身支度を整えて、孫堅の使いが来るのを待つ。
 気乗りしなかった。
 昨夜も、結局は沈んだままで、トイレに行くふりをして途中退席してしまった。甘寧はきっと怒っているだろう。
 当たり前といえば当たり前の現実だったが、孫策と話をしていると、互いの国で争いが起こる要素など微塵も感じられなかった。
 最近になって、ようやく他の呉の人々とも打ち解けることが出来、と気安く呼びかけてくれることが嬉しくもあった。
 きっとこのまま、争うことなどないまま、と思い込んでしまった。
 平和ボケした自分の能天気さが思いやられる。
 ここは敵国なんだ。
 初めて呉に来た時の、重たげな門扉が閉まる音が、の中でリフレインした。ずうぅぅぅん、と地響きのような、何もかもを締め出してしまうような音だった。
 孫策との付き合いも、改めて考えなければならないかもしれない。
 敵、なのだから。

 迎えが来て、昨日と同じ道順を辿る。
 こうして歩いていると結構な距離だ。孫堅は君主だから、当然奥まった室で生活しているのだろう。では、孫策や孫権達の室も同じような場所にあるのだろうか。
 そういえば、昨夜の孫権は少しおかしかった。
 ツンデレだー、と理解した瞬間、苦手意識は薄れていた。見た目から感じるほどには、怖くなさそうだと思えた。
 孫権はに花を差し出したあの日からも、呉の孫権としての態度を崩しては来なかった。孫家の人間としては当たり前だと思う。孫策が自覚なさ過ぎなのだ。
 しかし、昨夜になって何故いきなり変化したのだろう。
 孫策のおかしなお願いといい、いつか機会があれば孫権と直に話し合わなければならないかもしれない。
「どうぞ」
 何時の間にか孫堅の執務室に着いていた。
 ああ、いかんなぁ……。敵とか言って、自覚ないや……。
「如何した、何か考え事か」
 は、と我に返る。慌てて拱手の礼をし、どう誤魔化そうか考えて、手管を見出せずに棒立ちに突っ立った。
 孫堅は、そんなを優しく見つめ、書きかけの書簡を置くと隣室に誘った。
 椅子に掛けさせ、向かいにあった椅子をわざわざの横に置き、そこに座った。
 の座る椅子の背もたれに手を置き、ぐっと顔を近づけてくる。
 甘寧ならばいざ知らず、孫堅の顔が近付いてくるのには如何にも耐えられない。赤面するのを隠すように顔を伏せると、膝の上で握り拳を握り、身を固くした。
 孫堅は、わざとやってるのかと思うほど近くに顔を寄せてくる。吐息が耳をくすぐっているような気がして、は内心で甲高い悲鳴を上げていた。
 くく、と喉が鳴ったような音がした。見ると、孫堅が口元を押さえ、そっぽを向いて肩を震わせている。
 からかわれた。
 思わずむっとすると、孫堅は堪えきれずに卓に顔を突っ伏してしまった。
 さすがは孫策の親だ。ツボに入ると堪えられない癖まで同じなのか。
 は膨れたまま明後日の方角に目を向ける。孫堅は、ひとしきり笑い転げた後ようやく顔を上げた。
「……っ、ふぅ、すまんすまん」
 謝った後、の顔を見てまたツボに入ったらしい。ぷっと吹き出すと顔を伏せてしまった。
「……用がないのでしたら、下がっておりますけれども」
 声に棘がある。これだけ笑われたら、いい加減に我慢の限界だ。
 孫堅は、深く息を吸い吐き出した。
「……いや、すまん。収まった」
 笑い転げた後の孫堅は、顔の表情が無邪気に緩んでいて、とても大きな子供が三人も居るようには見えなかった。
「お前が肩に力を入れているのが、妙にかわゆらしくてな」
 けろりとしてとんでもないことを言い出す。
 普通の女の子なら頬を染めるんだろうなぁと思いつつ、は何となくこの人ホントに大丈夫かと心配になった。
