分からなくなるといけないだろうから。
 そう言って陸遜は自らを室まで送る役目を申し出た。
 職務もあるだろう、申し訳ないからとは固辞したが、陸遜はどうしても引かなかった。
「お分かりになるのですか?」
 鳶色の瞳で覗き込むように問われると、確かに自信がない。仕方なく、陸遜の好意に甘えることにした。
 呂蒙にも礼を言い、改めてお礼に来るからと申し出ると、呂蒙は軽く笑って、だが申し出を断ることはなかった。
 隣にいた陸遜が、やや渋い顔をする。
 呂蒙は、咳払いをして何やら誤魔化した。
 は二人の遣り取りに、何か嫌な予感を覚えながら口には出さなかった。わざわざ確認して薮蛇になるのはごめんだと思った。

 陸遜と共に室に戻ると、春花は一瞬驚いた顔をし、ついでむっつりと顔を顰め、さらに取ってつけたような笑顔を浮かべた。
「さぁ、さま、お時間がございません。早くお着替え下さいませね」
 陸遜が室を辞すと、その足音が遠ざかるのを見計らって春花はに飛びついた。
さまっ、いったいこちらで何をなさっておいでだったんですかっ!」
 聞けば、がいなくなった後しばらくして、甘寧が手下を連れてやってきたのだと言う。とても不機嫌そうに無言で室に入ってくると、の文官の装束を置いていった。
 如何いうことかと問いただしたくても、あまりの不機嫌ぶりに恐ろしくて声も出ない。
 その後孫策がやって来て、の居場所を尋ねられたが春花が知るわけもなく、甘寧に連れ出された後何処に行ってしまったか見当もつかない。
 甘寧は手下だけを連れていたから、甘寧と一緒というわけでもないだろう。
 同盟国君主の嫡男直々の来訪に、春花は縮み上がった。
 そこへ、孫権が顔を出してきた。
 孫策の顔を見て、あっと声を上げたが、孫策が何事か告げると、共に室を去って行った。
 何なんだと思っていたら、今度は都督の周瑜が出向いてくる。
 小喬からだと朱色の組紐を手渡され、おたついている所に凌統とかいう将が顔を出した。小喬殿がお探しでしたよ、と告げると、周瑜の顔に組紐の色が移ったように朱が差した。
 凌統は春花を一瞥すると、やはり不機嫌そうに退室した。
 朝から昼前の僅かな時間で、これだけの人間がの室を訪れた。
 今までは、呉でのの生活など、蜀の国政に関わるということもあってあまり興味も示さなかったが、来た男のほとんどが馴れ馴れしく『』と呼び捨てていることに、春花はある種の恐怖を感じた。
 が、男を惹きつける悪い癖をだしたのではないかと思ったのだ。
「……いや、悪い癖って、何も私がそう仕向けているわけじゃあるまいし」
 孫策以外は誤解ではないかと思われるのだが、春花はまったく引かなかった。
「いいえ、絶対そうに違いありません!」
 色に狂った馬鹿な男達にが汚されることにでもなったら如何しよう、趙雲に顔向け出来ぬと春花は泣き喚いた。
「もう、さまが隙が大きいのがいけないんですよ! ちゃんと気を引き締めて、世の男達はみんなケダモノなんですからー!」
 じゃあ趙雲もケダモノなのか、とからかい混じりに尋ねると、春花は顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。
 あれあれ、と首を傾げるが、春花は突然腹を立てたように目を剥き、『お支度です』と吠えるが早いか、の手を引っ張った。

