どうしようか、と考えている。
 朝起きて、食事と身支度を済ませ、庭に出てうろうろとしていた。
 傍から見れば呑気な光景だろう。
 けれど、の心は重く沈んでいた。
 蜀に帰りたくないと言えば嘘になる。帰っていいものなら帰りたい。
 だが、劉備がこの国に留まることが、日が経つにつれ両国の緊張を増すことになると理解している。
 姜維が、行かないでくれといって泣いた。
 その涙の重みを考えれば、自分がここに留まることくらい何ということもないように感じられた。
 感情が、激しく浮き沈みしているのである。
 今は何となくいいや、と思っていても、数瞬後には帰りたいと泣き喚いているかもしれない。
 己の心すら定められない人間に、諸葛亮は何を期待しているのだろう。
 殿を、帰してあげなくちゃ。
 どうしようか、と最初の考えに戻る。
 まず、呉の中で劉備を蜀に返してやろうと考えてくれる、実力者に当たろうか。
 でも、姜維の示す強硬姿勢で呉の内部も大分揺れている。その内情を探る方が先だろうか。
 ならば誰に当たろうか。
 孫策がそこら辺の細かいところを知るわけはない。知っていても、そうだと理解しているか甚だ怪しい。
 二喬が政策に携わらない位置にいるのは知っている。彼女達は軍を預かってはいるが、時折進言する程度らしい。
 呂蒙は、優しいけれどそれほど親しいわけではない。それに、軍規に厳しいから内情など漏らさないだろう。
 陸遜は若輩ながら、既に軍師として頭角を現している存在らしい。切れるから、逆にを利用しようとするかもしれない。
 孫堅に当たるのだったら、最後だろう。
 考えていくうちに、やはり予想通りに気持ちがずぶずぶと落ち込んでいくのが分かる。
 人を利用して何かをする、という考え方にはどうも馴染めない。
 しかし、何とか呉の人々の誰がどう考えているのかぐらいは、データとして収拾しておきたいところだ。
 池の縁にしゃがみこむと、水面に考え込む自分の顔が映った。
 ぶっ細工な顔してるなぁ、と繁々と見つめる。
 見慣れた顔ではあったが、もう少し目が大きくて、鼻がすっと伸びていて、小顔だったらマシか
なぁ、等と指先でぐにぐにと顔の皮を引っ張った。
 ひょい、と覗き込む人影がある。
 水面に映ったその顔は、孫権だった。
 え、と背後を振り返る。
「……何をしている」
「はひ?」
 孫権が頭を抑えた。
 の指は、未だに頬を引っ張ったままだった。

 どうも、神経が末端まで届いていないのではないだろうか。
 は、自らの手を閉じたり開いたりしながら見つめた。
 普通、ああいう時は無意識にでも手を離すものではないだろうか。
 おかげで孫権にエライ顔を見せてしまった。
 孫策だったら大爆笑してくれるところだろうが、生真面目な孫権はただ額を押さえて対応に困るだけだった。
 笑い飛ばしてくれた方が、まだマシだという時もあるのだ。
 孫権に誘われて、庭に設えられた石のベンチに腰掛けていた。
 今日もいい天気だ。
 多少湿気があったが、風が吹きこんで心地よい。
「お前は……」
 はい、と孫権を振り返る。
 孫権は、自分が話しかけたくせに顔を背けて、所在なさげに指を揉んでいる。
 言葉の続きを待っていると、孫権は何か踏ん切りをつけるように深く息を吸い、吐いた。
「お前は、蜀に帰るつもりなのか」
 が驚いて目を見張る。孫権は、あ、いや、と口篭りながら続けた。
