湯浴みを済ませ、宴に向かう支度をしている時だった。
 が振り返った先に、孫策が何時の間にか立っていた。また勝手に入ってきて、と文句を言おうとして、孫策の表情に気が付いた。
 まるで苛められた子供が母親の元に泣き帰ってきたような顔をしている。
 何かの間違いかとは目を瞬かせ、何の間違いなんだと自分に突っ込んだ。
「どうしたの……伯符」
 孫策を呼ぶ時、はいつも呼び方に迷う。最初に『白風』と偽名を名乗られ、次いで『孫策様』と様付けで呼ぶようになり、二人の時は字を呼ぶこともあるが、勢い付いて人前でも字を呼んでみたり忘れていたのをおざなりに『様』付けしてみたりと、バリエーションは様々だ。
 それに比例するかのように、孫策との仲もずいぶんと複雑だった。
 互いに他に相手がいる。孫策には妻・大喬が、には趙雲や馬超、姜維といった複数の求婚者(本当にそうなのか自身にもイマイチ自信がないが)がいるのだ。
 一度はが『切り捨てなければ』と躍起になったこともあったが、孫策は諦めるどころか大暴走をやってのけ、の怒りを買った挙句怒ったに惚れ直してしまい、今に至る。
 猛烈にぶつかってから仲直りをしたもので、は孫策に甘くなってしまった。叩きつけられる物を全て叩きつけた感があって、それでもが好きでいられる孫策という存在が、希少に思えたのかもしれない。それなり長い人生を送ってきたにとっても、あそこまで激昂したことはなかったのだ。
 もう一度呼びかけると、孫策は肩を落としたままてろてろと奥に進んできた。
 の前に立つ。間近で見ると、本当に情けなさそうな顔をしている。
 孫策がこんな顔をするのは珍しい。自身にはまったく心当たりがないから、何かしでかしたとも考えにくい。急に執務にやる気になっていたから、慣れぬ気合を入れて失敗してしまったのだろうか。あまり気にするような性質にも思えなかったが、とてそれほど孫策を知り尽くしているわけではない。執務や育ち、それこそ『呉の孫策』としての顔はまったく知らないといって良いだろう。
 もっとも、人の心には常に誰にも見せない部分があって、それは誰にも踏み込むことができないと思っている、良いように言えばプライバシーを尊重する主義のは、それにショックを覚えることもなかったが。
 人に興味を持つことがあまりない。持たないようにしないと、潰されそうなことが何度かあった。
 の無関心は、生きる為の知恵でもあったかもしれない。
 ただ、今はそうも言っていられない。の周りの人間は、が呆れるほどにに興味を持ち、の中を知り尽くさんという勢いで囲い込んでくる。
 自身も、変わらねばならない時期に来ていたのかもしれない。
 この年で厄介だよなぁ、と思いつつ、は孫策が口を開くのを待っていた。
 孫策は、ひょいとを抱え上げ、寝台へと運ぶ。
 え、と声が強張るのだが、孫策は構った様子もなくすたすたと足を進め、寝台にを寝かせた。すぐに上から覆いかぶさってくる。逃げる余裕もない。
 不埒なことを仕掛けてくる様子もなく、ただの体を抱き締めている。筋に覆われているとは言え、男の固い腕が背中に回され、その上で体重を掛けてくるから胸部が圧迫されて苦しい。
 む、と眉を寄せ思案した。
「……伯符、何、どうしたの」
 苦しい呼吸を抑えて問いかけると、顔の真横に来ていた孫策の目が、不安気にを見つめた。

