何の因果か知らないが、たまたま孫堅の元を訪れた周瑜に、を案内させる役回りが回ってきた。
あの女の為に限られた労力を使うのは耐え難い。
耐え難いが、しかし君主の頼みを蹴飛ばすほど、周瑜は不遜にもなれなかった。
溜息を吐きつつ、廊下を行く。
扉の前に立ち、声を掛けようとして中から女のすすり泣く声を聞いた。
――小喬!?
紛れもなく己の妻の泣き声と確信し、周瑜は礼をかなぐり捨てて中に飛び込んだ。
小さな円卓の周りに腰掛ける、三人の女がいた。戸口側に居たは、荒々しい物音に驚き振り返る。
正面の右に大喬、左に小喬が掛けている。
その目に、大粒の涙が浮き、正に今、零れ落ちるところだった。
周瑜の動きは素早かった。
立ち上がりかけたの頬を、力いっぱい張り飛ばしたのだ。
体勢が整わなかったせいか、の体は易々と宙に浮き、音を立てて壁に激突した。
「周瑜様!?」
慌てた大喬が立ち上がり、尚もに追撃を加えようとする周瑜に飛びついた。
「何をなさるんです、周瑜様!」
小喬も、立ち上がってはみたものの、如何していいか分からず呆然と立ち尽くしている。
「お放し下さい姉上、この女が何をしたかは存じませんが」
「様は、私たちにお話してくださっていただけです!!」
金切り声に近い大喬の声に、周瑜は爆発していた怒りが急激に冷めるのを感じた。
「……お、話……?」
大喬が、周瑜を責めるかのように眉を吊り上げ、大きく何度も頷いた。
壁際に転がっていたの体が、もぞ、と身動ぎし、小さく声を上げた。
その声を聞きつけた大喬が、慌ててに駆け寄り、その体を抱き起こす。
しっかり、しっかりとに呼びかける大喬の声が、何故か遠くから聞こえてくるように周瑜には感じられた。
愕然として小喬を見遣ると、小喬も呆然として周瑜を見つめている。
「小喬、お医者様を呼んで!!」
大喬の悲鳴じみた声に、小喬の体がびくりと跳ね上がった。
周瑜を横目で見ながら、急ぎ駆け出す小喬の足音を、やはり遠くのものとして周瑜は聞いていた。
幸い、の具合はそれほど酷いものではなかった。
頭を強く打って、気絶したのだろうというのが医師の見立てだった。
しかし、打ったのが頭なだけに、用心して寝かせておくがいいだろう、ということで、は自室の牀に横たえられて眠りについていた。
二喬が、二人がかりで付き添っている。
劉備は、呉の二喬にそこまでさせるわけにはと言ってはみたものの、二人の強い申し出により断りきれずにいた。
特に小喬は、半べそをかいたまま、必死にの看病に当たっていた。
意識を取り戻さないの頭に出来た瘤に、固く絞った布を当てて冷やす。何度も何度も水に漬けては絞る為、その手は常に濡れて真っ赤だった。
勘違いとは言え、いや勘違いだからこそ、他国の文官に手を上げた周瑜への叱責は大きいと思われた。
けれど、劉備は困惑しつつも微笑んで、最愛の奥方が涙を零していたら、私とてを打っていたかもしれん、と不問の構えを見せていた。
劉備に耳打ちしたのは趙雲だ。
こんなことで同盟にひびを入れることにでもなったら、はきっと一生気に病むことでしょう、と告げた。
それは恐らく真実であり、趙雲は確信を持って進言した。
だが、ではそれならば周瑜を笑って許せるかといえばそんなこともなく、趙雲はその凛々しい瞳を殊更に力を篭めて律さなければ、周瑜に対して侮蔑と憎しみを込めた目を向けてしまいそうだった。
周瑜は自ら願い出て、自宅で謹慎をしていた。
最初は入牢を、と望んだのだが、劉備が不問の構えを見せている以上、周瑜に罰を与えることは劉備の面子を汚すことになる。
周瑜の望みは叶えられなかった。
