蜀から船が来たと言う報せを聞いて、は浮かれっぱなしだった。
 呉の水軍が荷を改め、護衛と称して見張りながら移動するので、到着までは今しばらくかかるはずだ。
 けれどは、孫堅との会食の間も、尚香や二喬相手の話相手の時も、もちろん宴の間も、船はまだか船はまだかとそればかりを気にしていた。
「……そんなに、蜀の船が来るのが嬉しいのですか」
 たまらず陸遜が尋ねると、は勢い込んでうん、と答えた。
 薮蛇だ。
「だって、当たり前だけど別に水軍が来たって訳じゃないでしょう。そしたら、たぶん物資か何か運んできてくれたってことでしょう」
 何か不自由な思いでもしているのかと、陸遜は戸惑いながら問うた。入用なものがあるなら、自分が届けてもいい。むしろ、そうさせて欲しいと申し出ると、はきょとんとして首を傾げた。
「や、よくしていただいてますし、足りないものなんかないですよ?」
 欲しいのは、蜀の話だと言う。
 がいない間の蜀の話を聞くのだといって、はにこにこと笑った。
 たかだか一月か二月余りのこと、それだけの間に蜀の地で何が起こったとも思えない。
 陸遜が何故か不貞腐れているのも、今のには目に入らないのだろう。鼻歌など歌っている。
「そんなに、蜀がいいのかよ」
 甘寧の声も何処となく不機嫌だ。だが、やはりは気にも留めない。うん、と大きく頷くと、高鳴る鼓動を抑えるように胸を押さえた。
「蜀はね、すごく綺麗なところなんだよ。お頭にも見せてあげたいなぁ」
 が甘寧に親しみを込めてお頭と呼ぶのを、最初は皆が仰天したがすぐ慣れた。
 余談だが、凌統だけはが『お頭』と呼ぶ度に生真面目と言っていいほどに、必ず憎々しげな視線を送って寄越す。今も、横目でじろりとを睨みつけているのだが、本人は浮かれている為気付かない。
 あー、何かもう懐かしいな、とは顔を綻ばせた。
「ここに来る前ね、連れて行ってもらった場所があって……そこがまた、すごく綺麗なところでね、覚えていて下さいって言われて。忘れられないなぁ、帰ったらもう一回、あそこに行きたいな」
 連れてってくれるかな、忙しいからなと独り言を繰り返す。
「……誰に、連れてってもらったって?」
 甘寧の目が険しい。傍で話を聞いていた呂蒙が、これはいかんと密かに身構えるほどだ。
 哀しいかな、はまったく気がついていない。
「うん? あ、姜維って言って、孔明様の……諸葛亮様の秘蔵っ子の子でね、まだ若いけど、腕も立つし頭もいいし、すごくいい子なんだよ」
 今度は、陸遜の目が剣呑になる。
「……そうですか、諸葛亮殿の……」
 殺気立つ陸遜を見て、呂蒙は慌てての手を引いた。
 は、きょとんとして呂蒙を振り返り、その杯に酒を注ぐ。
 話の続きだと言わんばかりに甘寧と陸遜のところに戻ろうとするので、呂蒙は慌ててを引き留めた。
「う、歌、そうだ歌だ。何か歌ってくれ」
 何か楽しい歌を、と注文を出すと、呂蒙殿は勇猛な歌がお好きなんだと思ってましたよ、とが笑う。
 勇猛な歌も確かに好きだ。
 けれど、やはり他の男達に歌うように、俺にも甘い恋の歌を歌ってくれてもいいのではないか。
 口には出せないから、呂蒙は渋い顔をしながら杯の酒を煽った。
 苦労の割に報われない。いつものことであり、不平不満を言うつもりもない。
 焼けた息を大きく吐き出すと、何も知らないが酒壺を差し出す。
 は、呂蒙の杯を再び満たしてやると、酒壺を置き、呂蒙の卓から少し離れて立った。
 呂蒙に向け、にっこりと笑い掛けると、リズムを取って歌いだした。
 明るい調子の、恋の歌だった。
 伸ばされる腕も、見つめる瞳も、今はすべて呂蒙に向けられている。
 報われないわけでも、ないか。
 呂蒙は、照れ臭さから顎に生えた無精髭をざらりと撫で上げた。
 そして考えに耽る。
 を口説き落とせと大殿が命じた。旗下にある以上、命には従わなくてはなるまい。
 何故大殿がここまでに執着するかは分からない。けれど、それを差し引いて考えても、の声や歌は耳に心地よい。
 手放したくないと言えば手放したくない。
 いや、本当に、それだけか。
 船が、来ているのだ。蜀の船が。
 は、それに乗って帰ってしまうかもしれない。
 そう考えた途端、呂蒙の腹の底からじゅくり、と何か薄気味の悪い粘り気のあるものが沸き溢れ、落ち着かなくなってきた。
 甘寧や陸遜を伺うと、似たような表情を浮かべている。
 これか。
 二人が腹の底に感じているだろう汚濁の感触に、呂蒙もひっそりと眉を顰めた。
 何故、蜀なのだ。何故、呉ではいけない。
 が望みさえすれば、国を挙げて歓待するだろう。その才故に。
 周瑜ですら、最早何も言わないに違いない。その寛容さ故に。
 求める男は、全て唯々諾々としてのものになるだろう。君主、孫堅の命故に。
 呉でならば、は望む限りのものを手に入れることができるのだ。ただの下っ端文官としてではなく、歌姫として、才ある女官として、最高の栄誉を迎えられるだろう。
 何故、蜀なのだ。
 あの地で、どれだけの歓待を受けたかは知らない。けれど、与えられたのは文官としての職と一枚きりの装束だけではないか。
 呉では、ここでは駄目なのか。
 大切にする……きっと、誰より……どんな女よりも……。

