は、身支度を整えて孫堅の使いを待っていた。
 午前中は書簡を読む。それから孫堅の昼食に付き合い、また書簡に目を通して、尚香達にお話を聞かせる。湯浴みして宴の支度をし、宴に参列。就寝。
 もう一週間はこんなことを繰り返しただろうか。
 宴では、相変わらず歌を歌ったり馬鹿な話をして、呉の武将や文官達と言葉を交わしている。
 陸遜の謝罪も受け入れたし、甘寧にも詫びを入れて受け入れてもらった。
 けれど、蜀に帰りたいという気持ちはどうにも抑えられなかった。
 ここは違う、ここは違うと微かなざわめきが何度も何度も胸の中に沸き立ち、溢れてしまいそうだった。
 呉は、確かに豊かな国だ。人々も直情的な反面、一度打ち解けるととても親切だということも分
かった。大雑把でざっくばらんな人々は、現代日本人のそれと良く似ている気がする。気候もまた、日本のものとよく似ていた。だから、人の気質も似るのかもしれない。
 けれどは、蜀の穏やかでつつましい人々にこそ惹かれるのだ。気難しい面もあるが、素朴で、礼儀正しい。学はなくとも礼はある。そんな蜀の方が、ずっと好ましいと思ってしまう。
 連日の雨が、に蜀を恋しがらせるのかもしれない。体を動かすことも叶わず、陰鬱な気が溜まっていくのを感じた。
 孫堅の使いが来たのに答えて、は扉を開けた。

 最初に幾らか待たせられるのはいつものことだ。その後、隣室に移って、孫堅と他愛のない話をしながら食事をする。
 食事の量はずいぶんと抑えられたが、内容は一国の君主に相応しく豪勢なものだ。
 初めはの反応を見るかのように色々な種類が出されたが、四日目を過ぎた辺りからの好みの味付けや料理ばかりが並ぶようになった。出されたものは気合と根性で全て綺麗に片していたというのに、なかなか見事なものだ。
 あるいは、とはそっと孫堅に目を向けた。
 思い上がりでなければ、孫堅がの反応をいちいち観察して料理人に指示を出したのかもしれない。
 そこまで厚遇される覚えもないが、そも一君主とただの下っ端文官が、こうして会食すること自体おかしな話なのだ。
 思考に耽るに、孫堅が食事を取る手を止めた。
 慌てて食事を再開させるが、孫堅は苦笑いしてを見つめる。も口に入れたものが喉を通らず、無理やり嚥下すると箸を置いた。
「……如何した?」
 孫堅は苦手だ。視線に力がある。見つめられていると、柔らかく拘束されているような気になってくる。ありもしない主従関係を意識し、孫堅の問いには何でも答えなくてはならないような気になるのだ。
「……如何して、ここまでして下さるのかが分かりません」
 それはだから、息子の嫁になる女に、と戯言で返してくる孫堅に、は眉を寄せた。
「私、孫策……様のお嫁に来るつもりはありません」
 きっぱりと断りを入れる。
 孫策のことは好きだ。けれど、結婚となれば話は別だ。大喬のこともある。二人がどれだけを熱望してくれようとも、の中に培われた倫理がそれを受け入れられなかった。
「では、権なら如何だ?」
 予想外の人物の名を出され、は思わず大口を開けて黙り込んだ。
 孫堅は、くっくっと肩を震わせて口元を押さえた。隠しているつもりなのか何なのか、どちらにせよ失礼な話だ。は顔を赤らめて孫堅を軽く睨みつけた。
 の視線に大袈裟に肩を竦めて見せると、孫堅は軽く頬杖をついて柔らかくを見つめた。
 この柔らかさが曲者だ。
 何を考えているのか分からない。
「け……えと……孫権様のとこにもお嫁に行く気はありません、私、蜀に骨を埋める覚悟なんで」
 が今、最も愛していると言えるのは『蜀』という国そのものなのだ。
 思い出したように蜀に帰りたいという気持ちが湧き上がってくる。現代に戻りたいと思ったことはほとんどないのに、不思議だった。
「では、俺のところに来るか?」
 イヤ、だからと口答えしかけ、孫堅が言い出したことの意味に遅ればせながら気がついてぴたりと口篭る。
 孫堅のところ、ということはつまり……。
