宴が終わり、散会してもまだ、姜維はの隣に居た。
 思いつめたような眼差しが時折に向けられ、気付いたが振り返ると、苦笑めいた微笑を浮かべるのだった。
 を室の前まで送ると、姜維はの頬をそっと包み、の額に己の額をこつん、と当てた。
「……ゆるりとお休みなさいませ」
 囁くと、すぐにを解放し、自室へと下がって行った。
 キス、されるかと思った。
 どきどきと高鳴る心臓を押さえながら、は自室へと足を踏み入れた。自分からあんなことを仕掛けておいて、キスされるかと考えたくらいで動悸が静まらない。矛盾を感じた。
 室の中は暗い。
 春花はいないようだった。
 扉を閉め、手探りで室の奥に向かう。いつもなら、必ず灯りが一つ点されているのだが、今宵に
限っては春花がうっかりしたものか、全てが闇の中だった。
 この室にもずいぶん慣れたと思っていたが、こうなると甚だ心許ない。
 腕を伸ばしてすり足で進む。
 膝が、牀と思しき布の感触に触れ、ほっとして牀に上がりこむ。
 化粧を落とさなくてはいけないのだろうが、こう暗くては如何していいか分からない。
 面倒だ、明日でいいやい、とは髪飾りを取ろうと腕を上げた。
 人の気配を感じたのはその時だ。
 上げた手を取られて牀の上を引き摺られる。驚愕のあまり声も出せなかった。
 仰向けに倒され、起き上がる暇もなく口を吸われる。
 誰だ、と焦るばかりで抵抗が実を結ばない。
 唇が離れ、耳元に囁かれた。

 一気に緊張が解れた。
「子龍……何やってんの、もう……」
 力が抜ける。頭を牀に下ろすと、髪飾りが刺さって痛い。
「……退いて、もう、寝るんだから」
 趙雲がおとなしく応じ、の上から退いた。
 が髪飾りを外そうともたもたと手を蠢かす。
 見かねたのか、趙雲が手伝ってくれた。
「……子龍、見えるの?」
 窓を閉めているせいか、室の中は視界が利かない。だが、趙雲はの髪飾りを惑うことなく外し、ついでといわんばかりに纏めた髪もすいすいと下ろしていく。
「これくらいの暗さならばな」
 窮屈だった髪が解かれ、軽くなった。
 はぱさぱさと髪を振り、手櫛でもつれた髪を直した。
「ありがと、子龍」
 礼を言うと、返答の代わりに口付けが返ってきた。
 口紅が移ってしまうのではないかと間の抜けた心配をする。もっとも、趙雲ならば紅を注しても良く似合いそうだと思った。
「何を考えている?」
 問われ、素直に口にすると、趙雲が黙りこんだ。
「嬉しくない」
 むっとした声がおかしくて、は小さく声を立てて笑った。
 一頻り笑うと、唐突に思い出した。
「ちょ、子龍、殿の警護は!」
 今宵は非番を命じられた、代わりの者が就いている筈だと事も無げに言い返される。
 趙雲が劉備の警護を放り出すわけがない。安堵はしたが、何処か淋しい気もする。
 己の責務を全うしようとする趙雲を好ましく思う。けれど、やはり自分のことを一番には思ってくれないのだ、と考えてしまう。
 理屈では分かっているのだ。理屈で制しきれない感情だから、持て余す。
 とは言え、とて趙雲を選んだわけではないのだから、これは贅沢にも程がある話だった。
「諸葛亮殿から、何か命令が下ったのか?」
 物思いに耽るに、趙雲が切り出して来た。切る、というよりは斬るに近い、絶妙のタイミングだった。
 思わず口篭ってしまい、早々に対応に失敗したは、どうやって趙雲をいなすか考えなければならなかった。
 事が事だけに、趙雲には話さないでいた方がいいかもしれない。
 けれど、何につけ君主、任務を大事にする趙雲にならば、話した方がいいのかもしれない。
 話して、そうか、と納得されたら。
 そう考えた途端、は戦慄にも似た悪寒を感じた。
 そうか、仕方ない、分かった、こちらは任せろ。そんな風に答えられたら、悲鳴を上げてしまうかもしれない。
