が目を覚ますと、既に外は明るかった。
慌てて飛び起きる。仕官してからは、夜明けとはいかなくても、それに近い時間に起きるように心掛けていた。以前は昼近くまで寝てしまっていたが、仕事だと思えば体も納得して眠りから覚めてくれる。
昨夜の酒が過ぎたのかと、頭に手をやろうとした時だった。
何も着ていない。
裸だった。胸の膨らみを真上から見下ろし、少し鳥肌が立った白い乳房に、青い静脈が微かに浮いて見えた。は、まだ夢でも見ているのかと自分の乳房を繁々と観察した。
覚醒は突然訪れた。
「な、に?」
身動ぎした瞬間、眼前の乳房もふるりと揺れた。
のわっとおかしな悲鳴を上げ、辺りを忙しなく見渡す。自分のいる牀の下に、乱雑に落ちた下着や着物を発見して、さっと引き上げる。
うぐぅ、うごぉ、と呻きながら着物を身にまとい、帯を締めてようやく一心地ついた。
酔って熱くなり、脱いでしまったのだろうか。それにしても、ここまで豪快に脱がなくてもいいではないか。昨夜は、そんなに呑んでしまったのだろうか。
そこまで考えて、は、昨夜の記憶が途中からすっぱりと途切れていることに気がついた。
「え……」
どう考えても、孫堅に何杯も酒を注がれたところまでしか覚えていない。何を話していたかもあやふやだし、そもそもどうやって室に戻ったのかすら覚えていない。
冷や汗がたらりと垂れた。
頭の片隅で、ずきんずきんという音が響く。頭痛と言うよりは、音そのものがうるさくてたまらない。思い出そうとすると、音が大きくなってイライラした。
思い出せない。
酒を呑んで記憶を失くすという経験がなかったは、記憶がないというのが、まさかこれほどおっかないものだとは思っていなかった。落ち着かないのだ。意味もなくおたつく。
思い出さなくてはと焦れば焦るほど、記憶は霧の彼方だ。すっぱり何にも思い出せないというのではなく、確かにそこに記憶の箱があるのだが、何処を如何すれば開くのか分からない。
うわぁうわぁと意味なく吠える。思い出せないで済ませられない。昨夜は、あの孫堅の隣にいたのだ。何かしでかしたのだろうか。しかし、それなら割り当てられた室ではなく、牢屋に繋がれているのではないか。裸だったのも引っ掛かる。
どうしても思い出さずにはおられない。けれど思い出せない。ジレンマに陥って、はうんうん唸っていた。
「がっ」
仕事があるのをすっかり忘れていた。髪を手で撫でつけ、目元を擦る。水場が何処にあるか分からないので、急場しのぎだ。仕方ない。
外に飛び出し、慣れない廊下をひたすら曲がりくねる。半ば迷いながら室に飛び込むと、王埜が墨をすっているところだった。それは、の仕事でもある。
頭を下げて詫びると、王埜は笑いながら許してくれた。
ほとんどすり終わったようだったが、せめてもとは残りの墨すりに加わる。
「昨夜は大変だったみたいだな」
墨をすり始めたの手が、ぴたりと止まる。
「た、大変……」
王埜が、不思議そうに振り返る。
「何だ、ひょっとして覚えていないのか?」
いきなり図星指されて、は呻き声を漏らす。
「まさか、本当に覚えていないのか?」
王埜もぎょっとして墨すりの手を止める。昨夜の宴には、呉の御大と言われる文官や武官がこ
ぞって参加している。そこで何かしてしまったとあっては、蜀と呉との同盟に何がしかの悪影響がないとは言い切れない。
「……何も、してないよな……?」
そこが分からないから悶々としているのだ。
は無言で墨すりを始める。力を入れ過ぎて、がりがりと嫌な音がした。
やっぱり気になる。
恥を忍んで、誰か、宴会の列席者に聞いてみるのが一番早い。
