が出てきたのに気が付いた甘寧は、壁から身を起こした。
 そのの顔が、むっつりと不機嫌そうなのを見て首を傾げる。
「頼んだぞ、興覇。尚香には、俺から言っておく」
 孫堅が軽く手を振り、二人に退室を促す。甘寧は何が楽しいのだかへい、と元気に返事をしたが、は黙ったまま拱手の礼をして退室した。
 甘寧は、横目でちらりと孫堅の顔を盗み見、とは裏腹に上機嫌なのに再び首を傾げた。

 二人並んで廊下を歩く。
 とある角に来て、がついっと曲がったのを甘寧が慌てて引き留めた。
「待てよ、馬小屋はそっちじゃねぇぞ」
 甘寧が手を引くのを、振り返りもせずにぐいぐいと進もうとする。仕方なく甘寧がの腕を強く引くと、呆気ないほど容易く腕の中に納まった。それでもまだ、じたばたと諦め悪く進もうとする。
「何処に行こうってんだよ」
 呆れて更に巻き締めると、柔らかな胸に指が触れて、甘寧はらしくもなく焦った。は気付いてもいないようだったが、誤魔化すようにひょいと抱え上げると、の足が宙をじたばたともがき、甘寧の膝や脛に当たった。大して痛みも感じなかったので、そのまま抱え上げていると、観念したのかの手足はだらりと下がった。
「……っ……」
 突然しゃくり上げるにぎょっとする。慌てて地に下ろしてやると、そのまましゃがみ込んで泣きじゃくり始めた。
 困惑する。気の強い商売女が喚き散らしながら泣くのを見たことはあっても、こんな風に子供のように泣きじゃくられたのでは如何していいか分からない。まさか、商売女相手の時のように平手一発で黙らせるというわけにも行かず、甘寧は後ろ頭を掻き立ち尽くした。
 面倒だ、と苦い思いが胸を過ぎる。こんな女だったか、という失望もあった。まるでそこらの女官や豪族の娘達と変わらない。
 特別な女、と思っていただけに、甘寧はがっくりと肩を落とした。
「……おい……」
 苦々しくの顔を覗き込もうとした時、すっくとが立ち上がった。
 危うく顎を痛打しかけて、間一髪の頭を避けた甘寧は、文句を言おうと口を開いた。
 瞬間、くるりとが振り返り、赤く擦れた目元で睨めつけられる。
 に怒鳴られる、と思った甘寧が、勢いに飲まれて一歩引いた。
「ごめん」
 思ったよりずっと、その声は弱々しかった。
「ちょっと、ストレス溜まって、キレちゃった。ごめん、なさい」
 ぐしぐしと鼻をすすり上げる。そこらの餓鬼と大差ない仕草を、甘寧はただ呆然として目を奪われた。
 悔しそうに宙を睨む目は、泣いたせいか赤く充血している。袖で擦り上げた目元は赤く腫れ上がっていたし、みっともない風体と言って良かっただろう。けれど、惹かれた。
「尚香様に、直接言いに行きたかったけど……これじゃ、無理かな」
 街に下りれば、尚香との約束の時間にはどうしたって間に合わない。は、それを気にしているらしい。孫堅が言付けておくと言っていたにも関わらず、自分で謝罪しに行こうと思ったようだ。
 震える声に気が付いたのか、は、はふぅ、と大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせようとしている。何度か深呼吸しても、の唇は微かに戦慄いていた。
「……止めとくか?」
 居心地悪く呟いた甘寧に、は首を振った。
「行こう、連れてって下さい。命令だし」
 最後の言葉がなければ良かったんだがな、と甘寧は胸の内で愚痴った。

 雨具の用意も考えたが、止めにした。
 雨の中を、を馬に乗せて、走る。子供のように足の間に乗せているので、掴まりどころがないせいか甘寧の腰にぐっと体を押し付けてくる。
「……あの!」
 雨と風と、馬の速さに押されて怒鳴らなければ声を出すのも一苦労だ。
「何だよっ?」
 甘寧も怒鳴って返す。
「何か、当たる!」
 が顔を赤くして怒鳴るのに、甘寧はこっそり忍び笑いを漏らした。さっきの分、これぐらいの役得がないとな、と密かに思いながら、何がだよ、と敢えて聞き返してやった。
「……もう、いいです!」
 しばらく黙りこんだ挙句、自棄気味に叫ぶの声を受け、甘寧は雨に嬲られるのを楽しむように笑い声を上げた。
 駆けて駆けて、それこそ坂道を滑り落ちるようにして街に辿り着く。
