がなかなか帰らないのを、孫権は密かに気にしていた。
 また池にでも落ちているのではないかと思うと落ち着かない。
「……孫権様……」
 周泰が孫権の耳元に唇を寄せた。
「……見て……参りましょうか……」
 の行方を案じているのを見抜かれた。孫権は動揺し、頬に僅かに朱が走るのを隠しきれなかった。
「いや、……いや、いい」
 一瞬迷ったが、案外すぐ戻ってくるかもしれない。今日はそれほど呑んでもいないようだったし、あまり酔ったようにも見えなかった。
 気を落ち着けようと杯を煽った瞬間だった。
、おっせぇなぁ!」
 口に流れ込んだ酒があらぬ所に入り込み、孫権は激しく咽た。
「……お? どーした権」
 何も知らない孫策は、周瑜越しに孫権を伺う。
 周瑜は苦い顔で孫策を嗜めた。
「君が突然大きな声を出すからだろう。騒がず、酒でも呑んでいたらどうだ」
「つったってよ……昼は仕事で、夜のこの時間っきゃに会えねえだろ? なるったけ側に置いておきてぇじゃねぇか」
 そうだろ、と念押しされても、周瑜は同意する気にもならない。
「そも、仕事と言っても君は……」
 そこではたと気がついた。今日の孫策は珍しく執務に従事していたのだ。面倒だの退屈だの、口を動かすなら手を動かせと窘めざるを得ないくらいうるさかった。
 如何いうことだと思っていたのだが、さてはの言葉を鵜呑みにしたのか。
 周瑜は深々と溜息を吐いた。
「何だよ、周瑜」
 何でもない、と孫策をいなし、周瑜は自分の苦悩を飲み干すように杯を干した。

 は井戸に来ていた。腫れ上がった目を冷やす為だ。肌が弱いのか、泣くとすぐに真っ赤になって腫れる。このままでは広間には戻れない、いっそバックレようかと悩んでいると、太史慈が井戸まで案内してくれたのだ。
 親切にも重い釣瓶を引き上げ、桶に汲んでくれるところまでやってくれた。
「有難うゴザイマス……」
 顔をばちゃばちゃ洗い、手巾で拭く。湿ってしまった手巾をそのまま濡らし、絞って目元に押し当てた。太史慈は黙っての傍らに立っている。
「……太史慈殿は、広間に向かわなくていいんですか」
 手巾の隙間から太史慈を伺うに、太史慈は苦笑して返す。
「貴女が、迷子になると困る」
 ないとは言い切れない。無言で手巾を濡らし、また瞼に押し当てる。
「……伺ってもよろしいか」
 間を持て余したのか、太史慈が口を開いた。
 は瞼に手巾を押し当てたまま、太史慈を振り返った。
「いいですけど、私のお願いも一つ聞いてもらっていいですか」
 己などに何を願うことがあるのだろう。
 太史慈は不可思議に思いつつ応じた。
「私に敬語使うの、やめてもらえませんか。太史慈殿に敬語使ってもらうような人間じゃないですよ、私」
 それを言うなら、とてそうではないだろうか。文官は総じて武人よりも地位が高い。は臥龍の珠と、諸葛亮自身が明言していると聞く。客将風情の己とは、地位に開きがあるはずだ。
 詳しいことを訊くのは憚られ、とりあえずも敬語を使っていることだけ指摘した。
「私はいいんですよ、木っ端役人ですもん」
 吹けば飛ぶよな木っ端役人、と歌うように節付けるに、太史慈は首を傾げた。どうも、本人と周りの評価に差があり過ぎる気がする。
 蜀に着いて任期も浅く、すぐに呉に差し向けられたということだから、その関係もあるのかもしれない。
「俺の方も、伺って……訊いても、いいだろうか」
 は、何故泣いていたのだろうか。
 今や、呉でを悪し様に罵る者はいない。孫策の寵愛を受け、初めの頃は大喬への肩入れから反発する者もいたが、大喬本人がに参ってしまい、加えて君主・孫堅が得たいと望んで止まぬ女だ。陰口ならばともかく、直接の耳に届くように讒言を嘯く輩がいるとは考えられなかった。
「讒言じゃあ、ないですよ。ホントのことだから」
 はは、と空笑いするが痛々しく見え、太史慈は目を細めた。
 は、誰に、とは言おうとしなかった。だから太史慈も問わなかった。無理に問いたくはなかったし、言っていいことではないとが踏んだというなら、それでいいと思った。
