明日、伺ってもいいですか?
 宴の最中、がこっそり耳打ちしてきた。
 それは、呂蒙が小用に立った時、偶然と廊下で出くわした時の話だったから、きっと他には誰にも聞かれてはおるまい。
 呂蒙に否やはない。時間は、朝餉のすぐ後ということになった。その時間ならば来客の予定もなく、呂蒙は執務に従じる予定だったから、ちょうど都合が良かった。
 は、酔って紅潮した頬を、柔らかく緩ませた。
「良かった」
 ほっとしたような口振りに、何故だか焦りに似た物を感じた。何故だ。
 が立ち去っていくのを呂蒙は何気なく眺め、もまた小用に立ったのだとはっと思い当たり、赤面した。
 当たり前の話だが、とて人間なのだから、尿意くらいは覚えるだろう。
 だが、呂蒙の脳裏にはが薄暗い便所にしゃがみ込む、その円やかな白い腿と尻の線が如実に映し出され、堅物と噂の己が何と破廉恥な、と自らの頭を小突き倒した。
 どうも、最近の己はらしくない。
 脳裏から邪念は取り除けたものの、惑乱と動揺からすっかり気疲れしてしまった呂蒙は、肩で大きく息を吐いた。
 に邪想している。これはもう、隠しようもない事実だった。
 柔らかな恋の歌に慰めを感じ、理知的な物言いに憧れを禁じ得ず、激しい感情の揺れに心を揺さぶられる。
 南方の女と言うのは、こうも情が深く激しいものなのかと翻弄されるばかりだ。
 空を見上げるが、月は厚い雲間に隠され、気を晴らしてはくれなかった。
 
 呂蒙がその不穏な噂を耳にしたのは、朝餉の時間である。
 軍の中に密かに配置しておいた手の者が、蜀との同盟に反対していた者達が、酷く活発な動きを見せていると密書を送ってきた。
 どのように何を為すつもりなのか、具体的な方法などはまだ掴めてはいないらしい。
 呂蒙は、今しばらくは静観、いざとなれば各自判断にて行動するも止むを得ず、と短く認め、返書とした。
 今、同盟が崩れるのはまずいのだ。魏の脅威は抑えがたいものとなっている。
 有り得ないとは思うが、蜀と魏とが手を結べば事は更に重大だ。魏は、と言うより曹操は、君主孫堅に一方ならぬ警戒心を持っている。
 例えば……有り得ないとは思うが……蜀がを魏への使者として遣わしたら。
 曹操は、恐らくの才を見抜き、惚れ込むに違いない。
 才、と言うものに関しては、恐ろしいほど貪欲な男なのだから。
 ぶるり、と呂蒙は身震いした。あの男に見込まれる恐怖はただものではない。魏と言う国は、それに耐え得る鋼の神経と強靭な自負を持ち合わせている者しか居られない国だ。
 気は強くても、心優しい、繊細な面を併せ持つには耐えられまい。
 には、この解放的で自由な気質の若い孫呉という国こそが相応しい。伸びやかに、奔放に、歌い舞い踊り笑んでいれば良いのだ。
 その為ならば、俺とて如何な努力も惜しむまいぞ。
 気負って考えているうちに、国の大事が一人の女の話に変化してしまった。
 呂蒙は咳払いして自分の甘い感傷を打ち消すと、止まっていた食事の手を再開させた。

 食事を済ませ、人払いをし(蜀の文官と二人で会っているのを見られるのはあまり良くないだろうと言い訳して)、一向に読み進められない書簡に目を通している時に、来訪を告げる声がした。
 呂蒙は、渋い顔をした。
 何となれば、訪れたのが陸遜だったからだ。
「……そんな顔をなさって、どうされましたか」
 知らぬ振りで中に入ってくる陸遜に、呂蒙は正直肩を落とした。普段付いているはずの文官がいないことからして、察してしかるべきだろう。
 また陸遜にを持っていかれる。陸遜は若く機知に富み、出自も良い美しい青年だ。
 そもそも己と比べるのが愚かしいのだが、女から見てどちらが如何と見えるかの結果は歴然としていた。
殿は、そのような方ではありますまい」
 まるで心を読んだのだと言わんばかりに、陸遜はふわりと微笑んだ。
「むしろ……私など、避けておられる節がありますよ。諸葛亮先生のこともあってのことかと思いますが、なかなかどうして、気は晴れぬものですね」