それならば、趙雲に聞こうとは席を立った。上司である馬良なら、しばらくすれば姿を見せるはずだが、馬良とはまだ馴染みが薄い。申し訳なさと恥ずかしさがあいまって、どうにも聞きにくかった。王埜には申し訳ないと思ったのだが、逆に早く行って確かめて来いと送り出された。王埜も気になるらしい。
今の時間なら朝餉でも食べている頃だろうか。それとも、劉備と共に呉の誰かと会っている頃だろうか。私室で寛いでいるのに付き合っているかもしれない。
悩んで、とりあえず劉備の私室に当てられた室に向かった。誰か残っているだろうし、残っていれば何がしか伝言なりを託せる。
本当に、何したんだろう。
記憶がないのは不安だったが、逆に記憶がないので大して深刻にもなれない。
てれてれとだらしなく歩いていると、曲がり角で誰かにぶつかりかけた。
寸前で回避できたが、赤い色が視界を染めて、一瞬孫策かと見間違った。孫策の衣も、ほぼ赤一色なのだ。
「……ふぅ、危ない危ない」
凌統だった。
「何処に行くんだい?」
あんまりうろうろしていると、間者と間違えられて斬られるよ、と物騒なことを言う。
どちらかと言えば、それは凌統に当てはまるのではないだろうか。呉の領地、孫堅の屋敷内とは言え、ここは蜀の、劉備の為に割り当てられた建物である。がふらふら迷えるのも、その気安さがあってのことだ。
「小用がありまして」
第一印象があまりに悪く、凌統にはつんけんと対応してしまう。
凌統も自覚があるのか、苦笑するだけだ。
の性質で、引いて応じられると自分の怒りもすっと引いてしまう。
態度、悪すぎたかなと反省して、謝ろうかと口を開いた。
「ホントのこと言われると、やっぱり傷つくもんだしね」
悪かったね、と先に謝られた。謝ってくれてはいるのだろうが、無性に腹がたつのはいったいどうしてなんでしょうか。
無言で凌統の脇をすり抜け、どすどすと足音も高く歩く。
「あ、ちょっと……」
何故か凌統が着いてくる。
「ちょっと、待てって」
しばらく返事もせずに歩いていくのに、凌統はしつこく着いてきた。何か用でもあるのかもしれないと、いい加減にしようと自分を戒めて立ち止まった。凌統とて呉の重鎮の一人だ。ゲームの印象が強過ぎるせいか、どうもおざなりに扱ってしまっていけない。
「何か、御用ですか」
凌統の顔が、一瞬きょとんとした。用、あぁ用ね、とぶつぶつ呟いている。
「いや、何処に行くのかしらないけど、迷ってるなら案内してやろうかと思ってさ」
あんたよりはこの建物詳しいよ、と言われ、図星なのでまた腹が立った。
「大丈夫です、一人で何とかしますから」
いかんなぁと思いつつ、どうしてもつんけんするのが止められない。
参考までに、と前置きされて、何処に行こうとしてたか尋ねられた。逡巡の挙句に劉備の私室へと白状すると、凌統は思い切り吹き出した。
「それ、逆」
は、顔を真っ赤にして、無言で踵を返した。大股の早歩きになってしまうのは、この際どうしようもない。ただ、凌統のコンパスの方が長過ぎて、がいくら早く歩いても易々と追いついてくる。
「あのさ」
の不躾な態度に怒るでもなく、不意にの真横に並んだ凌統は、独り言のようにに話しかけてきた。
「中原一ってのは、ちょっと大げさだと思うけどさ」
凌統の言わんとするところが分からず、はちらりと凌統を盗み見た。心なしか顔が赤い気もする。
何だ、また何か言う気か。
こと凌統に関しては、すっかり警戒が先に立つようになってしまった。
「結構、上手かったなって。昨日、聞いててさ」
昨日。
の足がぴたっと止まり、凌統は勢いでの先を行ってしまった。
「き、昨日……何を聞いたって?」
敬語がタメ語に変わっているのも、は気がついていなかった。
