廊下を歩いていると、後ろから、だかだかと足音が響いてくる。
 足を止めて振り返ると、が小走りに走ってくるところだった。
 周瑜は、その秀麗な眉を顰めてを見下ろした。
「周瑜殿、どちらへ?」
 ぜいはぁと息切れしながら訊いてくる。『美女』というものの定義からは、遠く外れた風情だった。
「……自分の執務室に戻るだけだ」
 そうっスか、と頷くのを無視して歩き出すと、は何故か周瑜の隣を半歩遅れて歩いてくる。
「……何か」
 周瑜が面倒くさげに振り返ると、は一生懸命という風に笑みを浮かべる。
 強張った微笑が滑稽で、周瑜は溜息を吐いた。
「……私と共に居て、貴女は平気なのか」
 手加減なしで殴られた相手だ。そうは見えずとも、そこいらにいる女と変わらない程度の力しか持ち合わせない、それこそ無双の技すらも持ち合わせぬ女だ。
 本人に自覚がなくとも、その体が打ち据えられた恐怖を覚えていることだろう。
 は、案の定苦い笑みを浮かべ、取り繕うように口元を隠した。
 ふにふにと顔の顔をつまんでは揉んでいる。我が意に従わぬ顔の肉を、罰しているかのようだ。
「う、ちょっと、怖い、ですか、ね」
 正直に答えるに、周瑜はようやく薄い笑みを見せた。
「……そうであろうとも。ならば、私には近付かぬ方が身の為だ」
 周瑜は、を諸葛亮の手先と思い込むのは止めた。
 しかし、だからと言って馴染むつもりは毛頭ない。何時かは滅ぼさねばならぬ国の女だ。
「ん、でも、割と安心も、するかな」
 考え考え、周瑜の様子をちらちらと見ながら話すものだから、変に言葉が途切れ途切れになっている。
「安心?」
 周瑜が聞き咎めてを振り返ると、は首をすくめた。無意識なのだろうが、振り返るために体を捻るのが、殴られた時の力溜めの所作と重なって見えるのかもしれない。
「……イヤ、周瑜殿が一番、私の真価を見てくれてるなぁ、というか」
 真価。
 の言っていることが良く分からずに、周瑜は首を傾げた。
 どう話したものかと、は考え込んでいるようだ。それはいいが、周瑜には、何故が両の手の人差し指を己のこめかみに突き当てているのかがよく分からない。
「えーと……あの、良くされ過ぎと申しましょうかー……」
 何度も何度も考えたことだ。
 は、蜀の下っ端文官に過ぎない。それなのに、何故呉の者達は皆、揃いも揃って良くしてくれるのだろう。下手な話、尽くされていると言っても過言ではない。
「思い当たる節がないもんでー……何か怖いといいますか恐れ多いといいますかー……」
 それは、お前が皆に恋されているからだ。
 答えは至って簡単で、馬鹿馬鹿しい限りではあったが他に言いようはない。
 けれど、周瑜はに教えてやるのが何だか腹立たしく、また苛ついたものを感じてしまって、喉元までこみ上げた言葉を無理矢理飲み込んだ。
「……でも、周瑜殿はそういうのないので、何か安心。です」
 それは、私がお前に恋していないからだ。
 周瑜は、やはり言いかけた言葉を飲み込んで歩き出す。が慌てて追いかけてきた。
「……孫策の所に行くのだろう」
 顔も見ずにぽつりと呟く周瑜に、は嬉しそうに笑って頷いた。
 
「駄目だからな、
 何が駄目なのだかさっぱり要領を得ない。
 孫策は不貞腐れたように椅子の上で器用に胡坐をかき、ゆらゆらと揺れている。
 さっきからずっと、『駄目だ』の一点張りだ。
「だから、何が」
「ともかく、駄目だからな」
「だから、何がともかくなのよ」
 いいから、とかどうでも、とか、言葉は変えても続くのは『駄目だ』なのだ。
 も、いい加減にくたびれて口を噤んだ。
「……よく分かんないけど、駄目なのね」