 けれど、その理由だけはどうしても聞いておきたかった。太史慈は、己がそれを排除できるならしてやろうと誓っていた。孫策の為に、とお為ごかしていたが、そうしたいという勢いのようなものが
あった。
「つまんないことですよ、ホント、つまんない」
 追求すればするほど、は困ったように眉を寄せる。
 それでも、と何度も訊き続けると、やがて根負けしたのか、は重い口を開いた。
「……まぁ、私の……顔がね、今ひとつだ、と。そういうことをね」
 自覚している、だが何ともしようがないことを、責めるまでもない、指摘さえすればいい、それで人は傷つくものでしょう。
 そう言って、は目を伏せた。
 つまらないと言えば確かにつまらない。
 しかし、がこれほど傷つくのならば、たいしたことなのではないだろうか。
 太史慈自身にも思い当たる節がある。君主に仕えながら敵軍に降り、客将として礼遇されている。これは事実だ。理由あってのことだ、事実は事実として曲げようがない。だが、敢えて言われれば決していい気はしないだろう。
「俺は」
 がふっと目を上げる。微かに赤い目元は、腫れだけはなんとか引いてきている。朱を刷いたような風情に、太史慈は胸を突かれる思いだ。
「貴女が、醜いとは思わない……むしろ、……美しい……と思う……が……」
 たどたどしい言葉が不恰好で情けない。周瑜や陸遜ならば、もっと麗々しい言葉をに送って遣れるだろうに。
 も、驚いたように目を見開いていた。ぽかんと開いた口から、やがて唸り声のような声が漏れた。
「うはぁ」
 が突然腰を折って笑い出した。太史慈は羞恥を覚えて赤面する。何か可笑しいことを言ってしまったかとうろたえるが、思い当たらない。
 ひとしきり笑った後、目に涙を浮かべては太史慈に詫びた。
「いやぁ、もう、すいません。太史慈殿がそういうことを言うと、滅茶苦茶破壊力がありますなぁ!」
 からかわれているのかと思ったが、の目は突然真摯な色に変わった。
 有難うございます、と深く頭を下げる。太史慈はどうしていいか分からず、でくの棒のように立ち尽くした。
「……気にしないように、します。すぐには無理だと思うけど、けど、それがどうしたって言い返せるように、自信持つようにします」
 頬に手を当て、また笑う。まだ悲しげな影はあったが、先程までの傷ついた表情は消えていた。
「こんな顔でも、まぁ、言い寄ってくれる男がいるってのはスバラシイ現実ですよね! せいぜい、マシに見えるように磨いてやるとします」
 太史慈は本気で言ったのだが、はまだ自分を卑下するようなことを言う。微かに胸が痛い。
「それほど気にするのなら、化粧でもしてみれば如何か」
 このままでいいと思っていた。孫策も、の外見で惚れたというわけではあるまい、ならばこのままのがいい。けれどが気にするなら、と敢えて言ってみた。
 が、化粧は好きじゃない、と難色を示したので、太史慈は少しほっとした。
「塗っても、綺麗にならんのですよ。だったらやらない方がマシってもんじゃあないですか」
「……俺は、そうは思わんが……ならば……」
 簪なり、と口にしかけ、止めた。
「? 何です?」
 が首を傾げるのを、太史慈は誤魔化した。
「広間に、そろそろ向かうか」
 はい、と返事したが、太史慈に向け背伸びする。ぎょっとして一歩退くのに、が目を指差し尋ねてくる。
「腫れ、引きました?」
 そういうことかと胸を撫で下ろし、頷く。は何も気にしていないように、手巾を洗って絞り、残った水を流した。
 二人並んで歩きながら、広間に向かう。は瞼に濡らした手巾を押し当てたままだ。危なくないかと、太史慈の方がはらはらとした。
「……お前は、少し、無防備すぎるのではないか」
 堪えかねた太史慈が呟くと、はしばらく無言になり、思い出したようにああ、と呟いた。
「そういや、甘寧殿にもそんなこと言われましたよ」
 目を見て話しろって言われてたんですけど、やっぱ拙いんですかねーと呑気なものだ。
 太史慈は、何とも言えず目を逸らした。

 広間に戻ると、まず孫策が飛び出してきた。
「太史慈、お前、一緒だったのか?」