 了承したはずだった。仕方ないよ、と姜維には言えた。
 趙雲にも言えるだろうか。
 例え趙雲が、そんなことはいけない、駄目だ、許さないと言ってくれたとして、姜維を宥めたように趙雲を宥められるだろうか。
 やらなくてはいけないことなのだ。自分の価値を吊り上げ、君主一人と見合うだけのものにしなくてはならない。同盟という利点が生かせれば、案外難しいことではないかもしれない。幸い、孫策と大喬は自分を望んでくれている。二人に頼めば、力になってくれるに違いない。周瑜は厄介だが、その最愛の妻である小喬が懐いてくれているし、先日の件で少なからず引け目を感じているようだ。それを上手く利用すれば……。
 の目から涙が零れ落ちた。
 嫌だ。
 何様なのだ。
 どうして、こんな風に考えなくてはならないのだろう。普通に、気の合う人と仲良くなって、馴染めない人とは疎遠になって、あるがままに、感じるままに付き合えないのだろう。
 すべて策略の駒として考えなくてはならないのか。
 好きだと言ってくれる人にさえ、その好意をどう利用するかと考える。
 こんなのはおかしい。
 耐えられない。
 話せない、とは震えた。
 趙雲には話せない。こんな自分を見せなければならないのだったら、趙雲には話せない。
 そんなことを考えていたのかと軽蔑される。
 そんなことで悩んでいたのかと嘲笑される。
 どちらも御免だ。
 話せない。
「……?」
 押し黙ったに、趙雲は首を傾げて優しく名を呼ぶ。
「言えないなら、無理に言わなくてもいい」
 趙雲の手が、の髪を撫でる。
 心地よさと恐怖に、体が竦んだ。
 言いたくないなら言わなくていい。何て優しくて、残酷な言葉だろう。その場しのぎにはぴったりだ。
 趙雲がに覆いかぶさってくる。
 反射で、え、と呟いた声に、趙雲が密やかに笑った。
「……けれど、私は必ずお前を暴くぞ。お前が何を考え、何を求めているかは知らん。けれど、それがろくでもないことだということは、私はよぅく知っているからな。お前はもう少し自覚した方がいい」
 何を、と問い返せば、趙雲は愉快そうにくつくつと笑った。
「自分が、思ったより馬鹿で、思っているほどには馬鹿ではないということだ」
 鳥が餌を啄ばむように口付けられ、くすぐったいような悦に身動ぎする。
「……意味、分かんないよ」
 不貞腐れたように頬を膨らますに、趙雲は薄く笑ってまた口付けを落とす。
「お前が如何に愚かで馬鹿な女なのかなどということは、私はとっくに分かっているということだ。いい加減、自分を良く見せようとするのは止せ、この見栄っ張りめ」
 どき、と心臓が跳ねた。
 全部見抜かれているのかと思った。
「諸葛亮様の命令、子龍は知ってたの?」
 知らない、と趙雲はあっさり答えた。
「あの方が、策を巡らすのにわざわざ部外者に告知するような方か。私はせいぜい、お前と姜維の様子がおかしい、何かあるのだなと察しをつける程度しか出来ない」
 二人がおかしければ、それは共通の上司たる諸葛亮の命に関してだろう。
 趙雲の読みは、恐ろしいほどに正しい。
「……私、と伯約、そんなにおかしかった?」
「ああ、おかしかったな。特に姜維だが……、お前、姜維に何か悪戯をしなかったか」
 ぎくり。
 の顔色が変わったのを、趙雲が見逃すはずもない。
「……したのだな」
「え、え、いや、あの、えーと……」
 何と言い訳するべきか。は目を泳がせながら、必死に考えていた。
 結局、姜維に何をしたのかばれてしまい、結果は本日二度目となる口でのご奉仕と、朝方まで何度も失神しかける『罰』を頂戴する破目になった。

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