「で、如何した。昨夜、陸遜と何か揉めていたのを思い返しでもしていたか」
 いきなり核心を突いてくる。
 何と返事をしていいのか分からず、はただはぁ、と生返事を返した。
「あれは、まだ若い。何を言ったかは知らんが、恐らくは考えなしで口走ったことだろう。許してやってはくれまいか」
 はぁ、と同じような返事をして、は俯いた。
 問題は、実は陸遜ではない。陸遜の言葉から感じ取った、呉の蜀への敵対心こそがの悩みだった。
 呉の君主たる孫堅に言えるはずもない。
「俺には、言えぬか」
 ぎくりとして顔を上げたの眼前に、孫堅の真摯な眼差しがあった。心の奥底を覗き込まれるようで、は慌てて俯いた。その顎を取られる。
「俺は、お前を見込んでいる。お前が望むなら、まず大概のことは叶えてやろう。……言え」
 朗らかで優しげな父、穏やかで親切な紳士、今までが見てきた孫堅とはまったく違う男が居た。これは、君主としての孫堅なのだろうか。背中いっぱいにぞわっと鳥肌がたつのが分かる。言葉はどれだけ優しくても、その根底にあるのは拒絶すら許さない命令だった。
 は、必死に抗った。口にしてはいけない考えだった。例え見せ掛けだけだとしても、今だけの短い逢瀬のようなものだとしても、蜀と呉は同盟を結んでおり、この同盟が成る限りは二国の間に戦は起こらない。平和があるのだ。
 如何な端役とは言え、確固として蜀の使いたる立場があるから言っていいことではなかった。
「言わぬのか」
 孫堅の顔がすっと冷め、ぐんとの顔に近付けられる。
 キスされる、とは恐怖を覚えて固く目を閉じた。
 歯を食いしばり、孫堅の手管に耐えようと決死の思いである。
 ところが、何時までたっても何も起こらない。
 恐る恐る目を開けると、孫堅が優しく微笑み、顎を取っていた手での頬を撫でた。
「意地っ張りめ」
 一気に気が抜ける。腰砕けに椅子からずり落ちるのに、孫堅はからからと明るく笑った。
「陸遜から既に話は聞いている。蜀に攻め込むが如くの発言をしてしまい、お前の機嫌を損ねたとな。今日の昼餉の時に同席し、一言謝らせて欲しいと言っておったが諦めさせた。後で、宴の時にでも聞いてやれ。これは、呉の君主から、同盟国蜀の文官への依頼だ。受けてくれるな」
 聞いてやれ、という時点で『依頼』と言うよりは『命令』の気がする。
 それにしても、初めから事情を知っていて脅しをかけてくるとは中々いい性格をしている。
 孫堅には気を許さない方がいいかもしれない。
「……お前は、本当に顔に出るな」
 孫堅が呆れたように零し、ついでにやりと悪戯っぽく笑った。
「俺のことを、性格悪いとか信用しないようにしようとか、そんな風に考えていたろう」
 言い当てられて、は顔を赤くして俯いた。
 やはりな、と孫堅は笑い、奥に向けて手を掲げた。
 何だ、と思っていると、奥から美しい女性がうやうやしく盆を掲げて入ってくる。
 皿の上に美しく盛られた前菜が、みずみずしい光を含んでいた。
「食事にしよう」
 孫堅は椅子を戻し、と差し向かいに座る。
 皿を持ってきた家人はすぐに奥に引っ込んでしまい、孫堅は腰をかけたまま動こうとしない。
 仕方なくが小皿に取り分け、孫堅に渡す。孫堅は、鷹揚にうむ、と頷くと、箸を取って食べ始めた。
 も、おずおずと食べ始める。
「あの」
「ん?」
 気になって、堪えきれずに切り出した。
「あの、全部……」
 聞かれていたのだろうか。それはちょっと、いやかなり恥ずかしい。
「気にするな」
 ということは、やはり聞かれていたと見るべきだろう。うご、と謎の悲鳴を上げ、は頭を抱えた。
