執務の最中、周瑜は自ら孫策に回す竹簡を運んでいた。
 今日に限ったことではなく、孫策に回すものだけは周瑜自らが運ぶ。ついでに主の居ない執務室でおたつく文官に指示を出し、出来る限りの仕事を代行してまた己の執務に戻る、というのが周瑜の日常なのだった。
 別にお願いして代行させていただいているのではなく、そうでもしないと孫権への負担が半端なく大きくなり過ぎるのだ。
 昨日は、珍しくも主が居て、不平不満を垂れながらもそれなりに執務をこなしていて驚かされた。明日は雨が降るやも知れぬ、とは周瑜自身の軽口だったが、生憎雨は降らなかった。代わりに、重苦しいどんよりとした雲が低く立ちこめ、生暖かい湿った風がひょうと音を立てて吹き抜ける。いっそ雨ならどれだけいいか。周瑜は、眉間に皺を浮かべ、それを解すように指で押さえた。
 今日はいるだろうか、と考える。
 居て欲しいような、欲しくないような、頭の痛い事態だった。
 孫策の執務室は周瑜の執務室からはそう遠くない。室を守る衛兵に、居るかと目配せをすると、困ったように首を傾げた。
 ならば、居ないのだ。
 周瑜は、溜息を吐いて中に入ると、持ってきた竹簡を文官に渡す。やはり、孫策の姿は見当たらない。
 たった一日で我慢が出来なくなったのかと考えると、孫策らしいと可笑しくなるような、あいつめ、と腹立たしくなるような落ち着かない気分になる。
 以前はこんな風には感じなかった。孫策の行動に、いちいちの影が見え隠れするようになってから、周瑜の困惑は計り知れない。呉の為には早く消えてもらった方がいい女だとは思うが、がいなくなってそれが周瑜の策略によるものだと知れたら、あの単純明快な乳兄弟はどれだけ傷つくか、考えただけでも恐ろしい。ある意味、大喬と肩を並べるほどの寵愛ぶりなのだ。
 纏まらない思考を振り払うように、周瑜は軽く頭を振った。
「孫策は」
 居ないと分かっていながら尋ねる。
 いつもなら、申し訳なさそうに『来ていらっしゃいません』と答える文官が、何故か歯切れ悪く口篭っている。
 如何した、と目で伺うと、おずおずと口を開いた。
「朝方は、まっすぐこちらにいらっしゃったのです……早めに片付ければ、少しくらい室を空けても構わぬだろうと仰っておられて……朝餉もこちらでお取りになって、それはもう熱心に……ですが、孫権様がお出でになり、お人払いを命じられた後すぐ、飛び出してお出でになってしまいました」
 周瑜は何、と唸ると目を細めた。
 室を空けても、の件は恐らく孫堅がを借り受ける話が纏まったせいで、それに対抗して自分の為にも時間を空けさせようという魂胆だろう。朝餉も執務室で取るとはなかなかに熱心なことだ。少し苦々しいが。しかし、孫権が来たというのがどうも解せない。執務に関する話であれば、この文官を同席させた方がぐっと話が早いのだ。しかも、更に聞けば人払いを言い出したのは孫策ではなく孫権の方だという。
 どうなっているのか。
 突然、背後から物凄い勢いで何かが飛び込んできた。
「周瑜っ! こんなとこにいたのかよ、探したじゃねぇかっ!」
 噂をすれば影の例え通り、孫策本人が飛び込んできていた。影などという穏やかな登場ではなかったが。
 探したと言われても、周瑜は基本的に自室に篭って執務に当たっているわけで、周瑜付きの文官に尋ねればこちらに来ていること位すぐに分かりそうなものだ。
 遣り取りが目に浮かぶ。
 駆け込んできた孫策が、『周瑜は!』と怒鳴るのだ。突然のことで慌てた文官が、『今は留守にしておいでです』と答える。そのまま疾風の如く飛び出していく孫策に、呆気に取られた文官が一人室に取り残される。
 まぁ、だいたいそんなところだろう。
 周瑜が溜息を吐いている間に、孫策は文官に退席を命じる。
