泣きそうだ。
 姜維の前では笑顔を作っていたが、宴の身支度の為に姜維と別れてすぐ、顔がいびつに歪むのを感じた。
 君主たる劉備の為ならどんなことでもしたい、けれど蜀に帰りたいという気持ちも捨てきれない。
 二律背反の責め苦に、喚き散らしたい衝動に駆られた。
 確かに、三国志の話の上では尚香の機転や諸葛亮の巧みな策により事なきを得た呉からの脱出劇も、本来であれば良く逃げられたと思うほどの危険を伴っていたはずだ。
 まして、孫権に加えて孫堅孫策がいる状態とあっては、まず逃げられないと覚悟した方が良い。孫策、孫権が自ら出向いて呉への帰還を促せば、尚香とて逆らいようがないからだ。
 しかし、だ。
 誑かせって、どーやって誑かせばいいんだよぅ!
 まず問題はそこなのだ。
 諸葛亮がの何に期待しているのかは知らないが、は常に翻弄される側であって、翻弄したことはない。
 周囲の意見は異なるかもしれないが、自身は頑なにそう信じ込んでいた。
 頭の中でシミュレーションしてみる。
――ぱぱぁ〜ん、劉備様を蜀に帰してあげて〜ん。
 ごす。
 重心を失った足が、斜めに傾いでを廊下の柱に導いた。
 涙目で額と柱を撫で摩ると、正気に戻って思考を続ける。
――奪っちゃった。
 がす。
 曲がるべきところを曲がらなかった為、は壁に正面衝突した。
 動揺、してたんだもん……。
 自己反省のドツボにはまりつつ、鼻を摩った。ぴりぴりとしている。薄皮が剥けたのだろう。
――皮が。
 いいからっ!
 胸の内で吠えつつ、右手はしっかり反応して突っ込みを入れる。
 姜維を慰めなくては、自分のことは構わないからと伝えなくては、嫌わない、嫌ってない、受け止めている、了承している、好きだよ、安心して……色々な気持ちがいっぺんに交じり合い、何でか『しよう!』と思い立ってしまったのだ。
 貞操観念がないのだ、とは誰の言葉だったか。
 な、ないかもしれない……。
 は呆然と、しかし打ちひしがれながら自室へ向かった。

 が自室に戻ると、春花が慌てて飛びついてきた。
「何をなさっていたんですかさま!」
 聞けば、尚香の使いの者が何度もを探しにやって来たらしい。
「趙将軍もおいでになったんですよ」
 折角の機会でしたのに、とぶつぶつ文句を垂れている。
 それにしても、趙雲まで探しに来たとなれば、少し大事になっているのかもしれない。
 後で何もないといいのだが、と不安になっていると、突然春花に手を引かれた。
さま」
「はい」
「男の方の匂いがいたしますね」
 春花の顔は笑顔だったが、口元がひくひくと引き攣っている。
 やばい。
「あ、あ、これー? うん、だからね、早く湯浴みしないとさ。すぐ宴の時間になっちゃうし、少し遅れてもいいって言われてるんだけど、」
「……という許しを与えられる、となれば姜維様ですか」
 春花の顔から、笑顔がすとんと抜け落ちた。
 そこには、幼いながらも黒い威圧の気を纏う一人の夜叉が仁王立ちに立っている。四肢は地に向けられていたが、鋭い眼はをきしりと射抜いていた。
「……さま……」
 ひぃ、とは思わず悲鳴を漏らした。
 否定をするには条件が足りず、だが春花が考えていることと事実はまったく違っているだろうと容易に想像が出来る。
 何より、めっちゃ怖かった。
「ち、違、違うからね春花!」
 ほほう、と春花が囁く。
「春花が、そのような言い訳で誑かされるとでもお思いですか」
 あ、やっぱり私には人を誑かす才能なんてないんだよね、つか主従逆転している。
 は冷や汗をかきながらも呑気に分析を試みる。
 そんなが春花には余裕に見えるのだろう、くわっと牙を向くと、に向けてその場正座を命じた。

 正座を許され、立ち上がる頃には足が痺れていた。
「あだだだだ」
 半泣きになった。
 とは言え、いい気分転換になったのも事実である。
 蜀に帰れない、それは淋しい。けれど、まず己に課せられた任務を果たさねばなるまい。
 如何しよう、と半腰で考え込んでいる間に、春花がの服を剥きにかかる。
「え、ちょ、春花?」
 春花は、慌てるとは対照的にけろりとした顔をしている。
「こんな男臭いお召し物で宴に出るわけには参りませんでしょう。湯浴みをする時間もありませんから、香油を塗って誤魔化しましょう。湯は、明日の朝になさいませ」
 香油、と聞き返し、ははっと青褪めた。
「だ、駄目、春花! 香油はまずい、香油は」
 かつて春花が持ち込んだ香油には、どうも男に対して強力な媚薬効果があるらしかった。そんなものをつけて宴に出たら、どんなことになるか知れたものではない。
 春花は、慌てふためくに不思議そうな目を向けていたが、突然はっとしたように目を細めた。
「まさか、以前お渡しした香油、普通にお使いになっていたということではありませんよね」
 普段は使わなかったけど普通にも使ってない。
 口に出しかけたが、まさか後ろでするのに潤滑剤として使いましたとも言えず(言わなければいいようなものなのだが)、はあうあうと意味不明の呻き声を漏らした。
「あれは、趙将軍とお会いになる時だけ使っていい特別な香油です! さま!」
 てしてしと床を叩かれ、正座する。ようやく痺れが取れた足が、すぐにじんじんと痺れ出す。
「……春花さん、あの、宴の時間に間に合わなくなってしまいます……」
 恐る恐る申告すると、春花は一瞬むっと顔を顰めたが、思い直したように頷いた。
「分かりました。ですが、少しくらい遅くなっても良いと、許可が下りておられるのですよね?」
 やっぱり怒られるのかと落胆すると、春花は何故か嬉しそうに奥に向かう。何かごそごそと探しているようだったが、戻ってきた春花を見て、はげげ、と呻き声をあげた。

