結局何も浮かばないまま、孫堅との会食の時間になった。
 よく、飽きない。
 目の前で食事をする孫堅の顔を、まじまじと見つめた。
 毎日毎日同じ顔と食事をとって、何が楽しいのだろうか。それは、話をしたりもするが、それも大抵が一方的に話すばかりで、孫堅は基本的に相槌を打つだけだ。質問には答えが返ってくるが、それも長くは続かない。
 君主相手に何を話せばいいか分からず、無難な…天気やその日に見た物、聞いた物の話ばかりになる。
 分からん。
 は首を傾げた。
「熱っ」
 出されたスープを口に含んだ瞬間、刺々しい痛みが舌を刺した。
 火傷するほどではない熱さだったが、考え事をしていたので舌を切っていたのを忘れたのだ。
 家人が青褪めて飛び出してくるが、孫堅はがそれに気がつく前に手で制して下がらせた。
「……どうした?」
 がちろりと舌を出している。子供のような仕草だったが、孫堅はこっそり、艶かしいなと目を細めた。
「ひえ、舌は」
 発音が可笑しいと覚ってか、は恥ずかしそうに口元を押さえた。
「……いえ、ちょっと舌を切ってしまって。うっかり忘れてたもんですから」
 孫堅は立ち上がると、の横に立つ。
「どれ?」
 顎に指を掛けると、が慌てて体を引く。
「い、いえ、孫権様が見て下さって、唾つけとけば治るって言ってましたから」
 ほほう、と孫堅は悪戯っぽく笑った。
 やばい、と椅子から降りようとした瞬間、孫堅の口がの口と重なった。
 口腔に侵入した舌が、の舌をかするように舐めた。
 げ。
 だが、それだけだった。
 が目を白黒とさせている内に、孫堅は何事もなかったように離れる。
「これで、治るな」
 にっこりと笑う孫堅に、毒気を抜かれたが、はぁ、と溜息のような声で応じる。
 何を考えているのだろうか。
 さっさと席に戻り、食事を続ける孫堅の顔を伺う。
 本当に何事もなかったように、不思議そうにを見返す孫堅に、は怒る気力もなくなった。
 この人に頼み事するのは、ホントに最終奥義的究極手段にしよう…。
 決意を秘めて、スープを匙に取ると、息を吹きかけ用心しながら啜る。
 本当に子供のようだな、と孫堅はを見つめていた。
 は、本当に色んな面を見せてくれる。子供であり、母であり、姉であり妹であり良き部下であり文人であり……そして、良き妻になるだろう。
 過去から未来まで、これほど飽かずに楽しませてくれる女は早々居るまい。
 如何にかして、手に入れたい。
 その方法を考えるのも、また楽しい。
 孫堅は、ひっそりと笑みを浮かべた。

 孫堅の元を辞して、孫策の元に向かう。
 蜀の文官がのこのこと邸内をうろついていいものか悩んだが、誰かに会ったら尋ねてみれば良かろう。
 駄目なら引き下がれば良し、良ければ孫策の居所を尋ねてみよう。
 はそう意気込んで、呉の屋敷の中を遠慮なく迷子になった。
 うろうろしていると、太史慈が廊下を行くのが見えた。
「たーいしーじ殿ーっ!」
 大声で呼ぶと、太史慈が振り返る。
 どうもかなり驚かせてしまったようだ。物凄くびっくりした顔をしている。
 が走り出すと、困ったような顔をして辺りを見回した。
 迷惑だったか、と途中で止まり、様子を伺うと、太史慈は苦笑しながら拱手の礼をしてきた。慌てても拱手の礼を返し、再び太史慈を伺う。
「……孫策殿に、御用ですか」
 小さな生物を見つめるような目で、太史慈はを見下ろした。
 が頷くと、案内を買って出てくれた。
 これはいい人に会えたぞ、とがほくほくとしていると、太史慈も緊張が解けたのか、優しい笑みを浮かべた。
 かっこいい顔をしているよな、とがにこにこして見上げていると、太史慈は視線に照れたのか、頬を紅潮させて目を伏せた。
 好漢とは太史慈のようなことを言うのだろう。
 は一人納得して、思い出した。
「私、お屋敷内うろうろしちゃってて良かったですかね?」
 何を今更。
 太史慈は少し呆れたようにを見下ろした。
 二人の背後、が立っていた少し先の扉が、音もなくすっと閉じたのを二人は知らない。

 孫策の執務室手前で、太史慈はに指で指し示した。
 では、と辞する太史慈に違和感を感じる。
「……太史慈殿は、これからどちらへ?」
 どうしても聞きたいと思ったわけではなかったが、何となく引き留めたいと思った。
「俺も、これから執務があります故」
 ああ、それは大変ですねー、と答え、再び背を向ける太史慈にまた声をかける。
「……敬語、使わない約束だったじゃぁないですか」
「そ、そうだったろうか」
 徐々に太史慈に焦りが見え始めた。声も段々小さくなってきている。誰かに聞かれたくないのだろうか。
 と一緒にいるのがまずいのか。蜀の文官と呉の客将が一緒に居るとまずいというのは分からないでもない。だが、それならここまで一緒に来た理由が分からない。
 誰か、というよりは……。
「何してんだ」
 執務室から孫策が顔を出した。
 すたすたと太史慈に歩み寄り、内緒話をするように肩を抱き寄せる。
 おお。
 は、胸の内でこっそり『慈策だ、ひゃほー』と小躍りしていた。慈策の友人に見せてやりたい、と涙したが、生憎携帯もないので写メもできない。