 微笑に、寂しそうな影が落ちる。
 陸遜のような者でもそう思うのだろうか。から見れば、陸遜は年若で今一つ乗り気になれぬのかもしれない。だが、強いてあげればという話であって、他にが陸遜を拒む理由などありそうにも思えなかったのだが。
 陸遜が、くすくすと笑い出した。
「いやですね、呂蒙殿。私が殿を得たいと望んでいると思っておられるのですか?」
 違うのか。
 陸遜の笑みはますます深くなった。
「いえ、仰る通り、叶うのならば是非そうしたいと望んでおります。けれど、呂蒙殿。そんな、あからさまに喜んだり落胆なさったりしていては、呂蒙殿もまた、殿を強く欲しているのだと知れてしまいますよ」
 そう言って笑う陸遜に、呂蒙は顔を赤らめた。
「それはそうと、噂はお聞きになられましたか」
 不意に、陸遜が真剣な面持ちに戻って呂蒙を見つめる。
「……反劉備、反蜀の者達の話か」
 陸遜は、こっくりと頷いた。
「話が、漏れ過ぎている……そう、お考えになられませんでしたか」
 この手の騒動は、予め目を付けられていた者達が、頻繁に集ったり書簡をやり取りするようになる所から始まる。そこを早期に発見し、騒ぎが起こる前に取り押さえられれば御の字だが、事が起きてから鎮圧と言うことの方がむしろ多かったように思う。蟻の一穴から崩れるように運良く密告者が出て、何とか未然に防げるといったこともあったが、だからこそ相手も用心し、企みに加わる面子を厳選、あの手この手を駆使し、企みのたの字も匂わさずに隠密に事を進めるのが道理だ。
 それが、今回に限っては噂として先行して広まってきている。誰が、とも、何を、とも知れぬままにだ。
 逆に怪しい。
 陸遜はそう踏んで、呂蒙に相談に訪れたのだ。
「……今現在、目を付けられている反劉備派の者達は、単なる見せつけの飾りに過ぎず……本命が、どこぞにいるのではと思うのです。そこで、少し探らせてみたのですが……」
 呂蒙ですら噂を知ったのは先ほどだ。さすがは陸遜、年若とは言え出自を利用した情報網を駆使しているのだろう。
 だが、陸遜にしては珍しく歯切れが悪い。いつまでも口篭っている。
 どうした、と先を促すと、罰の悪い顔をして呂蒙を見遣る。
「……実は、渦中に周瑜殿の名が……」
 呂蒙の目が見開かれた。
「馬鹿な!」
 確かに周瑜は反蜀の立場でいる。孫堅を抱えた呉の勢いならば、蜀を平らげ天下二分と為すが真っ当、と公言して憚らない時期もあった。
 それは、乳兄弟である孫策の妹、尚香を嫁入りと言う名の人質に差し出す行為に反感したからと言っても過言ではなかったはずだ。
 尚香自身が周瑜を宥め、劉備の元に自ら輿入れを希望して以来、周瑜は反劉備の態度をやや軟化させていた。
 それが、虚偽だとしたらどうなるか。企みを偽る為の嘘だとしても、誰も否定は出来なかろう。
「……だから、なのか。陸遜」
 だから、都督たる周瑜でなく、俺の元に話を持ち込んだのか。
 呂蒙の問いに、陸遜は無言で俯いた。肯定したも同じだ。
 愕然として、呂蒙は椅子に深くもたれた。
 呂蒙の中に、陸遜の話を否定したいと言う気持ちがある。同時に、否定しきれないものも感じるのだ。
 周瑜の諸葛亮嫌いは群を抜いている。蜀攻略も、元々は周瑜が強硬に支持していた作戦だ。
「どう捉えたら良いのかは、正直私にも計りかねます……しかし、そう言った噂がある以上、事実の確認は必要でしょう」
 陸遜は、あくまで冷静だ。若さゆえの酷薄さが、陸遜を冷静にしているのかもしれない。
 だが、呂蒙に取って周瑜は年下ながら憧れの士であり、目標だった。その周瑜が、このような謀略に加担しているなど考えたくもない。考えられない。
 浮いていた気持ちが途端に萎んでいく。
「……調べなくては、ならん……な……」
 呂蒙は、重々しい決意を秘めた言葉を吐き出した。敢えてそうしなくては、とてもこの暗い沈んだ心で事に当たることなど出来ぬと踏んだ。