 趙雲は、気遣わしげに広間の一角に目を向ける。
 が入ってくるとすれば、いつもその扉からなのであった。
 姜維から、話し込んでしまったのでは少し遅くなると聞き及んでいた。
 昼に尚香に急かされての室を訪ねたが、留守番していた春花は戻っていないと言っていた。もちろん姜維の元にも行き、戻っていないと言われていたのだが、宵の口、宴の直前になってそんなことを言い出してきた。
 そしてやはり、昼にが何処へ行っていたかは知らないという。
 その姜維の目がいやに赤いのが気にかかっていた。
 何かあったのか、と声を掛けると、顔を赤くして目を逸らす。
 態度に一貫性がなく、頬を染めて目を潤ませているかと思えば、突然深々と溜息を吐く。
 気がかりだった。
 見つめていると、扉に設えられた布が、僅かに揺れた。
 か、とほっと安堵すると、布の影から見慣れない女が姿を現した。
 その言葉は正しくない。
 見慣れない服を纏い、見慣れない化粧をし、見慣れない飾りを着けたがそこに居た。
 普段はただ無造作に下ろしただけの髪を、細かに結い上げて纏めている。金の細い髪飾りは、ところどころに銀が交じり、先端には美しい房が下がっていた。
 露になった首筋に、やはり細い金と銀の飾りが揺れ、白地を基調とした淡緑と濃緑の絹の服は、細かな刺繍が施され、光を受けると紋様が浮き上がって見える。
 豪奢でありながら繊細な装いの服は、を美しく引き立たせるよう細心の注意を払われて仕立て上げられたかのようだった。
 は、だが、怯えたように立ち竦んでいた。
 広間中の視線を一身に浴び、困惑と居た堪れなさに身動きが取れずにいる。
 諸葛亮の心尽くしと称され持ち込まれた服は、がこんなひらひらした服着れなーいと喚いて駄々をこね、届けられてからずっと仕舞いこまれていたものだ。
 春花は何とかしてにこの服を着せたがっていたのだが、が言い訳できない、させない絶好の機を得て意気揚々と引っ張り出してきた、とこういう流れだ。
 春花は、が男とどうこうなるのは嫌なくせに、を着飾らせることには命を張っているかのように凄まじい気合を見せる。
 着飾ることで男が寄って来たらどーすんだよぅ、と喚くと、きちんと着込んでいた方がなかなか手が出し辛いのだと言い返されてしまった。
 後ろめたさと反論を許さない押しの強さに負けて、はいやいや宴の広間にやってきたのだった。時間もかかるわけである。
 さて困った、どうしようと趙雲に目を向けると、趙雲がこちらに向けて歩いてくるのが見えた。
 え、殿の警護は、と驚いている間に、趙雲は素早くの手を取り、姜維の元まで導いた。
 さっと劉備の後ろに回りこみ、澄ました顔で何事もなかったように立っている。
 そう言えば、前に小喬と揉めた時も、趙雲はこうしてさっさと飛び出してきた。
 広間の空気を読み取り、今ならば、という具合に見定めているのかもしれない。
「遅くなって……」
 膝を屈めて、姜維の耳元に囁く。と、広間がどよっとどよめいて、はぎょっと身を竦めた。
 見回すと、孫策や孫堅、甘寧や呂蒙までもが驚いたようにこちらを見ている。
 やはり、似合わないのだろうか。
 春花には悪いと思ったが、この服は今宵限りで着るのをやめようと思った。
 そんなに構いもせず、姜維はまじまじとを見遣り、眉を顰めた。
「……お痩せになったのではありませんか?」
 はい?
 今更だろうとは呆れた。抱き締めてきたくせに、と白い目を向ける。
 抱いただけで痩せたの太ったのに気が付くくらいなら、ぱっと見た目だけですぐ分かりそうなものだが、生憎はそこまで気が回らなかった。
 実は姜維は、以前の赤い服の時はの脚がちらちら見えるのに羞恥を覚え、ちゃんと見てはいない。後から持ってきた文官の服は、かっちりとの体を包み込んでいたから、目に止まらなかった。
 今の衣装は、首や鎖骨の辺りは見せていたが、胸元はしっかりと覆われ、スリットは膝で金具により留められている。女性らしい装いであったが、決して露出は高くなく、上品な仕立てであった。
 姜維が見ても、恥ずかしさに目を背けるというほどではない。
 そこで改めて目に付いたのが、以前より浮いた鎖骨だったというわけなのだ。
 話がだいぶ逸れたが、姜維の『痩せた』という発言に、呉の者達が沸き上がる。
 歓待しているというのに、と怒りを露にするが、周瑜は冷静だった。