 久し振りに戻ってきた文官の装束に袖を通し、孫堅の迎えの使者に応じて執務室に向かう。
 いつも通り使者は元来た道を辿って帰って行き、だけが残される。
 声を掛けて中に入るが、執務の机には孫堅の姿はなく、積まれた竹簡が手付かずと思しきままに取り置かれていた。
 隣室にも人影はない。
 先日の部屋を覗いてみると、やはり孫堅はそこに居た。今日は窓を大きく開け、風通りを良くしている。日陰のせいか、割合涼しかった。
 孫堅は、読んでいた竹簡を傍らに置くと、に向かって微笑みかけた。先日の調子の悪そうな顔付きは鳴りを潜め、いつもの何を考えているか分からぬ孫堅に戻っていた。
「お仕事でしたら、待ってますけど」
 の申し出に、孫堅は竹簡で肩をとんとんと叩いて見せた。
「いや、これはただ単に暇潰しに読んでいた兵法の書だ」
 暇なら仕事しろよ。
 思わず口に出かかったが、むっと唇に力を入れて堪えた。
 孫堅は、可笑しそうに笑うと、を手招きして隣室に戻る。
 手を打つと、奥から音もなく盆が捧げ持ち込まれ、色彩豊かな食事の皿が並べられる。
 軽く遣り取りしながら食事が進み、食後のお茶までとんとんと進む。
 もう、孫堅が相手だからと緊張することもなくなった。
 いいのか悪いのか分からないが、これから長い付き合いになるかもしれない。ならば、無用の緊張はない方がいいかもしれない。
 考え込むを目敏く観察しながら、孫堅は口元に微笑を浮かべた。
「……何か、俺に言いたいことがあるのではないか?」
 ずばりと切り込んでくる問いに、は驚き過ぎて、逆に平静に受け答えが出来た。
「別に、今は」
 代わりに、本音が出た。
 今は、まだ、孫堅に直接話をする時期ではないだろう。
 孫堅は、そうか、と呟き、茶を満たした碗の中を、じっと覗き込んだ。
「……俺に話す気になったら、何時でも俺を訪ねるといい。俺は、お前の願いなら大概のことは聞いてやるつもりだ」
 では、劉備を国許に帰してくれという願いは、その『大概』の中に入っているのだろうか。
 入ってないだろうな、と思いつつ、は温い茶を啜った。

 尚香の元を訪れると、意外にも機嫌良くにっこりと笑って出迎えてくれた。
 昨日の詫びを述べようとすると、いいから、と制され、手招きされて奥に進む。
 何だろうと思いつつ後に続くと、突然背後から羽交い絞めにされた。
「しょ、尚香様?」
「……昨日、何処に行っていたか白状してもらうわよ〜?」
 耳元に低く、囁くような尚香の声。は思わず身を強張らせる。
 言える、訳がない。
 昼からずっと、孫堅の腕の中だったなどと言えば、あらぬ誤解を受けかねない。何もなかったのだ。だが、腕に巻き締められていただけとは言え、その胸に抱かれていたのは事実である。孫堅が寝惚けていたにせよ何にせよ、目覚めた後にしっかりと反応していた下半身の感触が蘇り、総毛立つ。
 実の父親のそんな『お茶目』なご乱行を、娘である尚香に聞かせてはなるまい。
「ははぁ、白状しないつもりね。そうでしょ?」
 許さないわよぉ、とにやりと笑う尚香は、何処か楽しそうだ。
 影からぴょこん、と二喬が顔を出した。
「尚香様、ホントにやるんですか?」
 大喬が不安そうにを見る。
 何をする気かと、まで不安になった。
「やるわよ! だって、許せないもの!」
 いつもいつも私達が男達の煽りを食うなんて納得いかないもの、と尚香の鼻息は至極荒い。
 煽りを食うというなら自分こそが最も煽りを食っている気がするが、如何なのだろうか。
 ややげっそりしながらが投げ槍に考えていると、突然背後の尚香がの耳にそっと息を吹きかけてきた。
「やっぁん!」
 びくん、と体を竦ませて、甲高い声を上げるに、仕掛けた尚香が驚き固まる。
 その隙に、は慌てて尚香から逃げ出し、壁にべったりと張り付いた。
「な、なな、何するんですか尚香様ーっ!」
 涙を浮かべて喚くを、面白いおもちゃを見るような目で尚香は繁々と見つめた。
「うわぁ、ホントにって、耳弱いのね!」
「だ、誰に聞いたんですか、そんなこと!」
 内緒、と笑いながら、尚香はじりじりと詰め寄ってくる。
「さ〜ぁ、如何するの、。言うの? 言わないの?」
 言わない。決めたのだ。
 しかし、誰の為かと言えばそれは尚香の為で、その尚香がこうして白状しろと迫っているのは何ともし難い矛盾に感じた。
 踵を返して逃げようとするを、尚香は再度羽交い絞めして取り押さえる。
「言いなさい?」
 にっこりと笑う尚香の手が、今度はの乳房を鷲掴みにする。わやわやと揉みしだかれて、は悲鳴を上げた。
 尚香は容赦なく、更に耳朶をちろりと舌で舐めた。
「やっ、あっ、あっ」
 ぶるりと震えるの反応に気を良くしたのか、尚香の手付きが力の篭った乱暴なものになる。
「うっ、うわぁん、尚香様、何してんですかーっ!」
「言・い・な・さ・い」
 わざと区切って耳元に囁くことで、の耳に短い間隔で吐息が触れる。
 何の為に、黙っていると思って、ああ、やっぱり言えない。
 唇を噛み締めたに焦れたのか、尚香はの肩から袖を抜き始める。
 頬を染めてただ見つめているだけの二喬は、思わず顔を手で覆った。と言っても、目だけはしっかりを見つめているわけだが。
「うわぁん、何なさってるんですかーっ!」
 直接胸の柔肉に触れようと手を伸ばす尚香に、は決死の拒絶を試みる。
「おとなしくホントのことをしゃべりなさい! そしたら許してあげるから!」
 暴れているうちにの乳房の朱の飾りがちらちらと覗くようになり、見えるか見えないかの卑猥な境界線に二喬がきゃあきゃあと悲鳴を上げた。
 女であっても、妙に視覚を刺激されてしまう。の肌は思いのほか白いので、尚更朱色との相対が際立つのだ。
「何の騒ぎか!」
 突然踊り込んできたのは劉備であった。
 背後に趙雲と馬良が続く。
 三人とも、女同士の組んず解れつの様に、唖然として動きを止めた。
「……あ、あの、玄徳様、これは違うのよ?」
 慌てた尚香が勢い良く手を離すものだから、の襟に指が引っ掛かって綺麗に剥いてしまった。
 の悲鳴が、高らかに屋敷内に響き渡った。