屋敷でぼんやりしていると、家人が来客を告げる。
謹慎中だぞ、と苛立ちながら答えると、来客は勝手に周瑜の室まで入って来てしまっていた。
「孫策、君は……」
まったく、と苦笑しようとして、上手く出来ずに俯いた。
孫策は、椅子を一つ引き摺り寄せ、背もたれを前にして跨いで座った。
「……何で、あんなこと、した?」
孫策は、一音一音を区切るようにして周瑜に問うた。
周瑜は答えない。
分かっているだろう、と無言でいることでそう孫策に知らしめようと思った。
は、諸葛亮の息のかかった者なのだ。
天下三分と嘯くあの災いの男が寄越した、孫呉最大の障害になり得る女なのだ。
事実、孫家の男が皆あの女に陥落し、程度の差はあれ、あの女を得ようと細工に走る現状だ。
周瑜は、この孫呉を守り強大な国にしてみせると己に誓っている。
むざむざ、災いの種を芽吹かせ、花開かせることなど出来ようはずがない。
「そうじゃ、ねぇだろ?」
孫策の声は、何処か哀しげだ。
「俺が、大喬を放って、に入れあげる、それが嫌だったんじゃねぇのか?」
たったそれだけのことなんじゃねぇのか、周瑜。
諭すような口振りに、周瑜は苦く笑った。
何時もとまるで立場が違う。これでは、逆しまだ。
「……話は、もっと単純だ、孫策」
私が、諸葛亮の影に踊らされた、ただそれだけのことだ。
を打った時、そのあまりの抵抗のなさに愕然とした。自ら跳んだのかと言えば、そんなことはまったくない。壁へのぶつかり方を見れば分かる。
要するに……ただの無力な女を、鬱積からなる暴力で傷つけただけなのだ。
しかも、小喬の目の前で。
謝って済むことではないが、正直に言えば、に対しては未だそれほど罪悪感が湧かずにいる。
小喬の、あの呆然とした目がそんな周瑜を責め立て、詰っている。
それが、辛い。
「……君も、私を詰ってくれていいんだぞ」
「そんなこと、しねぇよ」
孫策は、不貞腐れたように己の腕に顔を埋めた。
「……、そんな悪い女じゃねえよ」
呟きは低く、まるで独り言のようだった。
「……そうだな」
対する周瑜の声もまた、小さく細かった。
いずれにせよ、周瑜がを傷つけた事実に変わりはない。
負い目が、更に大きくなった、それだけのことだ。
「なぁ、周瑜」
孫策が、不意に呼びかけてきた。
振り向いた周瑜の目に、顔の上半分だけを周瑜に向けた孫策の、怖いほど思いつめた顔が映った。
「……俺が、を諦めたら、お前、を……」
周瑜は、黙ったまま首を振った。
もう何もかもが、手遅れなのだ。孫策だけの問題ではない。孫家の、いや孫呉の男達の内の何人が、の歌声に囚われてしまったのか計りようもない。
何処かの言い伝えに、そんな話があったような気もしたが、周瑜は思い出せなかった。
周瑜が孫堅から呼び出しを食らったのは、宴の時間を少し回った頃だった。
緊急を要する、ということで、渋々と出向いた周瑜は、孫堅の隣でぶすくれてるの姿をみる羽目になった。
呼び出させたのは、どうもらしい。
幾ら過失があったとは言え、周瑜は呉の都督を勤める身である。他国の、しかも下っ端の文官に呼び出される謂れはない。
は、孫堅の隣からすたすたと周瑜に歩み寄ると、その前に立った。
周瑜は思わずむっと眉を顰める。
もまた、眉間に皺を寄せていた。その頬に、白い、大きな膏薬が貼られている。
その白さに、周瑜の頭の中が真っ白になった。焦って言葉を捜すが、何も思い浮かんでは来ない。
罪悪感が、ないわけではなかった。
ただ、目を背けて見ないように努めていた。
入牢を望んだのも、謹慎を望んだのも、結局は己の罪を認めるのが怖かったからではないか。
