毎晩のように執り行われている宴ではあったが、今宵は少し趣が変わっていた。
 上座に劉備、その横に尚香、背後に趙雲という位置取りは変わらなかったが、横一列に並べられた卓の先頭に姜維が掛けていた。
 そして、姜維の後ろには新しい緑の装束を纏うの姿があった。
 には席が与えられていたはずだ。何故姜維の後ろにいるのか。
 未だ事情を把握し切れていない周瑜は、真相を察しようとばかりに目を凝らした。
「……なるほど、船が、な……」
 不信感を滲ませた声で、孫堅はおざなりに相槌を打った。
「はい、嫁取りのご挨拶にと新たな船を造営したまでは良かったのですが、重大な欠点があることに気がつきまして。我が君主のみならず、大事な嫁御を危うい船に乗せてしまったことを丞相は酷く気に病んでいらっしゃいました。お帰りの報がないのは、よもや船が沈んでしまったからではないか、などと仰られる程で、私が直々に命を受け、こうして新しい船を用意してまいりました」
 さり気なく嫌味を取り混ぜ、姜維は孫堅の問いにはきはきと答える。
 宴の場ゆえに座したまま、その上二人の席が離れているもので、自然に声は大きく広間中に聞こえるものとなる。
 茶番だな、とは内心溜息を吐いた。
 姜維がこの城に着いた時点で、孫堅と劉備を含む高官同士で事情説明が執り行われていたはずだ。
 改めて話すのは、呉の家臣達に、蜀には何の後ろめたいところはないという意思を示しておきたい、と言う意図あってのことなのだろう。
「事が事ゆえ、連絡に手違いが生じたようです。重ね重ね、申し訳ありませぬ」
 立ち上がり、深々と頭を下げる姜維に、孫堅は手を挙げて応える。
「なるほど、事情は理解したが……これにて退散などという無粋な真似、よもや臥龍がするとは思えんが、如何に」
 ストレートな物言いに、けれど姜維は怯みもせず、にっこりと笑って答えた。
「それは無論。こうして船を連ねて参りましたは、代わりの船、お詫びの品を持参するのが主たる目的とは言え、我等蜀の臣に賄いを届ける為でもあります。ただでさえ呉の皆様方には、我等蜀の臣下にまでもてなしを賜っておりますものを、これ以上は心苦しい、けれど飛び去る水鳥の如くの帰路では嫁御にも心名残、今しばらくは別れを惜しんでいただくよう、丞相からきつく言い含められておりますゆえ」
 要するに、持ってきた食糧がなくなるまでは厄介になるけど、それがなくなったらさっさと帰るから、ということらしい。
 でも分かるくらいだから、これでも明瞭な方だろう。政治の遣り取りとは、かくも難儀なものなのかとは頭が痛くなってきた。
 頭が痛いといえば、孫策がずっとこちらを睨んでいるのも頭が痛い。
 ここのところしばらく、落ち込んだように思い悩んでいるのは知っていた。蜀の船が来たと急報が入った晩、周瑜に歌を歌えと言ってからは、だいぶ元気を取り戻したように見えて安心したのだが。
 かなり苛ついたように睨みつけている。
 対象がではなく、姜維なのもありありと分かる。
 また、姜維が孫策の視線にいちいち笑顔で応えるのがたまらない。
 孫策の怒りに油を注ぎまくっている。むしろ、ガソリンぶちまけているような感じだ。
 孫堅との話が一区切り着いたの見て、孫策が椅子を蹴って立ち上がる。
 隣に腰掛けていた周瑜は、もう諦めの境地に達したらしい。額を押さえて俯いた。頭痛を感じているのだろう。にも周瑜の気持ちが良く分かった。
 も頭が痛かったからだ。
 孫策は、まっすぐ姜維の元に歩いてくる。
「お前」
 姜維の卓の前にずい、と立ち塞がり、姜維を見下ろす。
 憤りのせいで、かなりの威圧を発しているのだが、姜維はまるで動じず口元に微笑を浮かべている。
 立ち上がると、孫策に向け深々と頭を下げた。
の、何なんだ」
 どうにも直接的な問いに、は身を捻って渋くなる表情を隠した。
 姜維は、にっこりと極上の笑みを浮かべた。
「何、とは、何のことでしょう」
 孫策のこめかみに、びきりと血管が浮き出す。
 は、普段は信じない神に心から祈った。
 何とかしてぇ――――――っ!!
