宴が始まるぎりぎりになって、と孫策が連れ立って広間に入ってきたことに周瑜は目を剥いた。幾らなんでも堂々過ぎる。
 が席に着くのを眉間に皺を寄せて見遣り、近付いてくる孫策の顔を見る。
 何も言えなくなった。
 陽気で、何も考えていなそうな豪放磊落さが魅力の男が、何処か影を落としているように見える。
 それは周瑜の隣に居た孫権にも感じられたようで、ただ申し訳なさそうに肩を竦め俯いた。
 やはり、言わねばよかったと後悔が重く圧し掛かった。
 言わなければ破裂してしまいそうだった。孫策に隠し事をしていることもその中身も、熱を帯びて瞬く間に膨れ上がり孫権の中をいっぱいにしてしまって、辛くて苦しくて耐え切れなかった。
 けれど、耐え切るべきだったのだ。
 未熟だ、と恥じ入っている孫権の背後に、そっと周泰が寄り添う。すぐに気が付き、孫権は苦い笑みを浮かべた。
 いつもこの忠臣に甘やかされている気がする。せめて、己の色恋沙汰程度のことは自分で何とかしなければなるまい。
 孫権は、敢えて胸を張った。
 そうでなければ、孫策にも自分にも恥ずかしいと思った。今更、あれは嘘でしたと言えるわけもない。本当に好きだから、兄にも告白したのだ。言ったことには責任を取らねば、と孫権は卓の下で拳を握り締めた。
 宴が始まってすぐ、甘寧がを迎えに走った。小喬ですら、椅子を蹴って立ったばかりの状態だ。明け透けな速さに周囲も呆然としている。
 一番乗りでを確保して、甘寧は意気揚々と席に戻る。
 と、陸遜がしゃあしゃあと家人に椅子を用意させていた。自分と、甘寧の卓の間だ。
 甘寧が広間に来るのは割と遅めだ。にも関わらず、陸遜は必ず甘寧の横を保持しており、ちゃっかりと言葉を交わす時間を狙っている。
「……お前ぇ、な」
 甘寧が嫌そうに見下ろすが、陸遜は陸遜でけろりとしている。
「宴の時間以外、私も殿とお話しする機会がありませんから」
 が呉の文人ならば何の問題もない。けれど、同盟国とは言え蜀と呉、立派に立場を違える間柄である。孫策のように何も気にせず飛び込んでいく、孫堅のように権力を嵩に義理の息子に命令させるなどの裏技めいたものは、陸遜には到底為しえない。宴の時だけが唯一無二の機会なのだ。
 とは言え、それは他の将にも言えたことで、甘寧などは、先日凌統にを連れ出したことを詰られてからは、健気にもの立場を慮って誘い出すのを自粛することにしていた。手下の錦帆賊は、何かの折に付けは今日は来られないのかと甘寧に尋ねてくる。どうも気に入ってしまったらしい。可愛い手下共の為にも、何とか機会を得たいと付け狙う甘寧には、お堅い陸遜の存在は如何にも邪魔なのだった。
「俺は、こいつと差しで呑みてぇんだよ」
殿と少し話をさせていただければ、後はご存分にどうぞ」
 少しってのはどれくらいなんだ、殿が限良くお話終わるまでです、と喧々囂々と遣り合っている。
 取り残されたと脇に座る呂蒙との目が合った。呂蒙は、眉間に皺を寄せ、『すまん』と小声で囁き頭を下げた。
 この人の気苦労は並大抵ではないだろうなぁ、とはやや同情した。酒瓶を手に取り、呂蒙に酌をする。呂蒙は少し慌てていたが、の酌を有難く受けた。
 酒を口に含み、照れ臭そうに頬を染めると、口篭りながらも歌を強請ってきた。
「いいですよ。どんな歌を?」
 呂蒙はしばらく迷って、何か勇ましい歌でも、と答えた。
 勇ましい歌、勇ましい歌と口にしながら、は頭上を見上げるように背を逸らした。
「分かりにくい単語……言葉とか入ってもいいですか」
 呂蒙が頷くのを確認して、は咳払いして歌いだす。
 突然大きな声で、高らかに歌いだしたに、ぎょっとして甘寧も陸遜も押し黙った。
 現代で言うところの変形ロボットアニメの主題歌だ。が握り拳を握って熱を篭め歌うもので、呂蒙も割と呆然として聞いている。
「……お終いです」
