まだ夜も開ける前、春花はぱたぱたと足音を立てて廊下を駆けていた。
 夜遅くまで我慢したのだが、やっと戻ってきて下さったと思えばではなく趙雲で、いいから先に休みなさいと勿体なくも声を掛けて下さった。
 良くしていただいているとは言え、は主である。その主の室で休むわけには行かないと、春花は固く誓っていた。なので、申し訳なくも趙雲の言葉に甘えてしまったのだ。
 うっかりしていた。
 に化粧を施していたのだ。落として差し上げなくて如何する。
 ただでさえは化粧と言うものをしたがらない。春花のような、まだ幼いといっていい娘でさえ化粧の仕方を覚えているというのに、は興味も示さないのだ。自分で落とすことはしないだろう。
 眠かったせいもあったとは思うが、気が回らないことこの上ない。
 もしお休みになっていたとしても、お声だけ掛けて化粧を落として差し上げよう。
 春花は、あまりに慌てていたせいか、更なる過ちを重ねてしまった。
 何も声掛けせずに室に入ってしまったのだ。
 眠っているだろうを気遣って扉を開け、そっと閉める。居間と寝室を区切る壁の前に立ち、感じた人の気配に、が起きていたのかと顔を上げる。
「……」
 趙雲が、驚いた顔をして立っていた。
 下半身は着込んでいたものの、上半身は未だに裸体のままだ。逞しく鍛え上げられた体付きが、一瞬春花から思考能力を奪った。
「しゅ、春花」
 珍しくもうろたえる趙雲を、が見たら何と言うだろうか。
 だが生憎、はその趙雲の責め苦に疲れ果て、深い眠りに落ちていた。
「あ……あの……わ、私、さまのお化粧を……」
 顔を茹で上げられたように真っ赤に染め、それこそ湯気が立つかのように熱くなった春花の頬に、一筋の汗が流れた。
 趙雲が、ようやく冷静さを取り戻し、急ぎ裸のまま眠るに上掛けを掛けてやった。
「……驚かせてすまなかった。は眠っているから、そのまま落としてやるといい。たぶん、目は覚ますまい」
 どういう意味だろう、と春花はどぎまぎしながら趙雲を伺う。
 あ、と声を立てて、また口篭った。
 趙雲は、手早く身繕いしながら春花の様子に首を傾げた。
「どうした、春花」
 何か言いたそうに口を開くのだが、あ、とかう、とか一言発すると、また顔を伏せてしまう。
 髪を結った趙雲は、春花の前に屈み込んだ。
「如何したというのだ、春花」
 間近に趙雲の視線を受け、春花は恥ずかしそうに顔を覆ってしまった。だが、搾り出すように言葉を紡ぐ。
「……あの……あの、お……お口に、紅が……」
 かあぁ、と音が聞こえるように顔を赤くして、春花はしゃがみこみ、顔を膝頭に隠してしまった。
 趙雲もさすがにばつが悪くなり、顔を赤らめて小さく詫びた。

 の面倒を春花に任せ、趙雲は足早に廊下を行く。
 先程までの好青年の表情は消え失せ、厳しく引き締まった面立ちは、まるで敵地に乗り込まんというようであった。
 角を幾つか曲がり、廊下の先に目的の人影を見出す。
「お早うございます、趙将軍」
 姜維はいつもの、それでいて何処かざらついた笑みを浮かべて趙雲を見た。
「騒ぎになれば人が駆けつけてきましょう。二人で、静かに話をいたしませぬか」
「静かになるかならぬかは、お前次第だ」
 感情の篭らない趙雲の声は、殺気が込められたそれよりも冷たく、臓器を抉るようだ。
 姜維は、哀しげに目を伏せると、無言で自室の扉を開いた。
 趙雲がそれに続く。
 室に入り、扉を閉めると同時に、趙雲は姜維の胸倉を掴み、壁に叩き付けた。
「……静かに、と申し上げたはずです」
 一瞬呼吸が止まったのを感じさせぬよう、姜維は声を作り上げた。姜維にも、意地と誇りがある。
「お前次第、と言ったはずだ。言え、丞相は一体に何を命じた」
殿に、直接問わないのですか」
 締め上げる手にも臆さず、姜維は冷静に受け答えする。