 が痩せる理由ならば、心当たりは幾つもあった。
 忘れる方が愚かだ。なので、周瑜は冷たい視線で皆をいなした。
 いなされなかった者が、一人いる。
 陸遜だ。
 席を立つと、すたすたと姜維の元に赴く。
「陸伯言と申します」
 拱手の礼を取り、姜維もそれに答えた。
「臥龍の珠の光を曇らせたこと、若輩ながら伏してお詫び申し上げます。詫びの印として、私の杯を受けていただけませんか」
 臥龍の珠?
 が首を傾げるのを、周瑜はしっかりと見ていた。
 その周瑜を、趙雲が密かに見つめる。
 周瑜が諸葛亮に敵愾心を持っていることは周知の事実だ。その敵愾心が姜維に向いたとして、何の不思議もないのだ。
 冷静にことを見極めなければ。
 その趙雲の誓いは、直後にあっさりと破られた。
殿への詫びとして、何かお望みのものをご用意させたいと存じます。殿のご希望を伺いたく、しばしこちらに預けていただけませんか……何せここ数日、珠を愛でる機会すら得られません」
 満たされた杯を手に、陸遜は姜維に不敵な笑みを浮かべる。
 姜維は、穏やかな笑みを打ち消して不気味なほど静かな目を陸遜に向ける。
「若輩と名乗る貴方が、仰られることとも思えませぬが」
「若輩と言えど、呉では軍師と将とを兼ねる身。それに、若輩と言うならば姜維殿、貴方とて」
「この身は丞相……臥龍諸葛亮の名代を務めるもの。滅多なことは仰らぬ方が御身の為かと存じますが」
「そうでしたね、これは迂闊。酒に酔ったものと思われます、どうかご容赦の程を」
「酔うておられるようには思えませぬが」
 冷静かつ穏やかな言葉のやりとり。
 その二人の背後に、何故か竜虎が浮かんで見えるのは何故なのだろう。
 こ、怖いよう。
 は思わずにじにじと背後に下がる。
「「殿」」
 姜維と陸遜、同時に声を揃えてを振り返る。
「酒を」
 杯を差し出され、は腰の低い居酒屋の親父の如くに腰を屈め、よろよろと酒を注ぐ。
 逃げたくても逃げられない。
「それにしても、一度お会いしてみたかったのですよ。念願叶い、嬉しく存じます。諸葛亮先生の愛弟子と聞き及びましたが、成る程、貴方が」
「ええ、望まれ弟子入りいたしました。未熟ではありますが、その期待に応えたいと常日頃より思っております」
「ならば、珠は貴方が引き継ぐのだと? 珠も極上であればあるほど、曇らせずに置くは至難の業でしょうね」
「臥龍の珠は自ら光り輝き、置かれる手を選ぶもの。貴方がご心配なされることではありますまい」
「これはしたり、では、珠が望みさえすれば、臥龍は珠をお手放しになると仰せか」
「無為自然に在るものが、何故手から放れると思われるのか。私には分かりかねますが」
 ぴき、と音を立てて陸遜の額に青筋が立つ。
 姜維も、黒目に好戦的な光を宿し、陸遜をひたと見つめている。
 怖い。
 月英と甄姫の諍いもかくやという冷戦だった。目には見えないブリザードが、そこら辺中を吹き荒れているかのようだ。
 助けを求めて趙雲に目を向ける。趙雲も、何とかしてやりたいとは思ったが、如何せん一武将が口を挟める状態ではない。
 怯え竦むを見かねて、劉備が口を挟んできた。
「……いい加減にしないか、姜維」
「陸遜、お前もだ。その辺にしておけ」
 劉備の言葉に孫堅も加わり、君主の命に二人とも渋々と引き下がった。

 孫堅が、ほっと気を緩めたに声を掛ける。びくりと肩を竦めて振り返るに、孫堅は軽く笑って見せた。
「似合うぞ。やはり、白が合うのだな」
 困惑し、はぁ、と曖昧な返事を返す。
 強い視線を感じると、孫策が仏頂面をしてこちらを見ている。呼んでいるようだ。
 無言で姜維を伺うが、姜維は気付きつつも敢えて気付かない振りをしている。仕方なく、が小さく首を振ると、孫策は更にむっとした顔をして姜維を睨んだ。
 卓の下で、姜維がそっとの手を握る。
 男にしては細い、白くて長い指だった。
 煽っているだけなのだろうか。それとも……何か考えがあってのことなのだろうか。
 無理をしているという感じでもない。握りたいから握っている、そんな押しの強ささえ感じられた。
 泣き濡れていた姜維と、今の姜維が重ならない。
 困惑して、は趙雲を見た。

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