 へこり、と頭を下げるに、呂蒙はただただ頷くしかなかった。
 突然、がたん、と大きな音がした。
 孫策が、卓に突っ伏している。すわ、何事かと広間が一瞬緊迫に包まれたが、勢い良く顔を上げた孫策が、腹を抱えて笑っているので一気に気が抜けた。
 は、怒るでなく孫策を見詰めた。
 本当に、落ち込んだり笑ったり、忙しい奴だなぁと半ば呆れている。残り半分、好ましいと思っているのも事実だったが。
 呂蒙に酒を勧められ、も遠慮なく受け取る。
 歌を歌うのも、だいぶ慣れてしまった。最初の日は、酔った勢いだけで歌ってしまい、恥ずかしさのあまりに首を括ってしまいたいとまで考えた。けれど、できることがただでさえ少ないのだから、求められるなら答えようと開き直った。
 酔って記憶をなくしてたのを、こうだったと教えてくれたのは凌統だったっけ。
 思い出して視線を向ければ、意外にも凌統もこちらを見ていたらしい、視線が絡んだのを慌てて逸らされた。
 微妙な心持である。
 違う方から視線を感じ、振り返ると周泰だった。そういえば、約束していたのだった。
 甘寧が呼び止めるが、すぐ戻るからと頭を下げ、周泰の前、つまり孫権の前に立つ。
 孫権は真っ直ぐにを見る。目の力強さにたじろぐほどだ。昨日はどちらかと言うと合わせないようにされていたように思った。やはり孫策と何かあったのだろうか。
 孫策を見遣ると、少し不安そうな顔をしている。卓に顎を乗せて上目遣いに見ているだけだが、傍から見ればだらしないだけのその格好も、何処か虚勢めいたものを感じてしまう。先程、弱っていた孫策を見ていたからかもしれない。
 後で、ちょっと行こう。
 周瑜はいい顔をしないに決まっているが、孫策を放っておくこともできない。
「どんな歌を」
 周泰に問うと、僅かに首を傾げた。
「……お前の…好きな歌を……」
 昨日とほぼ変わらない発注に、はええと、と考え込んだ。先程ロボット物を歌ったせいで、頭がそれ系から離れていかない。
 しかし、周泰にロボット物を歌うのも何となく気が引けて、はうんうんと唸り続けた。
「昨日の歌でいい」
 突然孫権が口を開いた。
 おかしな唸り声を上げていたのが気に触ったか、とは肩を竦めた。が、孫権の顔だけ見ていると、特に怒っているというようでもない。
 内心少し複雑な物を感じるが、周泰を見ると小さく頷いて寄越した。ならばいいのだろう。
 歌い出しの歌詞を思い起こし、口にするとすらすらと続いた。
 悲しい歌だが、孫権は気に入ったのだろうか。見てはいけない気がする。だから、何となく避けた。
 ひょっとしたら、と思い始めていた。ひょっとしたら、孫権は、自分を、そんな、でもまさか。
 兄弟で似た女性を好きになることはよくあることと聞いた。母親の面影を辿ってしまうからなのだそうだ。孫権もそうだとしたら、孫策が好きだと明言して憚らないを好きになるということだって、十分ありえることではないだろうか。
 あ、待てよ。
 ふと気が付いて気抜けした。孫策は、大喬のことも大大大好きだったはずだ。大喬とでは、何もかもが違う。違い過ぎる。
 どうせ好きになるのだったらあちらだろうと、は最後のフレーズを歌いながらちらりと孫権を見た。
 青の目が、一瞬柔らかな紫に見えた。
 あ、綺麗。
 ちょっとだけ心臓が脈打った。
 頭を下げると、周泰がまた明日も、と同じように約定を求めてくる。はい、と答え、孫策のところに向かうと、孫策は嬉しそうな、それでいて後ろめたいかのような複雑な面持ちをしていた。
 無言で酒瓶を抱え上げると、孫策も杯を差し出しての酌を受ける。
 首を傾げ、大丈夫かと無言で問う。孫策もの気持ちを汲み取ってか、笑みを浮かべてこくりと頷いた。
 言葉がなくても、多少のことは伝わるようになった。不思議な連帯感に面映くなる。
 まぁ、そんならいいやと安心して、礼をして退去する。