 はいはい、と投槍に返事すると、孫策は口を尖らせてを睨めつけた。
「何で分かんないんだよ」
 そんなら説明しやがれ、とは卓を叩いた。
 当たり所が良過ぎたのか、卓はぱぁんといい音を放ったが、代わりにの手が痺れた。巨大な毛虫が皮膚を刺しながら手を這いずり回るような感覚に、は奇天烈な呻き声をあげた。
「……ばぁか」
 笑いながら孫策が、の手を両手で包む。撫で回されるのが、皮膚の表面を石臼で挽かれているような感覚を生む。
「ひにゃあ」
 孫策は、片手が済むともう片方の手も同じように撫で回す。痺れは治まったが、手がやたらと熱っぽく感じられた。
 痺れたから。
 はそう思い込むことにした。
 恋をするなら、たった一人に決めなくては。孫策は優しい。けれど、その優しさに甘えてしまっては、駄目なのだ。
「駄目、なんだよね」
「? おう」
 の呟きを、孫策は自分への返事だと思ったようだ。一瞬虚を突かれたようにきょとんとしたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「この上周瑜まで名乗り上げてきた日にゃ、さすがの俺も凹むからなぁ」
「は?」
 どうもお互いにずれているようだ。
 は、いやいや、ここで深く考えたら負けになる、と良く分からない理屈を付けて追求しないことにした。
「そういや、ちょっと探ってみたけどよ」
 何を、とは即答する。孫策の目がじと目に細められた。
「おっ前、自分で頼んできたくせにそりゃねぇんじゃねぇのか」
 頼む、って何と言いかけ、はようやく思い当たった。
「え、伯符、調べてくれたのっ!」
 劉備を蜀に帰すのに賛同してくれさえすればいいと思っていたは、思いもかけぬ孫策の言葉に立ち上がった。
 孫策はむっとして卓に顎を乗せた。
「帰してやるのにも、色々あんだろうよ。死体にして帰せって馬鹿もいないわけじゃねぇんだぞ」
 途端に真っ青になって立ち尽くすに、孫策は面倒だと呟きその体を掬い上げた。
「わ、何ちょっと……」
「秘密の話」
 だろ、と首を傾げて見せ、孫策は私室の奥、牀の置かれただけの簡素な寝室にを運ぶ。
 そのまま圧し掛かってくるのを、は慌てて押し留めようとするが、孫策は気にも留めずただ『秘密の話』と繰り返し、の抵抗心を殺いだ。
「こうしてればひそひそ話してたって怪しくねぇし、誰か入って来ても大丈夫だろ?」
 何が大丈夫なんだろう。
 しかし、孫策が手に入れてくれた情報は、喉から手が出るほど欲しい。
 は黙って孫策の為すがままになった。
 抵抗が止んだのをこれ幸いと、孫策は改めての体に圧し掛かる。耳元に唇を寄せ、傍目には本当に睦み合っているかのようだ。
「……あのな、」
 の体がびくんと跳ねた。孫策が一瞬意識を逸らした瞬間に、の体は孫策を押し退け牀の端まで飛び退った。
 孫策は、呆然として顔を真っ赤にしたを見遣る。
「だ、駄目っ! これは駄目、無理っ!」
 手のひらでごしごしと耳を擦っているのを見て、孫策はようやく合点がいった。
「……あ、お前、耳、駄目だったっけか」
 こくこくと猛烈に頷くに、孫策の悪戯心がむらむらと刺激される。
「でもよ、秘密の話だからなぁ、あんま大きな声じゃなぁ」
 がうっと短く呻き、何かを推し測るがごとくに眉間に皺を寄せる。
 脂汗の浮かんだ額に、孫策は笑い出したいのを懸命に堪えた。
「まぁ、お前が駄目だって言うなら、止めとくか?」
 留めの一言には遂に陥落した。
 無言で這いずって戻ってくると、まな板の鯉のようにおとなしく座り込んだ。
「お、お願いします」
 ぎゅっと目を瞑り、膝の上で拳を握り締めている。
