呂蒙の執務室で、はぐしぐしと泣きじゃくっていた。
「ふっ、ふみまへん……」
 いいから、と手で制し、二枚目になる手巾を手渡す。
 一枚目の手巾は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
 は、一枚目の手巾を畳んで膝に乗せると、両手を差し出して呂蒙の手から新しい手巾を受け取る。
 その間もの頬には、涙が筋を描いて零れ落ちる。
 いったい何があったかもよく分からない。
 甘寧とその手下と一緒に居たには居たが、何かされたというわけではなさそうだった。謝っているのはの方だったから、が何かしでかしたのかもしれない。
 だが、それにしては甘寧も手下の二人も呆然としてを見遣るのみだった、というのは解せない。
 とにかく人目については何かと面倒だ、と抱きかかえるようにして執務室に連れて来たのだ。
 落ち着くまで待って事情を聞いても遅くはあるまい、と思うのだが、が一向に泣き止まないので話にならない。
 御付の文官は下がらせていたから、も逆に、人目がない気安さ故に泣き止むことが出来ないのかもしれない。
「……そのように泣いていては、目が溶けてしまうぞ……」
 処置に困って戯言を口にすると、はまた『ふみまへん』と謝って、外に出て行こうとする。
 これを何度も繰り返しているのだ。
 呂蒙が何か口にする、が謝って出て行こうとする、それを引き留める。
 如何にかして泣き止ませてやりたい、だが如何していいか分からない。
 けれど、誰か他の者の助力を頼むつもりにもなれず、呂蒙はただの前に座り、飽くことなくその泣き顔を眺めているしか出来なかった。
「失礼します」
 声と共に陸遜が入ってきた。
 手に提げた盆を卓に置くと、呂蒙に向けて拱手の礼を取る。
 突然の来訪に声を失う呂蒙には目もくれず、陸遜は座っているの前に膝を着いた。
「大丈夫ですか、殿。熱い茶をお持ちしました。これを飲んで、少し気をお鎮めになられると良いですよ」
 手巾を握り締めるの手を片方取り、さ、と声を掛けて卓に導く。
 呆気に取られる呂蒙に、にっこりと微笑み掛けると、陸遜はを改めて卓に着かせた。
 茶碗は三つ。
 陸遜は、手馴れた風に茶を淹れると、一つをの前に置き、一つを腰掛けたまま成り行きを見つめる呂蒙に手渡した。残る一つは陸遜自身のものだろう。
 卓に戻ると、のすぐ隣に椅子を置き、優しく背を撫でる。
「さ、熱いうちに」
 は手巾を置き、代わりに茶碗を手に取った。
 一口啜ると、途端に涙が洪水のように溢れた。
 ぎょっとして呂蒙が腰を浮かせると、陸遜は無言で首を振る。いいから、任せておけと言わんばかりだ。
 呂蒙は、渋々腰を落とし手持ち無沙汰に茶を啜った。
「……どうなさったんです?」
 置かれた手巾での涙を拭いてやりながら、陸遜はあくまで優しく問いかける。
 口篭っていたも、茶を啜るのに口を開けたのが良かったのか、渇いた喉が潤されたのが良かったのか、いずれにせよ途切れ途切れながらも語り始めた。
「……あの……おか……甘寧殿に、街を案内してもらった時……」
 焦れるほどゆっくりとした口調だったが、陸遜はを急かさなかった。穏やかに笑みを浮かべ、頷く。
「あの……雨に濡れてしまっ……て……ふ、服をお借りして……それで……」
 呂蒙は、陸遜の手管に感心しながらも面白くなかった。あれだけ必死に宥めようと苦心したものを、陸遜はあっさりと宥め、かつ事情まで聞きだしている。
 陸遜は、呂蒙の恨みがましい目を知ってか知らずか、ただのみを見つめていた。
「それで……あの、手下の人達……が……私を、あの……女郎の人と間違え……て……」
「それで、泣いておられたのですか?」
 詰まったまま言葉が出てこなくなったのを見計らい、陸遜が敢えて推測を口にすると、は頭を激しく振って否定した。
「違、違います、だって、結局私は無事だったし、何にもされなかったし……でも、でもお頭が、罰だって……あの人達の指、切り落としたって……!」
 そこまで言うと、は再び顔を覆って大声で泣きじゃくり始めた。
 呂蒙は、呆然とを見つめた。
 甘寧の与えた罰は、正当といえよう。むしろ、身分の高い女、しかも他国の文官相手にそれだけの粗相をしでかしたにしては、軽過ぎると言ってよかった。
 陸遜は、宥めるようにの背を撫で、心配気にの顔を覗き込んだ。
「……お嫌だったのですね」
 うん、うん、とは何度も頷く。
「でも、彼らが殿にしたことは、決して許されてはいけないものだったんですよ」
 途端、は陸遜の言葉を激しく拒絶する。
「い、いけなかったかもしれないけど、でも、指落としたら、もう戻せないじゃないですか!」
 落とした指は代用が効かない、大切なもののはずなのに、甘寧はそれを許した。
 その方がよっぽど許せないのだ。
 もっと許せないのは、自分がその原因となってしまったことだ。自分の不注意が、彼らの指を永遠に失わせてしまった。
 そう言っては泣きじゃくる。
 酷いことをしてしまったと言って、泣きじゃくる。