 甘寧が不貞腐れているのが見えた。陸遜が、今か今かと急いたように体を揺らしている。
 は小走りで二人の下に戻った。

 結局、甘寧にも分かって、陸遜にも興味が持てる話、ということで苦肉の策を取った。世界地図を卓に書くことにしたのだ。
「えぇと、ですからね」
 指を酒に浸し(勿体ないとは思ったのだが)、卓の上の皿などを退かして空けたスペースに、ユーラシア大陸を描き出す。細かいところまでは覚えていないから、半島の幾つかは描けてないかもしれない。
「で、ここが中原」
 ぐりぐりと円を描くと、陸遜が目を輝かせた。
「我等の国は、ここら辺ということになりますね」
 同じく指でぐりぐりと円を描く。
「そうだね、そういうことになるね……ますね」
 呂蒙も、甘寧の脇からの手元を覗き込んでいる。
「となると、やはり西方に勢力を伸ばすには……」
 ぽつり、と呟いた陸遜に、ははっと息を飲む。陸遜も、慌てて自分の呟きを言い訳し訂正するが、の顔は強張ったまま戻らなかった。
 甘寧は、それ見たことかとを抱き寄せ、陸遜から引っぺがした。
「気にすんな気にすんな、呑もうぜ」
 はぁ、と気のない返事をし、杯を受け取る。陸遜が落ち込んでいるのが横目に見えてはいたが、慰めの言葉を掛けるつもりにもなれない。
 陸遜は、というより呉は、蜀に攻め込む気でいるのだということをはっきりと思い知らされた気がした。
 途端に気持ちが醒めていく。居心地が悪くなり、早く蜀に帰りたいと思った。
 を密かに見守っていた劉備が、さり気なさを装って孫堅に話しかける。
「……ところで、ずいぶん長くお世話になっております。心苦しく思いますし、私もそろそろ蜀が恋しく
なって参りました」
 聡い孫堅は、劉備の申し出をやはりさり気なさを装って返す。
「義理の息子であり俺の娘の夫でもあるお前が、何を遠慮することがあろう。今しばらく、ゆるりとしていけば良かろう」
 尚香が身を乗り出して訴える。
「でも父様、私がわがままを言って呉に逗留しているのだ、なんて言われるのは嫌だわ。それに私、蜀で服を作ってもらっているの。蜀錦を、劉備様が染から整えて下さって。もうそろそろ出来ている頃だから、早く見たいわ」
 劉備をいなせても、このお転婆な愛娘をいなすのは難しい。特に、仕立てた物を早く身に付けたいという女心、無下に踏み躙れば後が怖いと来ている。
 うむ、と唸る孫堅の脇から、黄蓋が恐れながらと進み出る。
「……勝手をして申し訳なかったが、先日貴公ら蜀の船を見たところ、思わぬところが水にやられているのに気が付きましてなぁ。今日から、直させているところですわい。いや、どうも申し訳ない」
 思わぬ伏兵に、劉備はぎょっとして黄蓋を見遣る。
 直させている、と言われては返す言葉がない。あくまで親切からと言われればそれまでで、嘘だと詰るにも肝心の船が押さえられているのでは文句のつけようがない。
 孫堅は、よくやったと言わんばかりに黄蓋に深く頷いて見せた。
「……というわけだ。気に病むことはない、ゆっくりするといい。足りないものはこちらで揃えさせよう」
 尚香にも悪いことをしたな、明日にでも商人を寄越すから、何でも好きな物を求めるといい。
 娘に甘い、優しい父親の顔をして、孫堅はにこりと微笑んだ。
 趙雲は劉備の背後から、一部始終を見、聞いていた。
 が不安そうに趙雲を見ている。何かあったらしい。隣にいる陸遜が肩を落としているから、何か失言でもしたのだろう。
 しかし、劉備の背を守る任を勝手に解くわけにもいかない。の元に駆け寄ることすら、この国では為しえないのだ。
 早く、蜀へ。
 その目論見が早々に破綻したことに、趙雲は落胆を隠せなかった。

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