「ん?」
「……
 何か言い難そうに、の名前を呼んでは口篭る。は大人しく孫策の言葉を待った。
「……権と、寝てやってくれねぇ?」
 ぶちん、と血管が切れるような音が脳内に響き、は孫策の柔らかい脇の皮膚を薄く摘み捻り上げた。
 小さく悲鳴を上げて飛び上がる孫策に、じと目で睨むの冷たい視線が刺さる。
「何を言い出すかと思ったら……帰って、顔洗ってそのまま寝てしまえ」
 取り付く島もないの言いように、孫策は胡坐を組んで肩を竦めた。
 あまりにしょんぼりしているので、孫策が冗談で言い出したのではないということは分かった。しかし、はいそうですかと受けられるようなことでもない。
 孫権と何かあったのだろうが、何があったのかは思いつかなかった。
「……太史慈は」
 考えに耽っていた間に、孫策がぽつりと口を開く。
 今度は太史慈か、と何処に話の脈絡があるのか掴みかねながら、は孫策を見つめた。
「太史慈、いい奴だ……もし、お前がそうしたいって言うなら、俺……」
 そこで口を噤む。さっぱり要領を得ない。
「伯符」
 正座に座り直したは、膝を崩して腿を叩く。孫策は、きょとんとしながらもの示唆するようにの膝に頭を乗せた。孫策の髪や頬を、の指が優しく撫でていく。
「子供じゃねぇぞ」
 孫策が、少し膨れて呟く。は苦笑し、大人だって膝枕くらいするだろうと孫策をいなした。
 そっか、と呟き、孫策は目を閉じてのしたいようにさせた。強張っていた表情が、少し緩んでくる。
 何が如何したか以前に、孫策が如何したいと思っているのかさっぱり掴めずにいる。だが、孫策のあんな強張った顔は見ていたくなかった。元気だけが取り柄と言っては可哀想かもしれないが、明るく真っ直ぐな気質こそが孫策の利点だと思っている。それを忘れて欲しくなかった。
 敢えて追求せずに、黙って孫策を膝に乗せていた。
 その内に、心地よくなってしまったのか孫策から寝息が聞こえてきた。
 宴は如何するんだ、とは呆れていたが、よく眠っている孫策を見ていると起こす気にもならない。
 今日は、昼餉を孫堅と差し向かいで緊張しながら取り、いつもの昼過ぎから尚香や二喬相手に熱弁を振るってきた。疲れていたから、少し遅めに行ったら駄目かと甘いことを考え出す。
 そういえば、とぼんやり孫堅との会食を思い起こす。
 あの人も仕事してんだなぁ。
 中々不遜なことを考える。あの人とは、孫堅のことだ。