 趙雲は、細めた目に殺気を篭めた。
に、それを言わせようというのか、お前は」
 姜維の目が逸らされた。敗北を認めた。
 趙雲は手に篭めた力を緩め、代わりに唇を噛み締めた。
「……丞相は、何も仰ってません……ただ、私の知略の及ぶ限りを尽くし、何としても殿を取り返すようお命じになっただけで……」
 姜維の目が、胡乱に揺れる。
「ただ、呉の将達には殿の気質は好ましく……とても、好ましく映るだろう、とも……仰っておられました……」
 ならば。
 姜維の敏さならば、それがを利用すべしと聞こえて当然だろう。
 が姜維の視線の奥底にある物を感じ取ったのなら、やはり同じように覚ったことだろう。
 劉備の引き換えに、を置いてゆく。
 傍から見れば、これほど単純明快な選択はあるまい。
 君主と、一文官。答えは自ずと明らかだ。だが、しかしである。
「……を、置いて行けるのか……?」
 趙雲の問いは、自問の問いでもあった。
 姜維の肩が、びくりと跳ねる。
 孫家がその気になれば、この地からの脱出は並大抵ではない。下手をすれば全面戦争となりかねない。同盟を結んだばかりで、それは何と愚かしいことなのか。
 を置いて行けば、恐らく事は単純に済むだろう。孫堅には及ばずと言えど、孫策の発言力は強大なはずだ。一度こうと決めたら決して引かない豪胆な性格は、を通して嫌というほど見せ付けられた。がそうしてくれと言えば、恐らく否やはあるまい。
 それどころか、孫策などを通さずとも、が孫堅に身を委ねれば、あるいはあっさりと劉備を解放するかもしれない。それこそ、高官の懇願を笑って蹴り倒して、だ。
 だから、問題はむしろ趙雲や姜維、個人の問題なのだった。
「……何とか、します」
 姜維は、苦しげに身を捻った。
「何とか、策を練ります。殿も、殿も、蜀に帰ることが叶うよう……何とか……」
 できるのか。
 趙雲は険しく目を細めた。
 それが出来れば何の問題もない。出来そうにないから、諸葛亮はを犠牲に、と暗に指図したのではないのか。
「いたします!」
 姜維が、悲鳴じみた甲高い声を上げ、壁に拳を強く叩きつけた。
 趙雲の目から敵意が消え、代わりに何とも言えない憐憫の情が浮かんだ。
 私にとって、は掛け替えない。だが、殿と引き換えには出来ぬ。命果てるまで血を吐き、後悔に身を焦がしたとて、殿とを引き換えには出来ぬ。
 だが、姜維は今、己が最も敬愛し全信頼を寄せる人に背き愛する女を守ろうとしている。
 それは、この無垢なる青年にとっては死ぬより辛い選択だろう。
 何と言って声を掛けていいのか、分からない。
 今、姜維を慰め労わることができるのは、他ならぬだけだと思えた。
 夜が白々と明けてきたのが、扉に貼られた絹を透かす光で知れた。

 何かの拍子で目を覚ましたは、ぼんやりと牀の上に座り込んだ。
「お目覚めですか、さま」
 起き出す前から春花が室に居るのは珍しい。寝惚けたままに春花をぼーっと見ていると、春花は恥ずかしそうに目を逸らす。
 何気なく視線を下に向けると、胸の谷間から、股間を覆う繁みが見て取れた。
 しばし、無為な思考に耽る。
「お」
 小さくが呻く。
 春花は、はて、と首を伸ばしての顔を覗き込んだ。
「わあっ!」
 唐突に覚醒したらしい、は両の手を交差させ、己の胸を覆うと牀にうずくまった。
 腰の下にわだかまっていた上掛けを手繰り寄せ、あわあわ言いながら勢い良く頭から被る。上掛けの隙間から、涙目の真っ赤なの顔を見て、春花は何となくほっとした。
「お湯を、お持ちいたしましょうね。湯浴みなさりたいでしょう」
 それから、敷布を干して、場合によっては洗わないといけない。
 には到底言えなかったが、春花は胸の内でこっそりと一日の予定を立てた。