 はっと気が付くと、とっくに歌い終えたが不思議そうに呂蒙を見つめていた。
「お気に召しませんでした?」
 まさか、のことを考えるのに夢中になっていたとも言えず、呂蒙は顔を赤らめて小さく詫びた。
 は気にした様子もなく、二の腕にあるかなしかの力瘤を作って見せた。
「やはり、呂蒙殿には勇ましい歌でないと!」
 頼みもしないのに歌いだしたは、にこにこと笑いながら呂蒙を見ている。
 蜀に帰れるのがそんなに嬉しいか。
 口元に無理やり笑みを貼り付けて、呂蒙は複雑な思いを覆い隠そうと努めた。

 孫策は、ぼんやりとを見つめている。
 呂蒙の苦い笑みを見て、ああ、こいつもか、と投げ槍に考えていた。
 良く見てみれば、皆のを見つめる目が熱っぽい。
 孫権も、甘寧も、そして呂蒙も、じっとを見つめている。
 太史慈に目を遣れば、こちらを見ていたらしくはっとして目を背けた。
 周瑜はどうなんだと横を向けば、何事かと見つめ返してくる。
「何だ、孫策。私の顔に何か付いているのか?」
 至って真顔で尋ねてくる周瑜に、孫策はぶっきらぼうにうんにゃ、と答えた。
「そういや、お前、に歌ってもらったこと、ねえよな」
 突然の指摘に、周瑜は孫策の意図を測りかねながら首を傾げた。
「まぁ、そう言われればそうだが……この広間にいる限りは何処に居ても耳には入る」
 だから必要ない、と付け足し、周瑜は不意に表情を曇らせた。
 孫策が不思議に思って問うと、苦笑して僅かに髪を揺らめかせた。
「……彼女は、私のことを嫌っているだろうから」
 嫌われて当然のことをしてきたし、今も態度を崩してはいないつもりだ。今更好まれようなどとは思わないし、強制するつもりもない。
 孫策は、周瑜の顔をじっと見つめると、突然立ち上がった。
!」
 呼ばれて、が振り返る。
 周瑜は慌てて孫策を制する。何を言うつもりかと問い詰めたい気持ちでいっぱいだった。
 何も知らずにがとてとてと歩いてくる。
 孫策は、偉そうに腕組みをしたまま、周瑜を指した。
「周瑜に、何か歌ってやってくれ」
 がきょとんと周瑜を見る。あまりのことに頭を抱える周瑜に、は孫策に目を向け直した。
 孫策は立ったまま、うむ、と強く頷く。
 何のことかは分からなかったが、とにかく歌えばいいようだ。は、何を歌おうかと少し考え、軽く息を整えた。
 強く、切ない旋律が響く。
 緩急をつけたその声は高く、その詞は静かながら激しかった。
 周瑜が呆気に取られる。
 呆れたわけではない。旋律に呑まれていた。
 詞が言葉となり、言葉が言霊となって周瑜の胸に刻まれる。
 心臓が脈打つような感覚と共に、歌が体の奥に流れ込んでいった。
 やがて、最後の一音を長く静かに引き、歌は途切れた。
「……おしまいです」
 へこ、と頭を下げるに、周瑜は何と言っていいのか言葉を見つけることができなかった。仕方なく、ただ頷くだけ頷くと、困ったように孫策を見上げる。
 孫策は、にっかり、と久し振りに見せるいつもの笑みを浮かべた。
 その笑顔に、周瑜は冷静さを取り戻した。
「……何故、その歌を私に?」
 いつも、本当は訊いてみたかった。何故その歌を選ぶのだろう。数多の歌を知っているのだろう、その中からそれを選ぶのは何故なのか。
 理由などない気もしていたのだが、意外にもはすらっと答えてくれた。
「この歌、周瑜殿っぽいから」
 小喬が飛び上がってを呼ぶ。
「大姐、私にも! 私っぽい歌、歌って!」
 隣で大喬が、頬を染めてを見つめている。大喬も、自分にも歌って欲しいと目で訴えていた。
 は苦笑して、だがはいはいと二人の下に向かう。
 残された周瑜は、面映さに頬を赤らめ、杯を煽った。
 遠くから、軽やかな旋律が聞こえてくる。小喬らしい、明るい歌だ。
 どかっ、と勢い良く孫策が腰を下ろす。
「……、お前のこと嫌ってねぇだろ?」
 にっと笑いかけてくる孫策に、周瑜はぶつぶつと口の中で文句を呟いていたが、重ねて言われ、渋々と認めた。
 嫌っている人間に対して、少なくともあなたのようだと言って歌える歌ではなかった。おべっかとも思えたが、周瑜自身が何故か納得してしまうような、そんな歌だった。
「私っぽい、か」
 周瑜の呟きを聞きつけ、孫策が人懐こい笑みを浮かべて顔を近付けてくる。
 それを手で押し退けながら、誰にも渡したくないと言っていたくせに、何ともお節介焼きな乳兄弟だと苦笑した。
 もし、私が――考えかけて、周瑜は考えそのものを凍結させた。
 あってはならないことだと思った。

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