「……お前、ふざけてんのか?」
 孫策の指がわきわきと蠢いている。腰に下げたトンファーに、今にも伸びていきそうだ。
 姜維は、如何にも困った、という顔をして小首を傾げた。
「立場で、ということでしたら、私は殿の上官となります」
 そうなのだ。
 姜維は、諸葛亮からの任免状をも携えてやって来たのだ。
 中には、『馬良配下及び他の全ての役職から解き、姜維の副官を任ずる』とあった。
 馬良はともかく、他の全てとあるのは、が他の役職を任じられていることをあらかじめ計算していたということだろう。現段階で、名目だけとは言え確かに尚香付きの女官に任じられていたから、余計な混乱を招くことなく姜維の副官に就くことが出来る。
 しかし、何処まで空恐ろしい男なのだろう、諸葛亮という男は。
「それ以外なら何だってんだ」
 孫策は、今にも噛み付きそうな勢いで姜維に食って掛かる。姜維がまったく動揺しないことに、は姜維が諸葛亮の秘蔵っ子たる所以を改めて実感していた。
 姜維の手が、己の胸元に差し伸べられる。
「この方寸は」
 清廉な微笑みは、姜維の大人になりきれない純粋な色を濃く映し出す。
殿に捧げております」
 方向に歪みが生じていたが。
 何一つてらいのない姜維の言葉に、孫策も呆気に取られて立ち尽くす。
 姜維は、賢いがすれてはいない。それどころか、母親の女手一つで育てられたせいか、男にありがちな見得やくだらない体裁など一切気にしない。
 そうだと思えば素直に口にするし、嘘やおべっかは使わない。口に出す言葉は大袈裟な嫌いが
あったが、それも許容範囲といえば許容範囲だ。何となれば、姜維は心の底からそう信じて疑ってないからだ。
 そうなんだ、姜維ってそういう子なんだよね……。
 突然捧げられた姜維の方寸の重みに、は肩をがっくりと落とした。
 孫策は、最早姜維の相手などしておれんと見切りをつけたのか、今度はに噛み付いてくる。
「おい、こいつのこたぁ、俺、知らねぇぞ!」
 如何いうことだと詰め寄られても、何と答えて言いか分からない。
 そもそも、何で孫策に告白された相手を逐一報告しなくてはならないのだろうか。
 知らねぇ、はこそが孫策に言ってやりたい言葉だった。
「孫策殿、姜維」
 見かねた劉備が口を挟む。
 だが、孫策はそんな劉備にまで噛み付いた。
「こいつ、他に男何人いるんだよ!?」
 ちょ。
 その言い方では、まるでが何人もの男を食い物にしているようではないか。
 思わず手を浮かせると、姜維が振り返る。
殿は魅力的な方ですから、蜀でも何人もの求婚者が、殿のお帰りを今か今かとお待ちになっておられます」
 清冽な笑顔で、お前、何てこと言ってやがる。
 絶句するに、止めとばかりに姜維が言い募る。
「丞相も、月英殿が居られなければあるいは……と仰られてました」
 どれだけ私が安心したかと胸を撫で下ろす姜維に、は、私が安心できなくなりましたと胸の内で喚き散らした。
 あの諸葛亮の名を出され、孫策もぎょっと目を剥く。どうも、苦手な類の人間らしい。
 諸葛亮と話すのが気兼ねなくて大好き、という人間は、そう多くはないだろう。この時ばかりは、も孫策に深く同意した。
「ほら、兄様もちょっと落ち着きなさいよ……折角の宴が、変な雰囲気になっちゃったじゃない」
 尚香が夫に助け舟を出し、何とか場の空気を変えようとする。
 そう言えば、と姜維が思い出したようにを見つめる。
殿は、歌がお上手だそうですね。こちらで歌われて、それが大層評判だとか。私にも一曲、歌って下さいませぬか」
「……え」
 姜維はの上官なのだから、命令には従おう。だが、慣れた呉の面子の前ならともかく、姜維の前で歌うのは気が引けた。姜維は、をそれこそ天女か何かのように扱ってくる。の見得が、姜維にはイメージダウンされたくない、と心臓の辺りをちくちく突付いてきた。
「いや、あの……上手くないし……」
 何時になくもじもじとするに、甘寧などは驚き目を見張っている。
「駄目でしょうか」
 がっかりと肩を落とす姜維に、は慌てる。
「駄目ってわけじゃなくて、ただ、伯約に聞かせるほどじゃないっていうか」
 おろおろとうろたえるの頬は赤く染まり、字で姜維を呼び捨てるに、孫権が眉を顰めた。
 聞きたいのです、と真摯な眼差しをに向ける姜維に、はぐずぐずと躊躇いを見せながらも、根負けしてこくりと頷き了承した。
「どんな歌を聞きたい……です?」
 は、中原の歌は何も知らない。だから、どんな感じの歌がいいか言ってもらって、それに合わせて歌うようにしているのだと姜維に説明した。
 その説明がまた馬鹿馬鹿しく思えて、は、恥の上塗りだとますます顔を赤らめた。
 姜維はしばらく考えて、ににっこりと笑みを向けた。
「恋の、歌を」
 できれば、女性が男を慕って想う歌を、と続けられ、は困惑したように立ち竦んだ。
「駄目でしょうか」
 姜維の目が、優しくを見つめる。
 目で物を言う、などと言うが、今の姜維はまさしくそれだった。
 貴女が、が愛しいと雄弁に語っていた。
 顔が熱くなり過ぎて、眩暈を起こしそうだった。は、一度目を閉じ、深呼吸すると気持ちを落ち着かせた。
「……じゃあ、歌い……ます」
 普段であれば、頼まれた相手の前方に回りこむのだが、姜維の前に立つ勇気はとてもなかった。
 姜維の背後に立ったまま、歌を紡ぐ。
 君を追う、世界が滅びても、君が何処に行っても。
 背後から響く情熱的な詞に、姜維はうっとりと目を閉じた。
 あからさまと言えばこれほどあからさまな行為もないだろう。
 好きな、想いを寄せる女に、恋い慕っていると歌わせる。
 自慰にも似た行為は、だからこそ呉の誰にも出来なかった。しようとも思わなかった。
 嫉妬めいた感情が、姜維に、またに向けられる。
 呉の臣達から肌が粟立つような不気味な気配を感じて、趙雲は密かに危機感を覚えた。
 諸葛亮の策がどんなものなのかは想像もつかない。
 だが、その中心にがいるのは間違いないのだ。
 いったい何を、と趙雲は一人歯噛みした。
 姜維だけが、この宴の間で唯一心穏やかに在った。

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