 約定した時間になると、孫堅付きの家人がわざわざ迎えに来た。君主直々に、しかも一人で対応するという非常事態に、の緊張はかなりピークまで達していた。現代で言うところの大統領や総理と会うような感覚があり、宴では何度か隣に座らされていたというものの、あの時は酒の勢いもあったからここまで緊張しなかった。
 家人の案内で奥まった一角に案内されると、中で孫堅が卓に向かって筆を走らせているところ
だった。
 卓の脇にはうず高く竹簡などの書簡が積まれており、はここが孫堅の執務室なのだと知った。
 の存在にようやく気が付いたのか、孫堅が筆を止めて顔を上げる。
「すまんな。限のいいところまで済ませてしまうから、少し待っていてくれ」
 別に用があるのではないから、別に構ったことではない。どうぞごゆっくり、と返事をすると、孫堅はすまんな、と言いそのまま書簡に没頭していった。
 はすることもなく、何とはなしに室を見回し、と言って変わったところもないので自然に孫堅に目がいった。改めて見ると、ずいぶん彫りが深い顔立ちだ。西洋人の血が流れているのだったか、確か混血の血筋だと思ったが如何だったろう。
 宴での柔和な顔付きは影を潜めている。真摯さに、は押し黙った。
 孫堅ほどの立場なら、周りを護衛に囲ませているなりしているのかと思ったが、文官さえ一人もいない。そう言えば室の前にいるはずの衛兵も見かけなかった。無用心ではないだろうか。
 そこまで考えて、は蜀と呉の差に気が付いた。蜀は劉備が国を治めてからまだ日が浅い。乗っ取ったと言われても否定できない、武力で蜀の王となった。対して、呉はここ数十年、着実に、ゆっくりと勢力を併呑していったはずだ。確かに、恨みに思う者も皆無とは言えない。の知る限り、孫堅は暗殺され、孫策も病死とはなっているが毒を盛られたという説も読んだことがある。けれど、その一方で孫家の存在を諸手を上げて歓待する者が多いのもまた確かだ。
 兵を身近に置かないのは、その自信の現れなのかもしれない。
 結局、かなりの時間を待たされた。
 は暇を持て余しているから気にしたことではないが、孫堅の仕事は文書の整理だけではないだろう。使者との会見や下から持ち込まれる訴訟や賊などの敵対勢力の出現報告、それらを平らかにする為の指示などは、孫堅も程度はどうあれ関わっているのではないだろうか。ゆっくり昼食を取る時間があるのかと心配になる。
「待たせたな」
 孫堅は筆を置くと、を連れて隣室に入る。
 息を飲んだ。
 執務室の地味な作りとは異なり、欄干や柱にまで細かく彫刻が為され、よく磨きこまれている。室の中には大きな枝が生けられて、まるでそこに木が生えているように見えた。くちなしだろうか、とは枝に咲く白い花弁を見た。香を焚く必要もないほど甘い香りが漂っている。後ろに置かれた金の屏風と相まって、一枚の絵のようにも見えた。何気なく置かれた壺や調度の数々も、それが如何に苦心して細工され、どれだけ高価なものなのか自己主張しているようだった。
 孫堅が座っても、は呆然と室を見回している。
「ひとまず、掛けてくれ」
 促されて、慌てて椅子に座る。何処からともなく次々と家人が現れ、恭しく捧げた皿を置いては
去っていく。大き目の卓が、あっという間に様々な趣向を凝らした料理で埋まった。
 いつもこんなに食ってんのか、とは冷や汗を流した。武人としても名を馳せる孫堅だから、これくらいは食べるのかもしれないが、が同量食べきれるとは思えなかった。
「気に入らないか」
 孫堅が不審気に声を掛けてくるのに慌てて首を振った。気に入らないわけではない。食べきれるか不安になっただけだ。は、物を残すのが嫌いな性質だ。食べられる物を食べられるだけ、という気質で育ってきている。食べ物を残すのは、如何にも躊躇われた。
 恐る恐る申告すると、孫堅は柔らかく笑った。
「俺とて、普段からこんなに食べているわけではない。ただ、お前が何を好むのか分からなかったのでな。料理人に頼むと言付けたら、如何も張り切って作ってしまったようだ」
 君主直々に頼まれたら、そら張り切りもしますわな。
 冷めるから、と促されて、とりあえず目の前の揚げた魚のあんかけのような物を皿に取り分けた。
 美味しいのだろうが、緊張して味が良く分からない。飲み込むのも一苦労だ。
 孫堅が、じっとを見つめている。
 視線に晒されることがまた新たな緊張を促し、は終に箸を置いた。
「口に合わなかったか?」
 慌てて首を振る。上手く声が出てくれない。
「……き、緊張して……」
 がやっとそれだけ口にすると、孫堅は頓狂な顔をし、ついで顔を伏せた。肩が震えている。笑っているのだろう。
 何で笑われるのか、理由が分からない。は不貞腐れたように口を尖らせた。
 しばらくして、やっと孫堅が笑いを止める。
「いや、すまん。あまりにも、その……な」
 その、何だ。
 は顔を作らなければと思いつつ、口元が歪むのを懸命に堪えていた。
「お前は、俺の息子の妻になるやもしれん女だろう。義父である俺に、そこまで緊張しなくとも良かろう?」
 思わず机を叩いてしまい、手前の小皿が軽く揺れた。慌てて箸や皿を押さえ、被害を防ぎきって
ほっと安堵する。孫堅がまた肩を震わせて笑っていたが、もうツッコむ気力も残ってなかった。
 食事を済ませると、茶を啜って孫堅は立ち上がった。会見の時間だと言う。
「お前はここに残って、ゆっくりしていても構わんぞ」
 孫堅はそう言ってくれたが、主のいない室に留まるのはどうにも尻の座りがよろしくない。尚香との約束もあったので、退室することにした。
 孫堅が兜やマントを家人に手伝わせて着けている横を通り抜け、扉の前で拱手の礼をする。
 顔を上げると、孫堅が薄く笑って『また明日』と軽く手を掲げた。

 孫策が目を覚ますと、は孫策の頭を膝に乗せたまま、器用に寝こけていた。
 宴はそろそろ始まった頃だろう。

 小さく呼びかけ、呼吸の為に僅かに開いた唇に、そっと自分の唇を重ねた。
 ぴくん、と肌が震え、の瞼がゆっくりと開いた。
「……伯符……」
 が自分の姿を認め、字を舌に乗せる。それだけで、孫策の胸の内は甘ったるいような感慨に満ちた。
 失うことなど考えられない。なら、どうしたらいいのか。
 孫策の目の色は、不意に深く沈んだものに変化した。

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