 腐女子の自覚を新たにしたを他所に、孫策と太史慈は何やら揉めている。
「……何か、忙しいなら私は今度でいいよ?」
 太史慈が慌てて孫策の手を振り解き、の前に押し遣る。
「あ、てめぇ子義!」
「……本当に、今は持っておらぬのです! 昼前は訓練でしたから、室に置いて……」
「だったら、今すぐ取って来い!」
 何の話だ。
 が首を傾げ、太史慈を見遣ると、太史慈は困惑したように頬を染める。
 では、と拱手の礼をすると、焦ったように小走りに立ち去っていった。
「……伯符、太史慈殿は真面目なんだから、からかっちゃいかんよ」
 何かろくでもないことを言ったのだろうと踏んで、孫策を叱ると、孫策は頬を膨らませてそっぽを向いた。
「からかってなんか、ねぇ」
 では、何を揉めていたのか。
「あいつ、お前のことが好きなんだ」
「……ははぁーん。さいですか」
 あほなことを言う。
 が適当にいなすと、孫策は怒ったように声を荒げた。
「な、お前、ホントだって! 何だ、その目は!」
 ほほぉーん。
 不信感もたっぷりに、は孫策を白い目で見る。
「もしかそれがホントでも、人の気持ち勝手に言っちゃうのってまずくない? そうでしょ?」
 例えば孫策が誰かに嫌われていたとして、それをわざわざ教えられたら嬉しいだろうか。害意があるわけではなく、ただ単に『あの人、貴方が嫌いなんですよ』と告げられるのだ。
「……嬉しく、ねぇ」
「でしょ」
 嫌っているという人が、何か良からぬことを為そうとしていると教えるなら忠告だ。こうこう、こういう理由で嫌っているのだと言われれば、それもやはり忠告の類に入るだろう。
 ただ、何となくそうなのだと言われても、何の忠告にもならない。
「……でもよ、それは嫌ってるっていうのが嫌なんで」
「言われた当人が嫌か、思っている当人が嫌かの差でしょ」
 勝手に好きだとばらされた太史慈は、嫌に違いない。
 そう言うと、孫策は黙り込んだ。
「……悪ぃ」
 素直でよろしい、とが笑う。
「私も、太史慈殿のことは好きだよ。いい人だし。太史慈殿も、そうなんじゃないの?」
 あんま、いいことしてないけどね。
 けらけら笑うは、孫策の言うことを頭から信じていない。
 孫策は、やや複雑そうな顔をして黙り込んだ。
「……あのさ、伯符……あの……お願いが、あるんだけど……」
 限がいいと踏んだのか、がおずおずと申し出る。
 孫策は、が頼みごとなど珍しいと思いつつ、辺りを見回した。
「……人に聞かれない方がいい話か?」
 こくんと頷くを、孫策は横抱きに抱え上げ、急ぎ己の執務室に飛び込んだ。
 が悲鳴を上げる隙もない。
 手前の室の扉が細く開き、中からうんざりとした面持ちの周瑜が顔を覗かせた。
 溜息を吐くと、諦めたように扉を閉ざした。

 は、孫策が人払いするのを肩に力を篭めて恐縮したようにして見ていた。
 立ち去る文官に、深々と頭を下げてしまう。
「……で、何だって?」
 孫策に促されてもしばらくは口篭っていたが、意を決したように顔を上げた。
「あの……劉備様のことなんだけど」
 孫策は、の申し出が意外だったようで、びっくりしたように目を見開いた。
 話を促すと、行儀悪く卓に腰を下ろす。
「あの……帰してあげて、くれないかな」
 何を如何言おうか悩んで、結局一番間抜けな申し出を口にしてしまった。
 案の定、孫策は眉を吊り上げて、『はぁ?』と聞き返してきた。
「あの、だから、帰してあげてくれないかな。もう、結構長いこと居るし……蜀の皆も、いい加減に心配してると思うし」
 孫策は、急に不機嫌になったように口を曲げた。
「んなの、勝手に帰ればいいじゃねぇかよ」
 わざわざ船の迎えも来ている。持参した食糧が無くなり次第、と期限も定められている。孫堅の命を受けた家臣が密かに手を回しているらしいが、それも焼け石に水で、時間の問題だろう。
 劉備が帰りたいというなら帰ればいい。ただし、は置いていってもらうつもりだ。
 ここ数日、孫策はその手立てを考えていた。いつも頼りにしている周瑜には、今回は打ち明けられない。なので、どうしたらいいのかと一人でまんじりともせず考え込んでいるのだ。
「うん……でもね、呉の人達の中には、劉備様をこのまま呉に留めて、人質にしておいた方がいいって言う人も……いるみたいだから……」
 だから、とは口篭った。
 自分がここに残るから。
 そう言ったら、孫策は協力してくれるだろうか。
 だが、もし否と言われたら。
 は躊躇った。国同士の遣り取りで、果たして自分はそこまでの価値があるカードなのだろうか。
 孫策とて、呉の嫡男なのだ。国益を顧みて、の申し出を蹴ることも十分に考えられる。
 そうなったら、にはもはや切り札はない。
 唯一無二のカードであり切り札は、自身という実に頼りないものなのだ。
 UNOで、最後の一枚にワイルドカードを持っているような気分だ。マーク上がり禁止だったら、上がれもしない。カードを引いて、次に上がれるチャンスを狙わなければならないが、上がれる保障は何処にもない。
 公式ルールなら上がれるのに!