 文官が出て行くが早いか、孫策は周瑜の肩をがっつりと抱き寄せ、まだ用心が足りぬと言わんばかりの勢いで室の奥の角に引き摺っていった。
「何なんだ、孫策」
 呆れて問うが、孫策は彼の人には珍しく、渋い顔付きで脂汗などかいている。
「……俺も、ちょっと訳がわかんねぇ、だから、上手く話できねえかもだけど、聞けよ?」
 こんな前置きも、孫策にしては珍しい。普段からずばずばと物を言う男なだけに、周瑜までもが訳の分からぬ緊張に見舞われた。
「何があった」
 突然の戦前のように緊迫した空気に、孫策も気を落ち着かせるように大きく息を吸い込み、吐き出した。
「……さっきまで、馬に乗って考えてみたけどさっぱりわからねぇ。お前の知恵を借りたい。いいか、周瑜」
「構うものか、何を遠慮することがあろう。この周公瑾、君の為なら命も賭ける覚悟がある」
 すまねぇ、と小さく頭を下げる孫策に、これはただごとではないと居住まいを正す。
「……で、何があったのだ」
 孫策は、まだ迷うように目を揺らしたが、やがて唾を一つ飲み込み、思い切ったように口を開いた。
「権が、をもらいたいって言ってきた」
 全ての予想を裏切る事態に、だが確かにこれは一大事と……思いながらも否定したい心持で、周瑜は美麗な顔を顰めた。

 朝方からずっと、孫策は苦手な机仕事に従事していた。はっきり言って辛い。だが、父である孫堅が、を昼餉の間だけとは言え確保してしまったと聞いて、孫策は盛大に腹をたてたものだ。
 そして思いついた。昼餉の後の時間を孫策が確保して、を迎えに行ったらどうだろうか。昼餉の時間はそう長くはないし、孫策が迎えに行けば如何な孫堅とて無闇に引き留められまい。同席は何だかんだで却下されるに決まっているし、なかなかいい案のように思えた。
 実行する為には孫堅にもにも胸を張って罷り通れる実績を作る必要があり、それが孫策のやる気に直結していた。
 執務を始めてからしばらくして、突然孫権が室にやって来た。
 いつもならサボれるいい理由が出来たと喜ぶところなのだが、今日の孫策はちょっと困ったように眉を顰めた。
「俺が珍しく仕事してたから、権が来たのか?」
 自分で珍しいと言っていれば世話はないが、孫権はすぐに済ませますと言い、人払いを命じた。
「如何した」
 常になく落ち着きのない孫権に、孫策も墨で汚れた手を動かすのを止めた。椅子に腰掛けたまま、何時までも言い難そうに口篭る孫権の顔を見上げる。
 あまりわがままを言わない、子供らしいお強請りもしなかった弟だ。そのくせ芯は激情家で、かつて孫策を大層驚かせたものだ。
 そういや、あん時とちょっと似てるな。
 孫策は、孫権が初めてお強請りらしいお強請りをした日のことを思い出した。
 あれは、確か……。
 孫策が遠い思い出に馳せている時、孫権は身を正して孫策に向き直った。
「兄上、私はあの女……を、好きになったように思います。兄上の想い人とは重々承知しておりますが……最早黙っておられなくなったのです……! どうか、ご容赦を……!」
 驚いて声もない孫策に、孫権は深々と頭を下げた。
「見ているだけでいい、と思っておりました……ですが、得たいという気持ちも捨て切れなかったのです。どうか、どうか私をお許し下さい!」
 許すも、許さぬも。
 呆然として孫権を見遣る孫策は、いったい何がどうなったのか未だに掴めずにいた。
「……を……」
「はい」
「お前が……?」
「はい」
 孫権は迷うことなくはきはきと答えてくる。孫策は、ぽかんと口を開け、まっすぐに見つめてくる孫権を見返した。
は、未だ兄上のものではない……そうでしょう、兄上」
「……そりゃまあ……そうだな……そう……だけどよ……」
 どうしても歯切れが悪くなる。それも当然で、
「……権、俺はと……」
 一度ならず想いを交わした仲なのだ。最も、が呉に来てから一度だけ交わした逢瀬の契りは、の合意なく無理やり体を合わせて傷つけてしまったのだが。