周瑜は、の頬に残る『罪』の『跡』に、改めて己のしでかしたことを悔恨した。
悪い女ではない、分かっている、だが、どうすればいいと言うんだ。
甘やかな歌如きで呉の者を尽く篭絡され、いずれは闘うことになる蜀との戦に響くようなことがあってはどうする。
そうなって、周瑜一人が頑なにを拒絶したとて、何にもならぬということくらい周瑜自身にも分かっている。
けれど、何か示してやりたかったのだ。
諸葛亮の策略にむざむざ乗るような気がして、我慢できなかったのだ。
最初から分かっていた。
が悪いわけではないことくらい。
手の内の柔らかな肉に、爪が食い込む。汗ばんで、ぬるりと滑る。
謝らなければならない。
無力なこの女を、勝手な思惑から傷つけたのだから。
「すいませんでした」
目の前のが、腰を深々と折り曲げ、頭を下げた。
一瞬。
周瑜は、眼前の光景に度肝を抜かれた。
呆けた。
何故、この女が謝っている。
「いや、ちょっと話の選択間違っちゃいましたね。まさかあんなに大泣きされるとは思わなくて。ホント、すいませんでした」
へこり、とまた頭が下がる。
茫然自失の態の周瑜に、孫堅は苦笑いした。
「……そういうわけだ、周瑜。は、如何してもお前が悪いとは認めんのだ。お前も諦めて、の詫びを受け入れるがいい」
いや、しかし。
周瑜は落ち着きなく孫堅との頬の白い膏薬を見比べた。
それで済んで、いいはずがない。
「いや、そりゃ、超いったかったですよ。もう、超、超超痛かったですね」
訳の分からぬことを言いながら、は顔を顰めて頬を撫でた。
「でも、もういい加減慣れました。あれでしょ、こっちの人って、女殴るの当たり前なんでしょ。いいです、もう」
そんなわけはない。ないが、今の周瑜にそれを言う資格があるわけがない。
席に着いていた甘寧が、何なら俺が代わりに敵討ちで殴ってやろうか、などと物騒なことを言い出した。
敵討ちの言葉に反応して、今度は殺気じみた凌統ががたっと立ち上がる。
「……あんた、どの面下げてそういうことが言えんだよ」
「お、やるってのか? 今日は、遠慮なく受けて立つぜ?」
慌てて呂蒙が止めに入り、陸遜が助力に走る。
今日に限っては何故か二人とも収まるところを見せず、騒ぎが徐々に大きくなっていく。
「止めなくて、いいんですか」
アレ、と指差し、周瑜殿が止めてくれるの待ってるんでしょ、とは事も無げに話す。
周瑜は眉間に皺を寄せ、を見下ろした。
「……私は、お前のことなど信用していない。何時かこの孫呉に仇なす者と信じている」
は眉を顰め、視線を床に落とした。
「だが、他ならぬ小喬が、お前を慕っている……私には、それを止める権利はない」
くるり、と背を向け、揉め事の中心に足を向けた周瑜が、僅かにを振り向き囁いた。
「すまなかった」
声は小さかったが、の耳には届いた。
は顰め面をして、周瑜の背を見送る。
視線を感じて振り返れば、孫堅が笑ってを手招いた。
面倒ではあったが、のろのろと孫堅の元に引き返す。
「……何ですか、今日は歌もおしゃべりもお酒のご相伴もいたしかねます、と先刻申し上げたはずですが」
「酌くらいはできるだろうと、先刻そう答えたはずだが」
憎たらしい口をきく人だな、とは内心けっと唾吐き息巻いた。
「お前が昨夜戻らなかったせいで、俺は尚香にさんざん油を絞られたのだぞ。周瑜にあれだけ寛容な態度を見せるならば、俺にも少しはお零れを回してくれてもいいだろう」
それとて、元はと言えば孫堅が甘寧に命じたせいではないか。
自業自得です、と素気無く答えると、何故か孫堅は嬉しげに目を細めた。