 が湯浴みを済ませ、ほっこりとした肌の潤いを堪能している時、来訪を告げる声がした。
 甘寧だった。
「よ」
 何処か素っ気無く、軽く手を挙げて挨拶する甘寧に、はお頭だ、と気安く呼びかけ笑みを浮かべた。
 背後で春花が怖い顔をしていたが、寝不足でぼんやりしているは鈍過ぎるほど鈍く、放たれる殺気に気がつくこともない。
 その様子を見て、甘寧の頑なな態度が軟化した。
「お早うございます、お頭ー」
「おう、。早くからすまねぇな」
 にっこり笑って、の頭を撫でる。
 が、さっき頭洗ったから濡れちゃうよと言っても、甘寧はお構いなしで撫で続けた。
 一頻りの頭を撫で回すと、言い難そうに頬を掻く。
「あのー……な、あのよ、お前に会いたいって奴等がいるんだけど……よ」
 甘寧にしては珍しく口篭った様に、は首を傾げた。誰、と問うているようでもあった。
「名前言っても、わかんねぇし……ま、俺が居るからよ、会うだけ会ってやってくんねぇか」
 な、な、と力強く念押しされて、勢いのまま頷いた。
 甘寧が庭に通じる廊下にを連れ出し、何処かに向かって声掛けすると、生い茂った葉陰から、男が二人ぞろぞろと出てきた。二人掛かりで恭しくの装束を手に提げている。
「あ、私の……わざわざ届けてくれたの?」
 有難う、と無邪気に笑うに、何故か歯切れの悪い甘寧は、とん、と庭に降りて男達の前に立った。
「こいつらは……あ〜、アレだ……あの、お前ぇに……ちょっかい掛けた、あの二人だ」
 一瞬にしての表情が凍った。
 あの、真っ黒な絶望感がの身の内に溢れ返り、は蒸し暑くなってきた庭先に居るにも関わらず、ぞっと鳥肌をたてて己の体を抱え込んだ。
 男達の顔が、恐怖に歪む。
 甘寧は舌打ちをし、の前に進み出た。
「すまねぇ、ホントなら、顔出させる義理もねぇんだが……こいつらが、どうしてもお前ぇに詫びを入れてぇ、礼を言いてぇって聞かねぇもんでよ」
「お礼……?」
 場にそぐわない単語を聞き咎めて、は甘寧を振り返った。
 ほれ、と甘寧は顎をしゃくる。男達は平伏せんばかりの勢いで、顔を下げてに蜀の文官の装束を差し出した。
 戸惑いながらも、綺麗に洗濯された装束におずおず指を伸ばす。
 受け取り、装束が男達の手から離れた。
 の目が、大きく見開かれる。
 男達の左手には薄汚れた白い包帯が巻かれ、有るべきはずのものが切り取られたようになかった。
 ように、ではない。切り取られていた。左手の中指、薬指、小指が、それぞれ第二関節からすっぱりと無くなっていた。失われた部分の先端に巻かれた包帯は、薄茶色に汚れている。
 は声もない。
 男達は、おずおずと顔を上げた。
「お、俺達、あん時は酔ってて……それに、姐さんだって知らなかったんだ。前に姐さんが来た時、俺達ちょうど船の手入れに出かけてて……だから、姐さんの話は仲間から聞いてたけど顔は知らなかったし、蜀の緑色の服着てるって聞いてたし、だからあん時はまさか姐さんだなんて思ってなくて……じょ、女郎が売りに来やがったんだって思って……ちょうど実入りがあって、だから、だから金があるんだからいいだろうって……ホントに知らなかったんだ、ホントに、ホントに申し訳ねぇ!」
「でも、姐さんが俺達の命乞いしてくれたから、指だけで、それも左手で済んだんだ……だ、だから、どうしても、どうしても姐さんに……そりゃ、顔向けなんかできねぇし、姐さんだって俺達に会うのなんか嫌だろうとは思ったんだけど、お頭に頼んで、ちっとだけ、ちっとでいいから詫びと……俺達なんかの命乞いをしてくれた、礼がどうしても言いたくって……ホントは、もっと早く、この装束もお返しに上がらなくちゃなんねぇって思ってたんだ、けど」
「俺が悪いんだ、傷が膿んじまって、熱が出て、どうしても起き上がれなかったんだ。恥の上塗りだけど、俺もどうしても詫びと礼が言いてぇ、装束お返ししたら、もう絶対顔も見せらんねぇ、そう思って、だから」