「構いません」
 孫権は、あっさりと肯定した。
「私が、あの女を得たいと願っている、ただそれだけのことです。あの女にもさぞ迷惑なことでしょう。ですが、親愛なる兄上に黙っていることが出来なくなったのです。虫の好い話とも自覚しておりますが……どうか愚弟の為すこととお許しいただきたいのです」
 得たいと願っている。けれど、その望みが叶うものではないとも分かっている。ただ、そう思っていることを告解させて欲しい。
 孫権は、ただそれだけを孫策に願いに来たのだった。
 生涯で、実兄に対してやっと二度目のわがままがこれだった。
 孫策は孫権の下げた頭を見遣りながら、胸が重く支えるのを感じていた。

「あいつが生まれて初めて強請ったのが、周泰をくれってことだった。二度目が、これだぜ。しかも、くれって言うんじゃないんだぜ? 好きだから、好きだって思ってるってことだけ許してくれって言うんだぜ? 何だよ、なぁ。そんなん……そんなん、ねぇよ、なぁ!」
 孫策はうろたえていた。
 を、大喬と共に必要としているのは他ならぬ孫策なのだ。
 けれど、最愛といっていい程目にかけ可愛がっていた弟が、得たいと願った女がいる。得させてやりたいと思うのが当然だろう。
 実際、孫策の胸の内にそんな思いが湧き上がっているのは事実なのだ。
 得させたい、けれど離したくない。
 相反する気持ちに板挟みになって、孫策は半泣き寸前なのだ。あの孫策が。
 如何したものか。
 周瑜の明晰さをもってしても、かなりの難問と言えた。

 午後、遅く。
 もうすぐ宴も始まろうかという時間に、太史慈が孫策を訪れた。
 不機嫌そうな主の顔に、太史慈は少し戸惑った。が、孫策もすぐに気が付き顔を軽く叩いて活を入れ、普段の明朗な孫策に戻った。
「悪ぃな、ちっと面倒があってよ……で、如何した?」
 面倒ごとなら何か力になれれば、と申し出るのだが、孫策は苦く笑ったのみだった。
 懐から布の包みを取り出し、卓越しに孫策の方に押し遣る。
 中身に心当たりのない孫策は、不思議そうに太史慈を見返すと包みを受け取り、解く。と、中から細身の簪が現れた。銀地に彫金細工が細かく施され、一見地味に見えるが光を当てるときらきらと眩く光った。
「孫策殿から、殿にお渡しいただければ……と」
 途端、孫策の顔が驚愕に歪む。
「……お前もか?」
「は……?」
 孫策の言いたいことが今一つ理解できず、太史慈は主を見つめ返した。喜んでもらえると思っていただけに、太史慈の困惑は深い。
 きゅっと唇を噛み締めたまま、孫策は太史慈の方にずいっと簪を押し返す。
「……お前が渡せ。俺は、渡せねぇ」
 声の色が苦渋に満ちている。
「……お気に召しませんでしたか」
 太史慈は、自分がこの手の物を選ぶことになるとは思っていなかった。休日を利用して平服に身を改め、街に下りてあちこちを彷徨った。店の主人の勧めを聞いたり、色々な品々を見て、これならばに似合いそうだと選んできたのだが、やはり至らなかったかと肩を落とす。
「そうじゃねぇ……お前が、の為に選んだんだろ。だから、お前が渡さなきゃ、意味がねぇ」
 は、と息を飲み改めて主を見つめる。孫策はもう太史慈を見てはいなかった。目を逸らし、何処か中空を見ている。
「……俺に、遠慮するな。いいな。お前が渡せ。……これは、命令だ」
 そう言い残して孫策は室を後にした。取り残された太史慈は、半ば布に包まれたままの簪を、呆然として握り締めた。
「俺は……ただ……」
 ただ、何だと言うのか。
 太史慈は己の仕出かした失態を顧み、主の胸にあるだろう惑乱の原因が自分であることを、深く深く恥じた。

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