 ろくでもない方向へ考えがずれるのはの悪い癖だ。
 その時、孫策が重い口を開いた。
「頼み方が、違うんじゃねぇか」
 は、はっとして孫策を見上げた。
 何時になく険しい顔をしていた。
 は、自分が如何に考えなしかを思い知った。やはり、孫策は呉の嫡男なのだ。
 けれど、まだ拒否されたわけではない。
 孫策に味方になってもらえなければ、は最も頼りになるカードを失うことになる。
 恥も外聞もない、劉備の、蜀の為なのだ。
「……お願いします、孫策様の力を貸して下さい!」
 は、その場で土下座をした。
 土下座で話が済むなら簡単だとも思う。けれど、自分には他にやりようがなかった。土下座如きと侮られぬよう、誠心誠意で頼み込むしか出来なかったのだ。
 一瞬、孫策は呆然として床に這いつくばるを見下ろした。
「……ば、違……!」
 慌てに慌て、孫策はの顔を上げさせようとするが、は体を強張らせたまま、頑なに土下座を続けた。
「違、違うって! お、俺は……」
「お願いします!」
 は強硬に叫び続ける。孫策は、呆れたような顔をして、床に腰を下ろした。
「わ……分かった、力、貸す! 貸すから、頭上げろよ!」
 がーっ、と孫策は喚いた。
 が恐る恐る顔を上げる。口元が、わずかに緩んでいた。
「……ほ、本当? ですか?」
「あー、もぅ、嘘なんか言わねぇよ! だから、変な敬語やめろ!」
 は顔を上げ、安心したというように満面の笑みを浮かべた。
 畜生。
 孫策は、不貞腐れたように胡坐をかいた。
 まだ、別にを帰すと決まったわけじゃない。劉備を帰すとは言ったが、まだそれだけだ。
 自分を励ますように話を整理し、確認すると、孫策はうし、と大きく頷いた。
 はそれを不思議そうに見ている。横目でそれを認めて、孫策はに向き直った。
「お前なぁ、頼み方って、そうじゃねぇだろうよ」
 は、とが頓狂な声を上げた。孫策は、焦れたように頭を掻き、だから、と話を続ける。
「だから……ほら、アレだ、色仕掛けとか言う奴?」
 な、と同意を求められたは、みるみる顔を赤くさせた。
「何が『とかいう奴』よ、何考えてんだアンタはっ!」
「ば、お前、普通はそうだろ? そしたらお前、俺だって何も考えずに」
「考えなさいよ、バーカバーカ!」
 何という考えなしだ。やっぱり孫策は孫策だ。土下座して損した。
 は、緊張が解れたことも手伝って、孫策をひたすら詰る。
 馬鹿っていう奴が馬鹿なんだぞ、あんたに馬鹿って言われたくない、バーカ、等々、周瑜が聞いていたら情けなさに涙の一つも零したかもしれない低レベルな口喧嘩が続く。
 はっと我に返り、二人同時に振り返ると、扉を半分開けた太史慈が、物凄く困った顔をして覗いていた。
「あぁっ、太史慈殿、閉めないで、閉めないでぇっ!」
 困惑したまま頭を下げ、扉を閉めようとする太史慈に、あまりの阿呆ぶりに見捨てられると危機を察したが悲鳴を上げた。
 孫策は、腹を抱えてげらげらと笑った。
 色仕掛けでなくて良かったかもしんねぇな、らしいぜと考えて、また笑い転げた。
 は泣き喚いている。

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