいぜいあんたも遊ばれるといい。
 でも、あんな女でも、テメェにやるにはちょっと惜しいかもな。
 甘寧への対抗心から、再びに興味を引かれ、孫策の失踪に絡めて頑ななの姿を見せつけられた。
 凌統にはが分からなかった。
 一度は係わり合いになるのすら面倒と切り捨てた相手のはずが、自分が如何してそう思えたのか分からないくらい、直向に己の信じる義に殉じようとする姿は一途で惹きつけられた。
 あんた、そうじゃなかったはずだ。惚れた男の弱みに付け込んでいいようにあしらうような女だって思っていたのに、何でこんなに違うんだよ。
 目が離せなくなる。
 危機感に焦燥を覚える凌統に、君主の命はあまりにも衝撃だった。
 孫策が愛する女なら、誰も手を出せない、それが暗黙の了解だった。それを、破れと言う。誰でもいい、なら俺でもいいってことか、と、当たり前になってしまった事実に凌統は愕然とした。
 孫策の、若殿の相手だからと線を引いたのに、あっさりと線が消されてしまった。目の前に餌をぶら下げられるような真似をされて、凌統は二律背反のジレンマに陥った。
 賊討伐の命を受け、凌統はむしろ有難く、逃げるように任務に就いたのだ。
 気持ちを落ち着かせようと思っていたのに、思うとおりには事は進まず、鮮やかと言っていいほどの早さで城に戻ることになった。離れていた期間の短さは、逆に凌統を焦らせ困惑に駆り立てた。
 帰路の途中、が甘寧に連れ去られるのを見た。無理やり拉致されたのだと青褪めて追えば、本人は元賊のむさ苦しい男達に担がれて、呑気に歌など歌っている。
 どっちなんだ、と凌統は苛ついた。
 やっぱり男を弄んでいいように操る悪女なのか、頑なに己を貫き通す信念の聖女なのか。
 翻弄されるのはごめんだと思った。
 目にも入れたくないと願っても、は自分の周りをちょろちょろと走り回る。如何していいか分からない。優しく微笑む顔が、却って憎たらしく思えた。

 月を見上げて考え事に耽っていると、みしりと床板が鳴る。目だけ向けると、そこにが立っていた。困惑した顔を見て、何故か憤る。
 黙礼して通り過ぎようとしたのに、思わず声を掛けていた。
「あんた」
 何を言おうというのか、我が口ながら勝手にを引き留めたのを恨みたくなった。も聞き流してくれればいい物を、律儀に立ち止まって凌統に向き直る。
「……あんたさ、調子に乗るなよ」
 何を言って、調子に乗っているのは己の口だ、止めなければ。
「あんた程度のご面相でどうやって呉のお偉方に取り入ったか知んないけど、何か企んでるなら今の内に素直に白状しなよ」
 の顔色が変わったのを見て、凌統は胸が軋む音を聞いた。けれど、口は一向に止まってはくれなかった。
「よっぽど床上手なのか知らないけどさ、呉は、あんた達のいいようにはならないっつの。その顔、鏡に映してよっく考えるんだね、自分の身の程って奴をさ」
 の顔から、さっと表情が抜け落ちる。何か言おうとして開いた唇が、結局何もいえないままに閉じた。薄い赤の、乾いた唇に目が釘付けになる。
 退去の礼を告げる拱手の手が震えているのを見て、凌統ははっと我に返った。
 違う、と言いかけて、何が違うと反芻する。自分が間違ったことを言ったか。世間で如何見えるのか、極当たり前の話をしてやっただけ、今更否定も何もなかろうに。
 でも、違う、俺はこんなことが言いたいんじゃなくて、ただ。
 甘寧が、に指を差し伸べるのを見た。あんな奴に、笑いかけるがいた。
 凌統は、唇をきゅっと噛み締め、拳を握りこんだ。
 つまらない見得が邪魔をしている。
 その自覚があるだけ救い難いと情けなくなった。

 トイレに立ったつもりだったが、そんな気もなくなってしまった。
 広間にも戻るに戻れず、はただそこら辺を意識せずに歩いていた。
 何処か、一人になれる場所を、とただひたすらに念じて歩く。
 この辺だろうか、この辺だったら誰にも気が付かれないだろうか。今夜はやけに月が明るいから、もっと奥に行かなくちゃいけないかもしれない。
殿」
 突然声を掛けられ、は肩を竦ませた。
 太史慈だった。
 強張ったの顔を見て、首を傾げる。
「こんな所で、何を」
 太史慈は、てっきりが迷い込んだのだと思っていた。此処は宴の行われる広間と太史慈ら客将に割り当てられた屋敷を結ぶ最短の道ではあるが、逆に言えば他に用があって訪れるような道ではなかったのだ。
 の手を取ろうとすると、の肩がびくりと撥ねる。
 困惑する太史慈に、は口の中で『いいです、いいです』などと呟きながら、とにかくこの場を立ち去ろうとうろたえていた。
「何か、あったのだろうか」
「な、何も、ないです」
 到底何もないようには思えない。太史慈は強引にの手を取り、その目を覗き込んだ。
 濡れている。
 涙こそ流してはいないが、の目に傷ついた色を見て、太史慈は眉を顰めた。
「何か……心無い者に讒言でも吹き込まれ申したか」
 が声もなく項垂れる。当たったらしい。
「気になさらぬが良かろう。貴女は、孫策殿の想い人だ。やっかまれたのだろう」
 が力なく首を振る。
「……そうじゃないんです、あの……その人が言っていることは、正しい……んです、よね……ただ、やっぱ……あの、正しかったら、何言ってもいいかって、そういう話で……」
 何とか笑おうとしているのが分かったが、上手く出来ずに失敗しているのも確かだった。
 の痛々しい表情に、太史慈の胸も痛んだ。
 尚も逃れようとするを捕らえ、腕の中へ巻き締める。の肩が小さく震えているのが、そうしていると良く分かった。
「泣かれるが良かろう」
 ぴく、とやや大きくの肩が震えた。
 から目を背けた太史慈には、がどんな表情を浮かべているかは分からない。抱き締めた腕から、緊張し、直立不動の体勢で息を殺しながら、じっと太史慈の抱擁を受けているのだけが分かる。
「俺では不足かもしれんが、胸を貸す程度ならば何ということもない。泣き場所を探すくらいなら、此処で泣かれるといい」
 は無言のまま項垂れ、額が太史慈の胸に当たり、こつんと小さな音を立てた。
 しばらく無言だったが、微かに『すいません』と詫びる声が聞こえ、次いで大きく肩が震えた。
 しゃくりあげる途切れ途切れの泣き声に、太史慈は胸の奥底から追い立てられるような切なさを感じる。初めて知る胸の痛みにえも言われぬ罪悪感と甘美さを同時に知り、太史慈は目を伏せ、唇を噛み締めた。
 腕の中の熱が、更に奥深くまで感じ取れるような気がした。
 力を篭めてこのか細い声を潰してしまいたいという奇妙な衝動に駆られながら、太史慈はただを緩く腕に抱いていた。

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