 何時振り落とされるかと必死になって甘寧と馬にしがみ付いていたは、ようやく緩まった馬足に荒く呼吸を繰り返した。
 雨のせいで息するのも一苦労だった。
 さっきとは趣の違う涙が目尻に浮かんでいる。
 髪からだらだらと水が垂れてくる。服は濡れていないところがないぐらい、びっしょりと濡れていた。靴の中から、だぼだぼと濁った音が響いている。
「……びしょびしょ」
「あ?」
 気持ち悪くないのかと思うが、甘寧はの濡れた服にぴっとりと裸の胸を押し付け、聞き返すように耳をそばだてる。
「びしょびしょだっつってんです」
「あぁ?」
 大きな声を出しているつもりなのだが、甘寧には聞こえてないのかまた聞き返してくる。は大きく息を吸い、怒鳴った。
「びしょびしょだって!」
 途端、辺りがしんとして、一斉にに注目する。
「……え?」
 視線を浴びて、が固まる。甘寧は、堪えきれないとばかりに爆笑した。釣られたかのように、周囲の人間も爆笑し、辺り一帯が笑いの渦に巻き込まれた。
 一人が訳もわからず、辺りを落ち着かずにきょろきょろと見回していた。如何していいか分からず、とりあえず原因と思しき甘寧を睨む。
 甘寧は笑みでの視線をあっさりかわすと、の肩に顎を乗せ、馬をゆっくりと進ませた。
 孫堅の執務室で感じたわだかまりは、危険極まりない乗馬ととの他愛無いやりとりで払拭された。触れたところから、冷えた体にじんわりと熱が移る。
 も同じように感じているだろうか。
 馬の歩みを殊更に遅くして、甘寧は雨に濡れたの髪と肌の匂いを満喫していた。

 先日の酒場に着くと、錦帆賊がわっと出迎えた。びしょ濡れの甘寧の姿に、やれ火を起こせの着替えだのと大騒ぎになる。
「こいつの着るもんも、何か探して来い」
 甘寧の言葉に、錦帆賊の動きがぴたりと止まる。甘寧の親指が差す方を見て、どっと沸き立った。
「わぁ、姐さんだぁ!」
「姐さんが来て下さったぞ!」
「おい、甲、てめぇの女んとこ行って、ちっと着てるもん剥いで来い!」
「あんな女が着てるもん、姐さんに着せられっか!」
「誰か寿星館に行って、主に着る物出させて来い、とっときの奴だぞ、とっときの!」
 一気に大騒ぎになる。
 どたばたと駆けずり回るものだから、埃が立つ。がくしゃみをした。
 また、錦帆賊の動きがぴたりと止まる。
「わぁ、馬鹿、姐さんが風邪引いちまったじゃねぇか!」
「医師だ、医師の王老連れて来い!」
「馬っ鹿、あのクソ爺は去年の冬にぶち死んだじゃねぇか、それよか薬師だ、薬師の李婆連れて来い!」
「あの婆は先月クソ壺にはまって死んだろうが、ボケ!」
「ボケたぁなんだ、てめぇ、やるか!」
 喧嘩が始まってしまった。
 が呆気に取られていると、甘寧はの手を取って奥へと誘う。店の主に顎をしゃくって合図すると、主は軽く頷き、甘寧の言いたいことを全てを飲み込んだかのように喧嘩している連中を怒鳴りつけ、何やら指示を出し始めた。がそれらを見届ける間もなく、甘寧に手を引かれて奥へと進む。
 壺がごろごろ置かれた細い廊下を抜けると、突然廊下の幅が広くなって、両脇に四角く穴を開けた壁がずっと続く。穴の一つ一つはぼろ布で覆われ、中は見えないようになっている。一番奥の突き当たりだけは、重そうな木でできた扉が設えてある。甘寧は、その扉を押した。
 ぎいぃ、と予想通り重そうな音を立てて、扉は開いた。明かり取りの窓が幾つかあるが、ちゃんとした窓は一つもない。薄暗い部屋だった。使い古された寝台は薄汚れていたが、敷かれた布は古くてもしっかり洗いこまれている。卓が一つ、椅子がてんでんばらばらに置かれている。蝋燭立てが一つあったが、後は特に装飾の類は見られない。
 簡素な部屋だと言えた。
 突然甘寧が脱ぎ始めた。元々、上半身は刺青を誇示するかのように何も纏っていない。だからと言って、まるで当たり前のようにぽいぽいと脱がれては、目のやり場に困る。
 は慌てて背を向け、壁に向かって語りかけるように手を着いた。
 全部脱いでしまった甘寧が、まったく隠すこともなく寝台に腰掛けた。
「お前もさっさと脱いじまえよ、風邪引くぞ」
 いや、結構ですと壁を向いたまま首を振る。心臓がばくばくして、声が出せなかった。
「いいわけねぇだろ、おら」