 嫌な汗がだらだらと流れ落ち、は状況を打開しようと必死に考えを巡らせるのだが、の脳は主の求めに答えられるほど性能の良いものではなかった。
「俺のところに来て、呉と蜀が同盟関係を続けていけるように俺に吹き込めば良かろう? それならば、お前の愛する蜀が、少なくとも呉との戦乱に巻き込まれることはない。どうだ、良い案だとは思わぬか?」
 孫堅は、止めとばかりに実に魅惑的な根拠を申し出てきた。
 しかし、である。
「……孫堅様が、私の申し上げることをお聞き届けになられるとも思えませんが……」
 仮に叶ったとして、周瑜以下呉の家臣がうかうか了承してくれるとも思えない。前提条件がおかしい。
 孫堅は、だが軽くをいなした。
「お前が、俺を狂わせて仕舞えば良いだろう?」
 今度こそ、は絶句した。
 誑かせ、と誑かされる対象の本人が申し出ている。そんな馬鹿な話があるだろうか。
 押し黙ってしまったを他所に、孫堅の話は尚も続く。
「かの成帝を誑かした飛燕と合徳のように、殷の紂王を誑かした妲己のように、俺を誑かせば良い。あれらに比べれば、戦をしてくれるなというお前の願いなど、実に他愛無く、かつ民の願いにそぐったもののように思えるが」
 如何か、と言われても困る。妲己と一緒にすんな、とは冷や汗をかいた。
 要するに、それぐらいなら何とかできる、してやると言っているのだろうが、対価が見合わないような気がする。自分がそれほど見目麗しい、傾国の美女クラスの女などと思ったことは無論ないし、自分の一生をあの蜀でなくこの呉で過ごすというのもまた想像がつかない。
 結婚自体が未だリアリティがない。誰か一人を愛して、その男に尽くすという感覚が湧かない。孫堅は元より、趙雲や馬超に対しても同じことが言えた。
 好きだ、だから結婚するというのは理解の範疇にない。
 運命論者のつもりもないが、結婚するなら直感で分かるものだろうとは思っている。少なくとも、この男に添いたいと思う瞬間があるはずだ、とは感じていた。
 その感覚は、未だには、ない。
 恋をする、ということに憧れを持ち過ぎているのかもしれない。もっと神聖で、劇的で、鮮烈な出会いがあって初めて恋に落ちるのだと思い込んでいるのかもしれない。自身はそんなもんじゃないだろうと鼻で笑う方だったが、お相手として十二分な相手がこれだけ出揃っていて、未だに誰を望んでいるのかはっきりしないとなると、その可能性が高い気がしてきた。
 ほぼ同時に出会って、ほぼ同時に関係を持ったというのもそも倫理的に如何なのか。倫理以前の問題もする。
 うぐぅ。
 如何したものかと、は頭を抱えた。

 突然黙り込んで百面相しだしたに、孫堅は肩透かしを食った気がしていた。
 自分の申し出は、それなりにに衝撃を与え、自分を意識させるに相応しい言葉だったと思う。
 は、悩んでいる。悩んではいるが、それは自分の言葉を悩んでいるのではなく、それを切っ掛けに何かもっと違うことに悩んでいるようだ。
 なかなか、手強い。
 孫堅は、最早自分のことなど全く眼中にないを軽く睨めつけた。
 だが、それでこそ。
 にやり、と笑って孫堅は席を立つと、そのままを包み込むように手を置いた。
「返事は、如何に?」
 耳元にねじ込むように囁くと、の体がびくりと撥ねる。
 ようやく物思いから覚めて、己の置かれた状況に気がつくと、孫堅からなるべく離れるように体を捻って背を反らした。
「な、なな、何でしょうっ!」
 そうすることで尚更逃げ辛くなるのだが、は分かってないらしい。孫堅は、の手管の拙さにひっそりと笑みを零した。
「返事だ」
 容赦なく突き詰める。可愛がっているものを敢えて苛めたくなる不思議な感覚に、孫堅は例えようもない愉悦を感じていた。
「へ……返事……」
「俺の元へ来い」
 えええええ、と半泣きで呻くに、遂に堪えきれず吹き出してしまった。
 途端、顔を真っ赤にしたが、からかったんですねと喚き散らす。