 呂蒙は戸惑って、仕方なく陸遜を見た。
「……彼らは、貴女を責めましたか?」
 静かに、陸遜は言葉を紡いだ。慎重に、まるでいっぱいになった杯に、更に酒を注ごうとするように注意深くを見つめる。
 陸遜の言葉を受けて、は首を振った。
 責めてはいない。責めてはいなかったが、しかし。
「でも、」
「お礼を言っていませんでしたか」
 言い募ろうとするの言葉を、陸遜は綺麗に寸断した。
「命が助かった、そう言ってお礼を言ったのではないのですか。だから、もっと哀しくなってしまったのでしょう? お礼なんか、言われることじゃないのに、と……お優しいのですね、殿は」
 は、口を閉ざした。
 涙だけが、陸遜の慰めの言葉を拒絶していた。
「ですが、殿。それは、死を以って償うべき罪なのですよ」
 びくっと弾けるように肩が跳ね、何か言葉を紡ごうとするの唇を、陸遜は指を押し当てて封じた。
「貴女がどう思おうと、それは死に値する罪なのです。そして、貴女がこうして泣いていれば、騒ぎはどんどん大きくなって、折角助かった命を改めて奪わねばならぬかもしれません。それに、そんな所へ貴女を連れて行った甘寧殿にも罪の追求の矛先が向くやもしれませんよ」
「お、お頭は」
 唇が無理やり開き、押し当てた陸遜の指に、の舌がちろりと当たる。
「そうですね、甘寧殿は関係ないと貴女は仰るかもしれませんね。けれど、それはあくまで貴女の理屈で、我等呉の将としては、騒ぎが大きくなれば責を明らかにし、今後の見せしめの為にも処断せざるを得ないのですよ。ですから、一番いいのは貴女が早く泣き止んで、何事もなかったのだと言うことにしてしまうことです。分かりますね」
 ね、と優しく微笑み掛ける陸遜に、肩に力を篭めて怒らせていたも、しょんぼりと俯いた。
 の髪を優しく撫で、呂蒙に断りを入れると水差しを手に取る。
 懐から己の手巾を取り出すと、陸遜は水差しの水でそれを湿らせ、に手渡した。
「目が、真っ赤ですよ」
 ふふ、と可笑しそうに笑う陸遜に、は頬を染めた。
 呂蒙は、一件落着した騒ぎの顛末に、自分が一切関われなかったことを恥じた。
 ただの傍観者ではないか。
 学を積んで少しはマシになったと思っていたものを、依然として何も変わっていないのだと知らしめられたようで、呂蒙は複雑な気持ちになった。
「呂蒙殿が、いち早く殿を室に運んで下さって良かったです」
 陸遜は、突然何とも無邪気に呂蒙を讃えた。
「この騒ぎが他に漏れでもしたら、殿の涙は決して止まらなかったでしょうからね。さすがは呂蒙殿!」
 いや、俺は、とごにょごにょと言い募ると、が呂蒙をちらりと見上げた。
「ありがとうございまふ……」
 口元に手巾を押し付けているのでくぐもって聞こえる。次いでは立ち上がると、呂蒙に向かって頭を下げた。
 呂蒙は、慌ててを制止した。何もしていなかったからだ。頭を下げられる由縁はない。
「その……まぁ、遠慮することはない、落ち着くまで、此処で休んでいくといい」
 逡巡するように首を傾けるに、呂蒙は重ねて薦める。
殿、そのように泣き腫らした目では、何事かあったのかと疑われかねませんよ。ここは一つ、呂蒙殿のご好意に甘えてみては如何ですか」
 陸遜が駄目押しして、やっとは頷いた。また呂蒙に礼を述べ、腰を落ち着かせる。
「……殿とのお約束の時間まではまだ間もあることですし、気晴らしに私と何か話でもいたしませんか?」
 うきうきと弾むような陸遜の声に、呂蒙は唖然として陸遜を見つめる。
「あ、呂蒙殿はどうかお気遣いなく、職務にお励み下さい! 邪魔にならぬよう、静かに話しております故!」
 素で言っているのか何なのか分からないが、陸遜は卓を持ち上げると、室の片隅までいそいそと運ぶ。に手を差し伸べると、椅子を片手に卓へと導き、ご丁寧に、が呂蒙に背中を向けるように椅子に掛けさせた。
 陸遜は、もう一つの椅子を取りに戻ってくると、何ともいえない顔をした呂蒙に気がついた。
 あ、と何か思い出したように卓に走ると、茶海を捧げ持ち、戻ってくる。
 何だ、と呂蒙が見ていると、呂蒙の空いた茶碗にかぐわしい茶を満たし、にっこりと笑いかけた。
「お仕事、頑張って下さいね。私で手伝えることがあれば、お手伝いいたしますから!」
 そう言いつつも、そそくさとの元に駆け戻り、お待たせしましたなどと言っているのが聞こえてきた。
 これが目当てだったか……。
 常ならば控え目に座している陸遜も、こと諸葛亮関連となると目の色を変える。特に最近では、その愛弟子の登場に刺激されたのか、に対する目の色までもが変わってきたように思えた。
 興奮した陸遜が、の話に熱心に相槌を打つ声が聞こえてくる。
 出来ることならば、一緒にの話を聞きたかったのだが、どうも乗りそびれてしまったようだ。
 呂蒙は仕方なく、溜息を吐きながら積まれた稟議の竹簡に手を伸ばした。
 気を入れるべく一気に煽った茶は温く、少し渋かった。

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