孫策を味方に引き入れることが出来、とりあえずなんとか最初の梯子を登れた気がする。
 時間がなかったので、自室に顔だけ出して春花に宴前の支度を頼むと、休む間もなく尚香の元へと急ぐ……急がなければならないのだが、足も顔も強張っていた。
 尚香の室の前に差しかかると、廊下に設えられた欄干に、尚香が人待ち顔して腰を掛けていた。
 誰を待っているのだろうと足を止めて見ていると、不意に尚香が顔をこちらに向けた。
 その顔が、ぱっと明るくなる。
 ととと、と駆け寄ってくると、の前でもじもじと身をくねらせている。
 何だろう。
 普段とあまりに違う様に、却って薄ら寒いものを感じる。
「……、あの、まだ、怒ってる?」
 恐る恐る伺ってくるので、尚香はの怒りがまだ冷めていないのではないか、と気にしていたのだと分かった。
 怒ってます、と言っても良かったのだが、の少ない脳味噌のキャパシティは、劉備を如何に安全に蜀に返すかで一杯なのだ。
 まぁ、反省しているみたいだし、いいか。
 大体が口の軽い孫策と孫権のせいであって、とそこまで考えて、ぴたりと止まる。
「しまったぁ―――――――――っっっ!!!」
 尚香がびっくりしてびくりと肩を竦める。
「な、何、、何なのっ!?」
 やっぱり怒ってるの、何なのと繰り返す尚香の目の前で、がっくりと項垂れるだった。

 尚香の悪戯の一件を交渉材料にすれば良かったのだ。
 そうしたら、孫策とももう少し楽に話が進められたかもしれないし、もしかしたら孫権を味方に引き入れられたかもしれない。
「やぁよ、そんなの! 私が恥かくじゃない!」
 思わず膨れた尚香に、恨みがましい目を下から向けると、尚香は軽く咳払いして誤魔化した。
「……まぁ、アレよ、あの、策兄様だけでも味方に出来て、良かったじゃない」
 そらそうかもしれませんけどねぇぇぇ、とはあくまで恨みがましい。
 尚香は大きく咳払いした。
 黙って話を聞いていた大喬は、不安そうにを見遣る。
「……やっぱり、さまも蜀にお戻りになるのですか」
 大喬は、には孫策の元に来てもらい、共に孫策を支えて欲しいと願っている。が蜀に戻れば、二度と呉には戻らないのではないかと心配になっても致し方ない。
 特に、趙雲はともかく、姜維は悪辣なまでにの所有権を誇示して止まない。蜀に連れて帰れば、ひょっとして無理にでもを嫁に迎えてしまうのではないかとさえ思えた。
 は、大喬の不安に対して、卓の上でクロールして応えた。
「ない、それは絶対にない! ……です」
 大喬らは知る由もないだろうが、姜維の奥手ぶりは誰より群を抜いている。口付け一つとて、の了承なしにはしようともしない。目で訴えられることはあっても、姜維からどうこうと言うのはには考えられない。先日のアレはまた、別の話としてだが。
 むしろ私が問題です、先生!
 言わなかったが。
 姜維は、わざと呉の将達に反感を買うように仕向けている。幾許かの嫉妬めいた感情もあるかもしれない。だが、恐らくそれは諸葛亮の策なのだ。煽って煽って、の価値を吊り上げようという策。
 一番辛いのは、姜維なのだ。
 可哀想に、あんな純粋な子が。
 だからこそは、訳の分からないやる気を出して、少しでも姜維の気が楽になるようにしてやりたいと意気込んでいるのだ。
「大姐」
 小喬が、うるうると目を潤ませてに縋る。
「ねぇ、あたしの宝物、ぜーんぶあげる! 着物も、簪も、扇も、ぜーんぶ! だからお願い、帰らないで!」
 の服をぎゅっと掴む手が、微かに震えている。
 何だか可哀想で、は安心させるかのように小喬の手をそっと叩いた。
「……まだ……分かりません。私がここに留まることで、劉備様が無事に帰ることができるなら……」
「駄目っ!」
 今度は尚香が椅子を蹴って立ち上がる。眉を吊り上げて、唇をきゅっと噛み締めている。
 何時になく真剣な眼差しに、も思わず口を閉ざした。
「駄目、は、私と一緒に蜀に帰るんだから!」
 尚香と小喬は、激しく睨み合った。
「何よ、尚香ちゃんは大姐のお話だけが目的なんでしょ! あたしは違うもん!」
「私だって、のこと、とっても気に入ってるし大好きなんだから! が居てくれたら、私、蜀に行っても平気だもの! だから、駄目よ!」
 ははっとした。
 尚香とて、敵地に等しい蜀で、実質人質として扱われるのだ。劉備が如何に尚香を愛していたとしても、他の家臣達が同じように尚香を慕ってくれるとは限らない。
 不安で、怖くて仕方ないだろう。味方は一人でも欲しいはずだ。
 そこら辺が、すっぱりと引っこ抜けていた。
 尚香は、を手近に置きたがっていた。文官就任の挨拶の時も、呉に向かう船の中でも、そして呉に来てからも、尚香はを側に引き寄せようとしていた。
 退屈しのぎに話をさせたかっただけではなかったのだ。
 どうしよう、何て迂闊だったんだろう。
 は自分の考えの足らなさに眩暈がする思いだった。
「……さま」
 大喬がの肩を抱く。
 尚香も小喬も、はっとしてを振り返った。
 鼻の奥がつんとして、水気を帯びる。は、手の平で目の際を押さえると、二人に向けて笑って見せた。