「……兄上がお前を想っていることは、お前も承知の上だろう。それを、無下にして帰るというのなら……私は、お前を許さんぞ!」
 肩を怒らせ、勢いのまま仁王立ちしてを睥睨する孫権だったが、内心では緊張のあまり心臓が破裂しそうな心地だった。
 こんな問い一つに兄を引き合いに出してしまったのも情けなかったし、がもしそれでも帰ると言ったら、どうしようかとうろたえる。
 もし……本当にもしもの話だが、少しでもが呉に残ってもいいような素振りを見せてくれたなら、そうしたら今度こそ気持ちを打ち明けようと決意していたのだ。
 帰ると言われたらどうしようか。ここに留まって欲しいと、きちんと言えるだろうか。
 孫権の気持ちを知ってか知らずか、は憂鬱そうに目を伏せた。
 帰る、と言うつもりだろうか。
 沈黙に耐えかねた孫権が、言葉を紡ごうと僅かに唇を開いた。
「……帰してもらえるんでしょうか……」
 思いがけない言葉に、孫権は愕然とした。
 帰る、帰らないではなく、帰してもらえるのかと逆に問われるとは、思っていなかった。
 どういうことだ。
 孫権の反応もまた、には意外だったものらしく、少し困惑したように孫権を見上げた。
「言え。どういうことだ」
 は逡巡していた。言っていいのか悩んでいるようだった。
 孫権は、の肩を掴むと前後に揺さ振った。そうすることでの口から真情が零れ落ちるに違いないと思ったかのように、激しく揺さ振った。
「言え、早く、どういうことだ!」
 視界の隅に、ふと黒い人影が映り、孫権は我に返った。
 慌ててから手を離すと、人影に目を向ける。
 人影は、周泰だった。
 咎めるわけでもなく、周泰は拱手の礼を取り、孫権の知りたかったことを告げた。
「……呉の中には……劉備を帰すな……と……申す者も……おります……」
 何、と孫権は呻いた。
 次いで、己の迂闊さを呪った。
 ここのところ、にばかりかまけて、家臣の動向に気を向けていなかった。
 極自然、当たり前の話であった。劉備が呉に留まれば、最も高貴な人質を取っているのと変わらないのだから。
 だが。
「孫呉の勇を、何だと思っているのか!」
 策とは、足らぬ物を補い埋める為に使うものであって、無闇と使っていいものではない。
 今、呉には父・孫堅が居り、勇猛なる将でもある兄・孫策が居る。それでも尚、策を弄さねばならぬ必要が何処にあろうか。
 だが、は冷静だった。
「……戦を、せずに済めば、これほど有難いこともないでしょうから……」
 気持ちは分かるのだと、ぽつりと付け加えた。更に、そうすることで両国間の緊張が高まり、それは矢をつがえた弓のように、高まれば高まるほど事が大きくなるだろう予測も足した。
「少し、それこそ小競り合いで発散する方が、まだナンボかマシだと思うんですけどね」
 蜜月が長ければ長いほど、その後に迎える破局は劇的になる。
 は憂鬱そうに溜息を吐いた。
 孫権には意外だったが、で国の情勢なども少しは考えているらしい。能天気なだけではないようだ。
 だからこそ、兄もこの女を得たいと望むのかもしれない。
 胸が、じくりと痛んだ。
「……孫呉に、そのような下らない策を弄する者は必要ない! 私自ら叩き斬ってくれよう!」
 は、今にも飛び出して行きそうな孫権に慌てて飛びついた。
 待て待て、この策を使うのは、ホントだったらあんたのはずだろう!