 叱られるガキじゃあるまいし、と孫策は面白そうにを見つめていたが、肩を抱いてそっと後ろに横たえた。
「……っ……」
 後ろに倒される瞬間、の喉から微かな吐息が漏れた。孫策の喉がごくりと鳴る。
「ちょっ、何で喉鳴らしてんのっ!」
 の抗議が孫策の耳元に囁かれる。
「つったって、しょうがねーだろ、何か、美味しいしコレ」
 何がだぁ、と呻くに、孫策は無言のまま圧し掛かる。先程は膝を立ててくれていたのに、今度はそれもない。ずしりと圧し掛かる重みに、はうぎゅう、と呻いた。
「……っ、伯符、重いぃ……」
 孫策は、ただでさえ鍛え上げられた筋肉で重い体を、に押し付けるようにして抱き込んでくる。バックルの部分に当たる金具が、柔らかな腹に当たって痛い。
「は、伯符、せめてその金具何とかしてっ!」
 小声ながら悲鳴を上げると、孫策はすぐに応じて金具を外した。
 ついでとばかりに靴も脱いだ。
 上着も脱いだ。
 下も。
「ま、待って待って、何脱いでんのよちょっとっ!」
 脱ぎ過ぎだ、とがわめくが、孫策は熱に浮かされたように無言でに襲い掛かる。
 首筋を舌が這い、柔らかく噛まれて、は孫策に火が点いたことを知った。
「わぁ、ちょっと、は、話はっ! 話!」
「コレ終わったら、してやる」
 何だその愉快な交換条件はっ!
 が吠えるも、うるさいとばかりに孫策が口を塞ぎ、舌を絡められる。濃厚な口付けに意識が飛びそうになるのを、敷布を掴んで何とか耐えた。
 唇が離れ、唾液が口の端から零れ落ちるのにも構えなくなって、は荒く息を吐いた。
 孫策は、と知り合ってからは女を抱くのを止めたと聞いている。変な話、英雄色を好むの例え通り、孫策の我慢は半端ないものだろうなと察せられた。
 ベッドの上の外交、などという言葉が頭を過ぎり、は泣き笑いしたくなる衝動を耐えた。
 未だその気にならぬを陥落すべく、孫策は耳元にとろりと舌を這わせる。
「あっ、ひゃっ、駄目っ!」
 ぞくぞくと鳥肌立ち、孫策の肩に縋ってしまう。
 膝を擦りあげるように身をくねらすは、まるで打ち上げられた魚のようだった。
「すげえ、柔らけぇ。……気持ちいい」
 ぎゅっと抱き込んでくる孫策の腕が熱い。腿の辺りに硬いものが触れ、孫策の昂ぶりだとすぐに分かった。
「な、一回。一回だけで我慢する。な」
 普通は一回でいいもんじゃないのか、抜かずの3発なんて、男に取っては拷問とか聞きましたが!
 の脳みそは状況を冷静に茶化そうとするが、体の方は一向に言うことを聞いてくれない。声を出そうとすれば喘ぎ声になってしまいそうで、意固地に了承の言を得ようとする孫策を持て余した。
 うんと言ってしまおうか。
 そうしたら、孫策は話してくれると約束したのだから。
 何もなしで情報を得ようなど、甘いかもしれない。
 が今にも陥落しようとしたその時、孫策の手が止まった。
 え、とも霞んだ目を孫策の見ている方に向ける。
「あ、あの、お声をかけたんですけど、きっ、気付かれなかったようだったのでっ…」
 大喬が居た。よりにもよって大喬に見られた。
「…ごめんなさいっ」
 身を翻して走り去る大喬を、孫策が慌てて追おうとする。
「ばっ…伯符、下!」
 下帯姿のまま外に飛び出そうとするのを慌てて留め、が代わりに大喬を追う。

 その後、は何とか大喬を捕まえたものの、恥じらいながらも『孫策様のお嫁に来てくれると決心していただけたのですよね』と詰め寄られ、思わずその場に崩れ落ちたのだが、それは大喬と庭の木々だけが見届けたのみの光景である。

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