「……ここでしていい話じゃなかったですね、すみませんでした」
 が目を細めて笑うと、潤んだ瞳が瞼に押されて涙が粒となる。
 痛々しい、と誰もが黙った。
「……じゃあ、気分変えて、お話しましょうか。えっと、何処まで話したんでしたっけね」
 何せ邪魔が入るし、昨日は尚香様がご乱行でしたし。
 名前を出されて尚香が膨れる。
「だ、だってホンットーに後回しにされちゃうんだもの、頭に来ちゃって……」
「はいはい、申し訳なかったです……でも、文句は寝起きの悪いお父君に仰って下さいね」
 頑張って解こうとしても、全然解けなかったんですから。
 苦々しい顔で思い出しているに、尚香はふと思いついたように尋ねる。
「……ね、って、誰が本命なの?」
 ぶはぁ、と盛大に何かを吹き出すと、は激しくむせた。三人の美女にけったいな物を吹きかけないように、ぐりっと腰を捻ったのもかなり辛い。
 大喬が背中を摩ってくれたが、はまるで老婆のようにぜひぜひと呼吸を荒げた。
「こ、殺す気ですか……」
 尚香は、慌てて手を振り否定する。
「そ、そんな訳ないじゃない! だって、そうしたら本命の居る国にも一緒に行けばいいじゃない?」
 それなら恨みっこなしでしょ、と小喬に話を振ると、小喬もうむうむと納得したように力強く頷いた。
「……は、やっぱり趙雲でしょ? こっちに来てからも、何回かしてるみたいだし」
 は顔面から卓に突っ込んだ。
 リアクションがオーバーなのだ。しかし、わざとやっている訳でもないので、自分でも制しようがない。
 鼻より額が先に痛くなる現実が悲しかったが、何より悲しいのは痛みに声も出ない間に、三人がどかどかと盛り上がってしまったことだった。
「な、何で尚香ちゃんがそんなこと知ってるの!?」
「ふふーん、火のないところに煙は立たずよ」
「そ、孫策様だって、さまのところに時々伺ってらっしゃいます!」
 ええーっ、と尚香と小喬がハモる。
「やるわねぇ、兄様も。最近、少しは真面目に書簡に目を通しているのも、そのせいかしら」
「そう言えば周瑜様も、孫策様は変わった、悔しいが大姐のお陰だって言ってたよ」
「でしょう、孫策様は、さまの為にも頑張ってらっしゃるんですから!」
 が、ちょっと待ってとゼスチャーを送るが、三人は気がつかない。
「あ、でも何か父様も、全然仕事しなかったのがちょっとはやるようになったって、黄蓋が言ってたわ。これも、のせいなのかしら」
「だっ、駄目です、さまは先に孫策様が」
「そうだよ、それに孫堅様じゃ、大姐とは年が違い過ぎない?」
 孫堅は幾つだったかという話で盛り上がり出した。
「……確か38ではなかったかと……」
「ああ、そうよ38よ、凄いわ、さすが蜀の誇る文官よ!」
 いったい何時から何時まで38なのかが問題だと思うんですけどね、とは密かに突っ込んだ。
さまとは、やっぱり年が離れ過ぎてませんか?」
「でも、私と玄徳様だって似たようなものよ…いいのよ、父様は候補に上げなくて。誰、父様の話なんかしたの」
「尚香ちゃんだよ〜!」
「えー、私しないわ、そんな話!」
 盛り上がってまいりました。
 は自棄になって、いいやもう言いたいこと言ってくれと投げ出した。
「でもさ、何か甘寧様とかだって大姐のこと、狙ってるんじゃない?」
 待てい。
 投げ出そうと決めた矢先にとんでもない方向に話が向かい、は慌てて飛び起きた。
「だ、駄目よ駄目よ、さまは孫策様が」
「そうよ、それに、は玄徳様命なんだから!」
「ええー、何で劉備様なのー! そんなら尚香ちゃん、劉備様が大姐のこと妾にするって言ったら耐えられるのー?」
「た、耐えられるわよ! 私は、となら玄徳様を支えて……あ、結構いいかも」
「だっだっ、駄目です、駄目! さまは私と一緒に孫策様を支えるんですから!」
「陸遜様とかは? 周泰様なんか、大姐に好きって言われて、まんざらでもなかったみたいだけど」
「いいのよ、男は本命一人いれば!」
「だから、さまは孫策様と」
大姐はみんなの大姐なんだから、みんなにもててた方がいいじゃない」
「ははーん、じゃあ、周兄がのこと好きになったらどーするの?」
「そ、そんなの、あるわけ…!」
「わっかんないわよぉ、周兄だって、男だしねー」
「そっ、そしたら、いいもん、あたしだって大姐と一緒に周瑜様支えて」
「だから、さまは孫策様のものなんですっ!」
 ばんばんばんばんばんっ!
 卓を激しく叩く音に、白熱していた議論がようやく静まる。
 振り返った三人の視線の先に、が半目で三人を睨めつけていた。
「……いっそ、南蛮で象と戯れる」
 ぼそりと呟かれたの一言に、三人の金切り声が木霊した。
 今日も今日とて何事かと飛び込んできた劉備の目に、虚ろな目で宙を睨むの体に取り縋り、ごめんなさいごめんなさいと謝り続ける三人の美女の姿が映った。
「……如何したと言うのだ、
 訳が分からず、劉備は騒ぎの中心と思しきに尋ねるが、は低い声で、さぁぁ、どーしたんでしょうねぇぇぇと何時になく投げ槍に答えるのみだった。

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