 辛そうに歪む呂蒙の顔を、陸遜もまた痛々しく見つめる。
「……まだ、噂が本当のこととは限りません……まず事実の確認をして参ります」
 悟られるといけないから、と陸遜は単独の探索を申し出た。
 それが対周瑜の策ではなく呂蒙に対しての気遣いだと察し、呂蒙は頭を垂れて感謝した。
 今度は、陸遜の顔が歪む。
「……申し訳ありません……」
 最初から単独で調べれば良かったのだ、と陸遜は激しく後悔した。呂蒙の、周瑜への信頼の厚さを軽んじてしまった。
「お前が悪いわけではない。事は重大だ。我ら軍師を兼ねる将同士、力を合わせて事に当たらねば……取り返しのつかぬことになりかねんぞ」
 周瑜を巻き込むことで、将同士の絆を断とうとする策かもしれない。下手をすれば、これこそが諸葛亮、延いては蜀の策略かもしれない。
「魏の、とも取れなくもありません」
 陸遜の意見は至極真っ当だ。呂蒙も深く頷いた。
「では、私はこれで」
 突然話を打ち切った陸遜に、思索に耽っていた呂蒙は驚いて顔を上げた。
 陸遜は、呂蒙には構わずにすたすたと扉に向かい、大きく開く。
 扉の向こうから、の声が聞こえてきた。
「あれ、おはようございます陸遜殿。呂蒙殿に御用でしたか」
 やや焦ったような声音に、呂蒙は平和な日常が戻ってきた感覚を覚えてほっとした。
「ええ、でももう終わりましたので。殿こそ、呂蒙殿に御用ですか?」
「あ、えぇと、はい……ちょっと……」
 ではどうぞ、ごゆっくりと陸遜がの背を押す。
 扉で四角く切り取られた廊下と庭の空間に、がひょいと現れた。
 笑みを浮かべて、拱手の礼をしている。
 陸遜の顔がちらりと見えた。
 今日は、譲って差し上げましょう。
 そんな風に言っているように見えた。
 譲ってもらういわれなどない、元々約束していたのは俺なのだ。
 とは言え、何処か安心しているのも事実ではある。
 陸遜が扉を閉めて立ち去った後も、呂蒙はの顔をまじまじと見つめた。
「? どうか、しましたか」
 が不思議そうに首を傾げている。
 呂蒙は、いや、と小さく否定した。
「それより、先日の礼に来てくれたのだろう」
 は慌てて、手にした袋包みを解いた。
「あまり、いいものが思いつかなくて……お気に召せば、いいんですけど」
 中から出てきたのは白い小さな壺だった。
 のお付の者の家で、香油を調合する者がいるという。
「高価なものを」
 受け取れぬと断ろうとする呂蒙に、も懸命に言い返す。
「お世話になりましたし、私も買ったわけではないんです。春花が…お付の者が、くれたもんで…少しですし、お裾分け、ということで」
 呂蒙は、その小さな壺を困ったように見つめた。
「……実は、な……礼なら歌を歌ってもらおうと、そう思っていたのだ」
 できればそちらの方が有難いと言うと、は目を丸くした。
「何だ……歌だったら、別にいつでも歌いますよ?」
 じゃあ今晩の宴で、と言うのを、押し留める。
「いや、いや、出来れば……此処で」
 は、やはり不思議そうな顔をしていたが、すぐにいいですよ、と軽く応じてくれた。
「どんなの、歌いましょうか。やっぱり、勇壮な感じの?」
 一瞬頷きかけた呂蒙だったが、気を取り直したように頭を振った。
「……恋の、歌を……」
 恥ずかしそうな、消え入りそうな声だった。はにっこりと微笑んで、ええと、と呟きながら頭の中で歌を選び出した。
 静かな旋律が、ゆっくりと流れ出す。
 どうかこのまま、いつまでも変わらずに。
 呂蒙の心情を読み取ったかのような歌詞に、呂蒙は密かに驚いていた。
 はただ、歌うことだけに集中しているようだった。
――気がついているわけが、ないか。
 呂蒙は肩から力を抜き、そっと目を閉じ歌声に身を委ねた。 

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