 壁に向かってえぐえぐと泣きじゃくるを、劉備や尚香達は申し訳なさそうに横目で見遣る。
 まだ股間でなくて良かったじゃないか、等と軽口を叩ければ良いのだろうが、下手なことを言っての機嫌を損ねるのはまずいと自粛している。
「……えー……昨日、が尚香の元へ来なかったのを、問い詰めよう、ということになった……のだな?」
 話を整理しようと、劉備が重い口を開いた。
 居た堪れないでいた尚香が、飛びつくように口を開いた。
「そうなの! でも、力尽くで白状させるわけにもいかないでしょ? だから、権兄様から聞いた、『耳が弱い』っていうのを利用して……」
「ちょっと待って下さい」
 それまで泣きじゃくっていたが、突然くわっと目を剥いた。
「何ですかそれ、何で孫権様が私の弱点知ってるんですかっ!」
「え、何か、策兄様に教えてもらったとか何とかって」
 の拳が床を叩く。
 あまりの音の大きさに、その場に居合わせた皆がぎょっとしたが、惜しむことなく最大限の殺気を放つに、皆が皆見ない振りをした。
 大喬だけは、恥ずかしそうにそっと頭を下げた。
「しかし、尚香……少し、やり過ぎでは……」
 こほんと咳払いし、やはり恥ずかしそうに頬を染める劉備に、尚香も素直に首を竦めて詫びる。
「ごめんなさい、玄徳様……の反応が、あんまりいいから……」
 それはそれでどーなんだ。
 は無言の突っ込みに、趙雲がやや呆れたように目を向ける。仕草もつけていなかったので、そこら辺は以心伝心という奴だろう。
、お前も、本当に昨日は何処に行ってたんだ」
 正直に話しなさいと劉備に言われ、はうっと言葉に詰まる。
 さすがに君主の問いには答えざるを得ない。渋々、孫堅のところにいたとだけ白状した。
「でも、探しに行かせたのよ? いなかったって言ってたけど」
 そこでは、孫堅の執務室には普段は隠してある部屋があり、そこにずっと居たのだと説明した。
「居たなら、返事すれば良かっ……」
 尚香の言葉は、途中で急速に尻すぼみになり、途切れた。代わりに、顔を真っ赤にしている。
 が周りを見渡すと、皆、程度の差はあれ似たような反応を見せている。
「……違いますっ!」
 ぎゃあ、と吠えながら、は床を叩く。
「違う違う、違いますからね! そ、そりゃ、寝惚けてた孫堅様にとっ捕まってましたけど、でも、何にもなかったですからねっ!」
 あー、そー、と尚香は妙に含みのある反応を見せる。
「ち、違うったら! 子龍、子龍は信じてくれるよね! ねっ?」
 それまで唯一無反応だった趙雲が、の叫びを受けて重々しく頷く。
「確かに、誰かに抱かれた形跡はなかったな」
 でしょでしょ、ほーらー! と快哉を叫び皆を見渡すだったが、肝心の皆の反応は更に余所余所しい怪しい雰囲気と化していた。
 え、あれ、とは数瞬悩み、その後、『孫堅とはしていないが趙雲とはした』と自ら認めたことをようやく理解した。
 の悲鳴が、再び屋敷内に木霊した。

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