 所変われば品変わると言うが、如何に孫堅・孫策の両名が存命のこととは言え、何とも笑えない話である。
 を引き摺るようにして、孫権は前進を続ける。
「……離せ、無礼者め!」
「って、ちょ、周泰殿も止めて下さいよ!」
 振り返った先で、周泰の口元がわずかに綻んでいるのをは見てしまった。
 思わず呆気に取られて、孫権を引き留めていた手から力が抜ける。
 孫権は、急に抵抗がなくなった反動で転びかけ、は思いっきりこけた。
「な、何をするか!」
 恥ずかしさも手伝って、孫権は思わずに当たる。
 は顎を痛打してしまい、勢いで舌を噛んでしまったらしい。口の中に鉄錆びの味がじんわりと広がる。
 ぺたりと座り込んで、半べそで口元を押さえているに、孫権は我を忘れて思わず駆け寄り、の前に膝を着いた。
「どうした、口の中を切ったのか」
 見せてみろ、と言いつつ口を覆う手を外させる。
 は困惑したように背を反らせて孫権から逃げるような素振りを見せたが、孫権の真剣な眼差しに気圧されて恐る恐る舌を見せた。
 独特の艶かしい赤に、濃い赤が滲んでいる。
 小さな傷だったが、孫権は引き寄せられるようにその赤に魅入った。
「?」
 ふ、と小さな吐息の音に我に返った孫権は、思わず赤面した。
 の目が、不思議そうに孫権を見つめている。
「……傷は、たいしたものではない。唾でもつけておけ」
 誤魔化すように言ってから、自分が訳の分からないことを言ったことに気付き、更に赤面する。
 だが、はおとなしく頷くと、舌を唇の中に引っ込めた。
 周泰の口元が、わずかではあったが、緩い弧を描いているのに孫権は気がついた。
 耳の裏まで赤くして、孫権は周泰の字を吐き捨てると、踵を返してその場を去る。
 は、慌てて拱手の礼を取った。
 周泰が孫権を追いかけつつ、に目配せを送ってきた。
 その目配せの意図がまったく読み込めず、きょとんとするを置いて、二人の姿は初夏の青々とした繁みの向こうに消えて行った。

「……孫権様……」
 しばらくずんずんと歩いている内に、歩幅の大きい周泰が追いついてきた。
 孫権のすぐ斜め後ろに立つ周泰に、孫権は、小声だったが文句を垂れた。
「笑うな、幼平」
 私とて、馬鹿なことを言ったという自覚はあるのだ。
 羞恥から、勢い任せでその場を立ち去ってしまったが、もう少し話を聞いてやれば良かったと後悔している。
 の悩みは国家間の悩みであり、打ち捨てて置いていいものではなかった。何より、この話は兄・孫策よりも孫権の方が上手く采配できるだろうと思われたし、実際そうだったろう。
 それを自分の一時の感情で放り出してしまった。
 私は未熟だ。
 孫権の後悔はどこまでも深まるばかりだった。
「……良いでは、ありませんか……」
 孫権の歩みが止まる。面に怒りを露にしている。
「何が良いというのだ、周泰」
 の言うとおり、目先の利益に目を奪われ、劉備を拘束することには正直何の益もない。その上、蜀の丞相・諸葛亮直々に迎えを寄越し、更に余裕を見せ付けてしばらくの滞在を依頼されているのだ。
 下手に動けば、孫呉の狭小なことよ、と世の物笑いの種となる。少なくとも、民からの失望は免れまい。
 豪壮足ればこその孫呉である。少なくとも、孫堅の御世はそうでなくてはならぬ。
「……あの女の願い……叶えてやればよろしいかと……」
 周泰は、浅く緩む口元を直そうとはしない。珍しいと言えた。よほど機嫌がいいのだろう。
 対して、孫権は渋い顔だ。
「……いや、しかし……国の大事になりかねんことなのだぞ。そんな……」
 たかだか女一人に対して自分の株を上げようと媚を売るようで、孫権は乗り気にはなれなかった。
 周泰は、珍しく饒舌に言葉を続ける。
「……これは……孫堅様の命でもあります……あの女に恩を売ることは……後の呉の為にも……なりましょう……」
 孫権が、劉備を捕らえたまま帰さぬで良いというなら話は別だ。
 だが、孫権は劉備を帰してやればいいと考えている。の望みと同じなのだ。ならば、その為に力を貸すことは、決して不自然でも作為的なことでもない。恥じることなど何もない。
 事が国の大事と化すならば、尚更臆せず事に当たらねばならない。
 そして、事が大事だと言うならば、見事その難題を片付けた暁には、その功績は取引の材料にもなろう。龍の珠を望むとしても、蜀も無下に否とは言えまい。
 孫権は、周泰の言わんとすることを理解し、同時に上手く乗せられているような淡い不快感に唇を尖らせた。
「お前がそんな策士だったとは、私も終ぞ知らなんだぞ、幼平」
 重々しく頭を下げる周泰に、孫権は口をへの字に曲げる。
「……褒めているのだ! 頭など下げるな、幼平!」
 言われて顔を上げた周泰の口元には、やはり極々淡い微笑みが浮かんでおり、孫権は納得しがたいものを感じて、唇を尖らせて不満を露にした。

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