 を剥きにかかる甘寧に、は甲高い悲鳴を上げた。
「馬鹿、お前ぇ、変な声出すな」
 あくまで冷静にの服を剥ぎ取る甘寧に、は為す術がない。押さえても呆気なく引き剥がされ、下着姿にされてしまった。
「……何だ、それ」
 はブラとショーツを着けていた。レースの付いた、淡い緑の上下だ。甘寧は初めて見るに違いない。こちらで用意してもらった下着もつけることはあったが、基本的には現代から着けてきたものと、衝動買いした自分を初めて褒めたものとを使いまわしていた。やはり、着け心地が違うのだ。似たようなものではあっても、同じものでは有り得ない。
 甘寧は、の下着を繁々と見つめてから、ブラの紐をひょいと引っ張る。
 ぎゃあ、と悲鳴を上げると、甘寧が指を離し、濡れた紐がやはり濡れて柔らかくなっている皮膚をぴしりと叩いた。
 じん、と痛みが広がり、が肩を押さえて呻く。
「外せよ」
 自分が外し方が分からないせいか、事も無げに言い捨てる甘寧には思わず振り返る。
 無言のまま高速で首の位置を元に戻し、壁に額を押し付けて頭に昇った血を冷ました。
「お前ぇだって、男の裸くらい見たことあんだろ? 俺だって、女の裸くらい目ん玉腐るほど見てきたって。気にすんな、おら」
 それとこれとは別だ、ぎゃあ、と喚き散らすに、甘寧は焦れて後ろから抱きすくめた。
 ひょいと抱え上げられ、寝台に乗せられる。
 何をされるかとびくつくに、甘寧は敷き布をむしり取っておっ被せた。
「……まったく、面倒な女だなぁ」
「これが普通、これが!」
 うっかり視線を向けると、甘寧の裸体を見かねない。
「お頭、後ろ向いて後ろ!」
 突然『お頭』呼ばわりされて、甘寧が首を傾げる。胡坐をかいたままに背を向けると、がそっと甘寧を伺う。
――駄目だ、お尻が見えてる…。
 うっかり甘寧の腰骨の下に目を向けてしまったは、慌てて視線を戻した。
 何で平気かなー、裸って恥になんじゃなかったっけ、とは乏しい知識を喚起してみるが、今現在甘寧が裸で、しかも平気の平左でにも脱げと言ってくる状況とあっては何の手助けにもならない。
「お頭、お頭の服です」
 外から声がして、甘寧が扉に向かうのが気配で知れた。
「……馬鹿、覗くんじゃねぇ」
 あ痛、と悲鳴が聞こえると同時に、甘寧の言葉が聞こえる。自分には脱げと言っておいて、部下には見るなと叱る。矛盾してはいないだろうか。
 衣擦れの音がして、甘寧がもういいぞ、と声を掛けてくる。
 振り返ると、服を着た甘寧が寝台に昇って来ていた。上半身は、やはり何も着ていなかったが。
 小振りの甕にぐい飲みを二つ、器用に片手で持っている。寝台の上に置くと、胡坐をかいて甕の蓋を開ける。ぐい飲みを直接ぶち込んで酒を汲むと、に差し出した。
「呑めよ、あったまるぜ」
 自分の分も汲むと、そのままぐいっと煽る。
 が黙ったまま甘寧を見つめていると、甘寧が二杯目の酒につけようとした口を止め、を見つめ返した。
「どうした?」
「……いやあの……」
 呉を案内するという話は何処に行ったのだろうか。
 の問いに、甘寧は合点が行かぬ風だ。
「ここも、呉だろうが」
 いやまぁ、それはそうだ。そうだが、しかし、どうなんだそれは。
 眉間に皺を寄せていたは、ふ、と肩から力を抜くとぐい飲みを煽った。
 喉の奥からかぁっと熱くなる。確かに、体が冷え切ってしまっているらしい。
 どうせこの雨だ、出かけたとしてもまた雨に濡れるだけに違いない。
 尚香の相手もせずに、甘寧相手に呑みの席というのもおかしな話だが、服がないことには帰れもしない。そも、甘寧が帰ろうとしなければ、も帰ることは出来ないのだ。
「お代わりしてもいいですか」
「お、よしよし、勝手に呑みたいだけ汲め」
 が呑み始めると、甘寧は機嫌良くぐい飲みを煽り始めた。
 知ったことか、とは自棄になった。
 尚香がへそを曲げれば、孫堅が困るだろう。自分が悪いわけではない、孫堅が悪いのだ。
「お頭、このお酒美味しいね」
「だろ、とっておきを出させたんだぜ」
 いつの間にやら甘寧をお頭呼ばわりし続けていることにも気付かず、は甘寧と差しで呑み続けた。

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