 無邪気な問い掛けに、太史慈が思わず口篭る。と、が素早く助け舟を出した。
「私が気持ち悪くなって庭で酔い覚まししてたら、太史慈殿が通りかかってくれて。井戸でちょっと
スッキリさせてきた……デスよ」
 孫策が眉を顰める。
「お前、今日はそんなに呑んでないだろ」
 疑わしげに覗きこまれ、が思わず背を逸らす。
「まさか」
「……何」
「俺の子か?」
 弾かれたように手刀を振り下ろしてしまった。痛ぇ、と唸る孫策には顔を赤くして唸り声を上げ、威嚇する。太史慈は何も言えない。呆然と二人の遣り取りを見守るしかなかった。
「いやだってお前、そしたらここんとこ体調悪かったのも全部納得……」
「いくかボケェッ!」
 は遠慮会釈なしに孫策を罵る。前ならただでは済まなかったろうが、慣れてしまったのか、周囲は余興が始まった程度の認識しか示さない。そも、詰られている孫策が嬉しそうで、誰も何も言えなかった。
「まぁいいや。こっち来いよ、俺、ちゃんと仕事したんだぜ?」
 太史慈も来いよ、と呼びかけられるが、太史慈は遠慮した。孫策の手前もあるが、今は二人を前に平静でいられる自信がなかった。
 孫策は首を傾げていたが、が孫策の手を解いて逃げ出そうとしたのでそちらに意識が向く。
「じゃあ、まぁ後でな、太史慈」
 を肩に担ぎ上げ、去っていく孫策を見送りながら、太史慈は席に着いた。
 隣にいた凌統が、珍しくも太史慈に酒を勧めてくる。太史慈自身が客将としての立場を頑なに保持していた為、呉に馴染んでいるとは言い難く、結果他の将とは疎遠になりがちだった。
「……あの女、気分悪くしてたってホントかい?」
 探りを入れるような呟きに、太史慈は怪訝な表情を浮かべ、転瞬凌統を睨めつける。
「貴公か」
 凌統は、気まずく口を曲げそっぽを向く。不貞腐れたような横顔は、何処か罪悪感に苛まれているようでもあり、太史慈は眼に篭めた険を緩めた。
「……何故、あのようなことを」
 凌統は、ちらりと太史慈を見遣り、杯を煽った。中が空だと気付き、苛立ちながら杯を満たす。
「……あんた、さ……参考までに伺うけど、殿の命令、どうするつもりだい」
 殿……孫堅の命。忘れていたわけではなかったが、突然胸に鮮やかに蘇ってきた。
 あの娘を、口説き落とせ。
「冗談じゃないっつの、あんな言い方されて誰が飛びつけるってんだよ、なぁ」
 君主への批判めいた言葉に、太史慈は眉を顰めた。凌統への窘めもあったが、孫堅への反感もまた確かにあった。
 には孫策がいる。孫策が口説き落とせば、何も問題はないではないか。
「……まぁ、さ、若殿は、あんなお人だからね。『大姐』がどうしても嫌だって言ったら、押し切られちゃうだろうけど、それにしたって、ねえ」
 凌統の言葉はそこで途切れた。
「酔っておられるようだ」
「酔いたいんだよ」
 自棄を起こしたように酒を煽る凌統に、常にない荒れようを見て太史慈は眉を顰めた。
 周瑜は、が呉の基盤を裂く為に臥龍が寄越した毒だと嘯いていたが、これでは周瑜の言ったことを否定できない。
 歌が、聞こえてきた。
 男を想う女が、最後の願いを男に強請るという、切ない歌だった。
 凌統は、酔った目をそちらに向けた。
 歌っているのは、だった。
「……何だよ、なぁ……」
 やってられないっつの、と呟きながら、凌統の頭がずるずると落ちていく。相当呑んだのであろう、酒瓶こそ家人の手で片されていたが、凌統の体は、まるで酒漬けになっているのではないかと思えるほど酒臭かった。
 孫呉の激情の血は、を求めて止まないらしい。
 己の立場を振り返り、太史慈は自らを戒めた。
 決して、孫策殿の前にだけは立ちはだかるまい。降将の俺を引き立てて下さった恩だけは、裏切るまいぞ。
 の歌は、朗々と続いている。
 太史慈は、凌統から注がれた酒を煽った。
 凌統の鬱積を映したかのように、苦い酒だった。

←戻る ・ 進む→


Shuffle INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →