額を寄せ合って話をする二人が、不意にくすくすと笑い出す。
 笑いさざめき、また額を寄せて話し込む。
 笑う。
 話す。
 繰り返し繰り返し同じことをしているというのに、飽きるということを知らないかのように話し込んでいる。
 開け放たれた窓から見える光景に、孫策は不機嫌そうに口元を歪めた。
 なまじっか、視力がいいからいけない。
 同盟国とは言えいずれは敵に回るだろう一団を、見張りやすいように設えられている屋敷と庭の作りがいけない。
 孫策は、横に太く張り出した枝に寝そべりながら、ぼーっとと姜維を見ていた。
「何をなさっておいでです、兄上」
 下を見遣れば、孫権が不思議そうに孫策を見上げていた。
「いい天気だなぁ、権」
 明け方まで降っていた雨が止み、薄い雲がかかっている他は久し振りの良い天気と言えた。
 孫権は、訝しげに首を傾げる。
 孫策が天気を気にするような男ではないと知っているからだ。
 無茶なところがある孫策は、雨だろうが雷だろうが、出て行きたい時には出て行き、眠っていたい時には眠っている。
 兄が向いていた方を向けば、蜀の一団が寝起きする屋敷がある。
 何となく察して、孫権は再び兄を見上げた。
 後悔はすまい、と心に決めている。
 けれど、兄の愛おしむ女には、何と多くの男が気を取られていることか。
 蜀から新たに来た男は、年も若く未だ未熟な、少年の気配を色濃く残している。けれど、あの女はこれまでに見せてきた様々な表情とは、また別の表情をその男に向ける。
 特別な感情を寄せているのかと気を揉むのも、致し方ないと自然に思えた。
 何となれば、孫権自身がそう思っていたからだ。
 孫策は、蜀に貸し与えた屋敷に向けていた視線を、ひょいと孫権に向けた。
「なぁ、権」
 はい、と答える。
 敬愛する兄の言うことは、大概聞いてきた。それが、孫権のことを思いやってのことばかりだったし、兄が自分の為に気を使ってくれるのは、素直に嬉しかった。
「お前、のこと本気で好きなら、ちゃんと狙えよ」
「……それは出来かねます、兄上」
 今度ばかりは、聞けないと思った。
 兄が、孫策がどれほどを愛おしんでいるか、孫権は知っている。
 その女を好きになってしまった自分が愚かなのだ。これ以上の愚行は、耐え難い。
「駄目だ、ちゃんと狙え」
 孫策は、そんな孫権の気持ちを拒絶した。
「お前がホントに好きなら、ちゃんと狙え。それでがお前を選ぶなら、その時は俺もきっぱり諦める」
「……出来ません、兄上」
 声が、僅かに動揺して震えていた。
 許してくれさえすればいい。いや、許されなくても、誰かに讒言として気持ちを暴かれるよりは、自分で言ってしまおうと保身したのかもしれない。
「駄目だ」
 不意に。
 孫策が、にっと笑った。
 いつもの、何の飾りもない、誰もを魅了する笑顔だった。
「じゃねぇと、俺も本気でお前を蹴飛ばせねぇだろ?」
 は、と間抜けな声を孫権が上げる。
 孫策は、孫権の間の抜けた顔を見て、げらげらと笑った。
「お前が変な遠慮するから、俺まで変な遠慮しちまったじゃねぇか。いいかぁ、権。あの女は、未だ誰のもんでもねぇ。分かるな?」
 あの女は、未だ、誰のものでもありません。
 周泰の言葉が蘇る。
「好きなら、本気出せ。俺だって、別にお前に譲ってやるつもりなんか全然ねぇ。けど、お前が変な遠慮してると、俺まで調子狂っちまう。だから、本気出せ」
 俺は、あの女を蜀に返してやるつもりはねぇ。
 目をきらきらさせて笑う。
 ああ、いつもの兄だ。
 孫権は、釣られるように笑みを浮かべた。
「あの、姜維とか言う野郎、女みたいな面してやがる癖になかなか強かだろ。あの、諸葛亮の手下だって言うじゃねぇか。本気出さないと、マジでやべぇ。だから、お前もいい加減遠慮すんのやめろ」
 いいな、分かったな、と念押ししてくる。
 はい、と答える。
 よし、と笑った。
 孫策と孫権の、いつもの遣り取りだった。
 反動もつけずに枝から滑り降りてきた孫策は、孫権の前でくるりと体を反転させ、膝を屈めて着地した。
「おし、権、いいこと教えてやる!」
 耳貸せ、と手招きされて、耳をそばだてる。
 孫策は、如何にも重要な秘密だと言わんばかりに辺りを警戒し、孫権の耳にそっと囁いた。
「あの女、耳が弱ぇ」
 しばらく、孫権の時が止まった。
 のろのろと顔を上げ、兄の顔を凝視する。
 物凄い秘密をしゃべってしまった! と言うように胸を逸らして自慢たらしげに腰に手を当てている。
「あ、後な、すげえ締りがいいから、挿れたら漏らさねぇように……」
「もう、結構です」
 手で孫策の戯言を制して、孫権は頭痛がする頭を抑えた。
 何でだよ、恥かきたくねぇだろ、と孫策が喚くのに、問題はそこではないのだと如何に理解させるか、孫権は思い悩んだ。

 が姜維に呉での生活を話していると、孫堅からの使いの者がやって来た。
 もうそんな時間かと腰を浮かせると、姜維が哀しげに眉を顰める。
「……何故殿が、孫堅殿とお二人で食事をされなくてはならないのでしょう」
 深々と溜息を吐く姜維に、は困惑した笑みを浮かべた。
「私もよく分かんないけど……ですけど、それで呉との同盟の絆が固くなるなら、いいんじゃないかな……と思いますよ?」
 二人きりの時は、これまで通りの言葉遣いで。
 姜維の、上官としての命令だった。
 今は、呉の使いが外に控えている為、姜維もの言葉遣いを指摘することもない。
 ただ、心配気にの髪を掬い上げ、口付けを落とした。
 外国映画の俳優のような仕草に、は顔を赤くする。
 姜維の一途さは、時間を経てますます強くなっていくようだった。そんな一途さに、何処か危うい影を感じる。
 行ってきます、と言うと、姜維は優しく微笑んで、行ってらっしゃい、どうか気をつけて、と見送ってくれた。

 廊下を歩きながら、ふと思いついたことがある。
 姜維の愛情は、まるで母親のようだ。
 柔らかさと強さを兼ね備えた姜維の思いは、拒絶することを許してくれない。
 如何にも弱い。
 白い儚げな相貌が、脳裏に強く浮かんでに迫ってくる。は頭を振って、それを振り払った。

 孫堅の執務室に着く。中に入るが、誰もいない。
 おや、と不思議に思って辺りを見回す。
 無礼を承知で隣室を覗いてみたが、いつもの豪奢な室内にもやはり孫堅はいなかった。
 ふと、厚い布で覆われた影に、別室への入口があるのを発見した。
 いいのかな、と辺りを見回すが、家人は影も形も見えない。人払いでもしたのだろうかと思うほどだ。
 布を捲り上げ、中を覗き込むと、果たして孫堅がそこに居た。
 長椅子に寝そべって、行儀悪く足を組んでいる。
「孫堅様」
 呼びかけるが、応えはない。
 眠っているのかと思い悩むが、そっと孫堅に近付いてみる。
 顔を覗き込むと、しっかりと目を閉じている。年相応に落ち着いた、大人の男の顔だと思った。
 眠っていては仕方ない、帰るか、と顔を逸らした瞬間、突然手を引かれて倒れこんでしまった。
 倒れた先は、勿論孫堅の胸の中だ。
 誰と間違っているのかとじたばたと暴れるが、孫堅の手の力は強まるばかりで、の抵抗を物ともしない。
「ちょ、ちょっと、孫堅様! 寝惚けてるんなら、目ぇ覚まして下さい!」
 途端、孫堅の目がぱっちりと開き、悪戯っ子のようにくすり、と笑った。
 孫堅はそのままの足を掬い上げ、自分の体の上に乗せてしまう。いわゆる騎上位のような体勢に、は顔を赤くして更にじたばたと暴れた。
「赤くなるということは、分かっているということだな?」
 笑いが止まらん、といったようにくつくつと笑い続ける孫堅に、は眉を吊り上げて怒りの表情を露にした。
「わ、悪ふざけにも程があります! もう、離して下さい!」
 孫堅は眉を顰め、断る、と小さく答えた。
 同時にの背をぐっと押して、自分の胸の中に抱え込んでしまう。
 長椅子の地に手を着いて何とか身を放そうともがくに、孫堅は憂鬱そうに目を向けた。
「……何もせん。そうして暴れられると、俺のものまで反応しそうだ。少し、大人しくしていろ」
 何という言い草だ、とは目くじらを立てるが、孫堅はかったるそうに目を閉じてしまった。
 孫堅の体臭が、を包み込む。
 何なんだ、と不貞腐れるが、ひょっとしたら体調でも崩しているのだろうか。いつも勤勉な孫堅が、仕事を放り出して寝ているのが、そも尋常でない気がする。
「……人を呼びましょうか」
「いらん。体調が優れないわけではない」
 じゃあ何なんだ。
 訳が分からず孫堅を見ていると、孫堅は目を閉じたままの疑問に答える。
「お前が来る前と来ている間だけ仕事をやっているフリをしていただけだ。別に俺は勤勉というわけでもないし、書簡を扱う仕事が好きだというわけでもない」
 は?
 が素っ頓狂な声を上げる。
「お前が、その方がいいと思うだろうと思ってしていただけのことだ」
 更に訳が分からない。
 口篭っていると、孫堅が薄く目を開いてを見つめた。
「呉に、……俺の元に来い。代わりに、荊州をくれてやる」
「アホですか」
 即答するに、孫堅は声を立てずに笑った。
 は呆れ返るばかりだ。何処の世界に、国庫を潤す財源足り得る肥沃な荊州と下っ端文官一人を交換しようと申し出る馬鹿がいるのか。
 目の前、と言うか腕の中にいるわけだが、しかし何ともお粗末な笑い話だ。
「……本当に、調子悪いんじゃないですか」
 明け方の雨のせいで、今日は何だか蒸し暑い。室内に篭っていると、汗が噴き出してくる。この室は窓も開けておらず、入口に垂れ下がった布のせいでかなり暑かった。
 孫堅は返事もせずに目を閉じてしまった。
 本当に具合が悪く見える。演技かもしれないが、かと言って放ってもおけなかった。
 仕方ない人だなぁ、とは諦めの心境に陥った。
 周瑜があれだけカリカリしていたのも、今になって理解できるような気がした。
 馬鹿ばっかりだ。
 戒めの手は解かれる気配もない。
 は、深々と溜息を吐いた。

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