 君主なのだから、プライベートとの時間などほぼ皆無なのだろう。昨日は護衛がいないのだとある意味感心していたが、奥に控えていたのかもしれない。家人がこれだけタイミング良く現れるのだから、何時でも何処かに誰か居ると見て良かろう。下世話な話かもしれないが、夜にナニをする時間でも御付の者や護衛などが孫堅の動向に気を配っているのに違いない。
 巻き込まれるのはヤダなぁ、と前菜をしょぼしょぼ噛み砕いていると、孫堅がまたもこちらを注視しているのに気がついた。
「もし気に触るなら、お前と会う時間は皆下がらせておくが」
 いやいやいや、とは慌てて孫堅を押し留めた。幾らなんでもそれはまずかろう。がどれだけ非力で返り討ち間違いなしでも、呉の側からすれば肝が冷えるに違いない。
 だいたい、何でそこまでしてくれるのかがさっぱり分からない。
「言っただろう、俺は、お前を見込んでいると」
 はぁ、と呆気に取られて生返事しか出来ない。
 しばらく、黙々と前菜の処理に集中した。孫堅も、に合わせて黙々と食事を続ける。
 前菜を食べ終わった時点で、音もなく第二の皿を掲げた美女が現れる。今度はスープだ。また、が取り分ける。
 熱過ぎず、かといって温くもないスープは、の好みの味付けだった。
「これは気に入ったらしいな」
 うむ、と満足げに頷く孫堅に、はやや不安な気持ちになった。
「あの……まさか、私の好みに合わせてくれているんですか」
 孫堅が、きょとんとしてを見つめる。当たり前だろう、と返されて、は絶句した。
 何でそんな厚遇されないかんねーん、と怪しげな方言が頭の中で渦を巻いた。
「大事な息子の嫁だからな」
 うんうん、と酷く尤もらしく納得しているが、そもそもは孫策に嫁入りする予定はない。ぎゃーす、と吠えると、孫堅はまたからからと笑った。
「まぁ、俺がお前の喜ぶ顔を見たいだけかもしれん」
 何しろお前はたいてい眉間に皺を寄せているか、複雑そうに何か苦い物を噛んだような顔をしている。
「初日の、あの少し酔ってかわゆらしかったお前が見たい」
 またもやつらっとえらいことを言い出す。
 がじと目になって孫堅を見ると、その顔だ、その顔は見飽きたと大袈裟に嘆いてみせる。
「何を贈れば、あの時のお前が見られる? 壺や掛け軸では一向に喜ばぬと、蒋欽達が嘆いておったぞ」
 それは申し訳ないことをした。
 初耳の話に、は驚き身を竦ませた。孫堅が困ったように頬杖をついた。
「まぁ、急ぐまい。幸い、時間はまだあろうしな」
 船をもの質に取られたのは今朝馬良に聞いた。早く蜀に帰りたいと思っていたのに、これでは帰れない。
 俯き、がっかりと肩を落とすに、孫堅は少し淋しげな顔をした。
「……そんなに蜀に帰りたいか。呉は、居心地が悪いのか」
 慌てて否定するが、孫堅はの気落ちが乗り移ったかのように陰鬱になった。
「いや、でもあの、呉のこと、あんまり良く知りませんし、ね」
 にとって呉は、せいぜい居住のために貸し与えられた屋敷、庭の一部、宴の行われる広間くらいだ。
 それを聞いた孫堅が、なるほどな、と呟いた。
 少し気が逸れたのを幸いと、は慌てて会話の糸口を探す。
「そ、そう言えば、どうして陸遜殿のご同席を却下されたのですか」
 人が多い方が、食事は楽しいだろうに。
 孫堅は、ちらとを見遣り苦笑した。
「……昼餉の時間は、俺がお前を独り占めするのだと決めた」
 邪魔者はいらん、と言って、今度は子供のようにくつくつと笑った。
 孫堅が何を考えているのか計りかねて、はただ翻弄され戸惑っていた。

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