「すまねぇ姐さん、俺達の顔なんざ見たくもねえって、そりゃあ当たり前だ、当たり前なんだけどよ、どうしても……せめて、命救ってくれた礼だけは、どうしてもどうしても言いたかったんだ」
 は、足から力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
 甘寧は気まずそうにを見、男達を見遣った。
「……如何する、もし、お前がこんなもんじゃ許せねぇっていうなら、手首ごと切り落としちまうけどよ」
 事も無げに甘寧が言う言葉に、男達は顔を青褪めさせたが、唇をぐっと噛んで堪えた。
 は、ただ、首を振った。
 装束を取り落とし、力の抜けた足で前進しようとして、廊下から庭に転げ落ち掛ける。甘寧が咄嗟に手を差し出してを支えたが、それがなければ恐らく顔面から落ちていただろう。
 甘寧の手を振り払い、二人の男の下によろめきながら進む。
 異様なの行動に、甘寧は元より錦帆賊の二人も落ち着きなく目配せを交わす。
 は、指の欠け落ちた左手を包み込み、じっと見つめる。
 その眼から、突然、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
 甘寧も、二人の男もぎょっとして言葉を失う。
「こ……こんなこと、しなくて良かったのに……こんな……どうして……」
 まるで自分の息子の傷を悼むように、は二人の左手を何度も何度も撫で摩る。
「指、落としちゃったら……戻らないのに、どうして……こんな……こんなのって……」
 涙で顔をぐちゃぐちゃにして、は泣き続けた。
「……あの、よ、……」
 困ったように甘寧がの肩に手を掛ける。
「どうして止めてくれなかったの、お頭!」
 が泣きじゃくりながら、甘寧に吠え立てる。
「酷いよ、こんなのってないよ、どうして止めてくれなかったの!」
「つ、つったってお前ぇ……」
 甘寧としては、これでもまだ甘いと思っていた。も当然そう言うだろうと思って、とりあえず二人の希望を叶える形は取ったが、実際はに罰を決めさせようと思って連れてきたまでだ。
 が殺せと言うなら殺すつもりだったし、腕を落とせと言うならそのつもりでいた。まさか、何故指を落としたと責められるとは、思ってもいなかったのだ。
 は泣きじゃくりながら、二人にごめんなさいと謝り続けた。
 何時までも何時までも、それこそ騒ぎを聞きつけた呂蒙が駆けつけ、を連れ去るまで謝り続けたのだった。
 が去り、その声が遥か遠くに消え去っても、甘寧と男二人は呆然と立ち尽くしていた。
「お、お頭、あの、すいません……」
 大の男がでかい図体を縮こまらせて、申し訳なさそうに甘寧に詫びた。
 甘寧は面白くなかった。何故自分が責められなければならないのか、さっぱり分からない。
 ふん、と鼻息を鳴らすと、釣られたように腰に着けた鈴が、りん、と鳴った。
 横目で二人を睨めつけると、甘寧のことなどすっかり忘れ去ったように、陶然としてが去った方を見据えている。
――屑の分際で、一丁前に惚れやがったか。
 男が女に惚れ込む等という単純なものではない。二人の目は、まるで天女か仙女を見るかのような、尊いものに憧れ敬う純真な目であった。
 やべぇな。
 この話は恐らく、あっという間に甘寧の手下、つまり錦帆賊の間を駆け巡るだろう。
 おかしなことにならねぇといいんだが。
 自分だけの特別な女のつもりが、手下とは言え他の、しかも五百からなる錦帆賊の男達の特別な女と化す。
 少しつまらない。いや、大いにつまらない。
 甘寧は、唇を尖らせた。

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