 からかったわけではなかったが、今日のところはこれでいい。孫堅には、今日一気に詰めまで済ます心算はない。この可愛らしくも興をそそる女を、もう少しからかって遊んでいたいと思った。
 出来得るなら、いつまでも。
 いや、そうしてみせようと孫堅は心に決めた。孫策に対する遠慮会釈もない。自分がいるのを知っていて、誰の手にも落ちていないままを呼んだ策が迂闊だ、とさえ思っていた。
 我ながら悪い癖だ、と孫堅は胸の内で嘯いた。
 孫策が見事を射止めれば良し、俺が手を出さぬ間にさっさと片が着くならそれも構わない。
 けれど、を蜀に返してやろうとは思わない。
 蜀はの本当の故郷ではない。調べた限りでは、が蜀に居たのはわずか半年足らず。ならば、忘れさせてやろう。この揚子江の流れる江東こそがの故郷になるのだ。
 この地も、蜀に勝れども劣らぬ。それをお前の魂に染め付けてやろう。どのような手も厭わぬ。
 孫堅の内心など何も知らぬまま、むっとして孫堅を睨むに笑いかけた。
 誰も知らぬことを知るくせに、人の心にはこうも疎い。たまらなかった。
「お呼びだそうで」
 二人しか居なかった室に、乱入者が現れた。
 甘寧だった。気だるげに肩など回している。
 ふと目を上げた甘寧が、椅子に腰掛けたとそれに迫るように覆い被さっている孫堅の姿を見て、一瞬言葉を失って立ち尽くした。
「興覇か。思ったより早かったな」
 遅れてくると思って、少し早めに呼んだのだといい、孫堅は笑った。対して、甘寧は複雑な面持ちでを見下ろし、次いで孫堅に目を向けた。
「……御用は、何です」
「おぉ、それだが……興覇、お前、先日を連れて街に降りていたそうだな」
 甘寧と、同時にぎくりと顔を強張らせる。
「……凌統の野郎ですか」
「凌統も関わっていたのか?」
 ぎり、と歯軋りして甘寧が殺気立つのに、孫堅はけろりとして答えた。
 てっきり凌統に密告されたかと勇み足した甘寧は、予想が外れてかくりと口を開けた。
「それは、俺も初耳だが……ふむ、まぁ凌統には後で話を聞いておくとして、だ。興覇、お前に頼みたいことがある」
 止めを刺された挙句に下手に出られ、甘寧は半ば観念して頷いた。
「これから、お前の手が空いた時、を連れ出して呉を案内してやってくれ」
 え、との口から驚きの声が上がる。孫堅はを振り返り、首を傾げた。
「呉のことをよく知らぬ、見て回りたいと言っていただろう」
 良く知らないとは言ったが、見て回りたいと言った覚えはない。が慌てて否定しようとすると、甘寧の声に遮られてしまった。
「今、今空いてますぜ! 雨なんで、ずっとくさくさしてたんでさ、勿論お引き受けいたしますぜ!」
 飛び上がらんばかりに喜ぶ甘寧に、は何も言えなくなってしまった。と言うより、言ってもムダだと察知した。
 早速を引き摺っていこうとする甘寧に、孫堅の待ったが掛かる。
「まだ食事が済んでおらん、お前は隣で待っていろ」
 甘寧は、ふと不審気に孫堅を見つめたが、の戸惑った視線に気がつくと宥めるように軽く手を振って見せ、大人しく退室した。
 孫堅は何事もなかったかのように食事を再開させ、もおずおずと箸を取った。
「あの……」
 甘寧を退室させてしまって良かったのか、と恐る恐る尋ねると、孫堅はいつもの笑みを引っ込めて、不機嫌そうに答えた。
「昼餉の時間は、俺がお前を独り占めするのだと決めた」
 言っただろう、と言うと、それきり黙ってしまった。
 怒らせてしまったかと内心どきどきしながら食事を続けていると、孫堅が突然箸を置いた。
「今のところは、俺の元に駆け寄って申し訳ございませんでした、と膝に取り縋るくらいしても良いのではないか?」
 真顔で言ってくるので、は思わず箸を取り落とした。
 知るか、バ―――――――――カッ!!
 怒鳴りたいのを必死に我慢して、は冷たくなった腸の詰め物を口に詰め込み、封印した。

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