凌統は、の様子がおかしいことに首をひねりながら、の前に立った。
「……まさか、覚えてない?」
う、と唸ったまま言葉を失くす。肯定したも同然だ。
凌統は、呆れたようにの顔を覗き込んだ。
「まぁ、結構呑んでたみたいだったしね……あんた昨夜、大殿の横で、歌うたってたんだよ」
の体が、見えないものに弾き飛ばされるかのようによろめく。
倒れる寸前、柱にがっつり掴まるが、足元が覚束ないのかずるずると崩れ落ちる。
「……嘘っ」
目を見開き、わなわなと震えている。冗談でなく、本気で打ちのめされているようだ。
「……嘘言ってどーすんだっつの」
凌統としては、別に大殿も喜んでいたし、他の面々も感心するやら面白がるやらで、悪くはない反応だった。何もそこまで衝撃を受けなくてもいいではないかと思うのだ。
どうだった、良かったか、と聞いてくるかと思ったのだが、歌を歌ったと言っただけで戦で拠点が落とされたかのように激しく落ち込んでいる。
「……死にたい……」
恐ろしいことまで言い出すので、凌統はまったく理解が出来ず、軽くパニックを起こした。
「ちょ、つったって、みんな喜んでたっつーのに何で」
南方では、人前で歌うのは自刃しなければならないほど恥になるのか、などと推測もしてみるのだが、その推測自体が納得できるものではない。
歌が歌えるのは特技なのだ。人が聞いて喜ぶほどともなれば、尚更だ。何を恥じる必要がある。
「……じゃ、じゃあ、私が裸で寝てたのはっ?」
慌てているところに突拍子もないことを言われ、凌統は完全に虚を突かれた。
が宴の広間から抜け出した時は、きちんと服を着ていた。脱がされたというならその後だろう。
誰だ。
を連れ出した、あの男だろうか。
そこまで考えて、凌統ははっとした。脱がせられたとは限るまい、何を熱くなっているのか。照れ隠しのように吐き捨てる。
「……熱くなって脱いだんじゃないの」
そうかなぁ、とうんうん唸っている。疑惑があるないではなく、記憶がないので確信が持てないのだろう。
「つか、普通分かるもんじゃないの? 何かされたんならさ」
「分かるもんなの?」
逆に聞き返されて、凌統は返事に詰まる。
俺に分かるわけないっつの。
胸の内で悪態をつき、凌統は歩き出した。
「ホラ、劉備殿のところに行くんだろ」
ところが、は軽く手を振り、もういいと言って立ち去ろうとする。
「何」
呆気に取られていると、もさすがに悪いと思ったか、昨夜何をしでかしたか知りたかっただけだから、と詫びてきた。
そんなことを一々君主に訊きに行くのか。
蜀のお国柄が分からない。
気持ちが顔に出たのか、が慌てたように、劉備ではなく趙雲に会いに行くつもりだったのだと言い訳し始めた。あまりに慌てているのも何故か凌統には腹立たしい。
「何、あの趙雲とかいう奴、あんたの情人か何かなわけ」
の顔が赤くなり、更にごちゃごちゃと言い募る。言いがかりだと怒るわけでもなく、が一方的に思いを募らせているだけだというようでもない。
できている、と直感した。
男付きで敵国にやって来るなんざ、いいタマだよ、まったく。
「うー、まぁいいや、ごめん、ありがとね」
したっと手を挙げ、立ち去りかけたが、ぐりんと180度回頭して戻ってくる。何だ、と凌統が目を点にしていると、は拝むように目の前で手を合わせた。ぱぁん、と勢いのいい音が鳴る。
「……すいません、敬語使うの忘れちょりましたぁ!」
がばっと頭を下げて寄越す。すいませんすいませんと、謝るたびに頭が低く垂れ下がる。
何がなんだか分からない。
若殿は、この女のこういう所は、ちゃんと分かってて惚れたんだろうね。
他人事とは言え、未来の君主の選択眼に多少の不安を覚える凌統だった。