帰りてぇ。
は、だらだらと廊下を歩きながら考えていた。
帰って、日がな一日のんびりしてぇ。
蜀での暮らしに思いを馳せれば、穏やかな日々がまったく浮かんでこなかった。
いつも馬超や趙雲に翻弄されていた記憶ばかりが蘇る。
結局こことあんまり変わんないのか、と傍らを歩く人を振り返った。
大喬が、きょとんとを見上げてくる。
先程まで、それは興奮して止まなかったのが嘘のように落ち着いた顔をしている。
「……いいですか、約束忘れないで下さいね」
はい、勿論ですと大喬はにっこりと笑う。
花が咲く様にも似たその微笑に、は自分には到底この人には敵わないと思い知らされる。
孫策は、いったい自分の何がいいと言うのか。
「さまも……大姐も、約束忘れないで下さいね」
はぁ、とは不承不承頷いた。
約束とは、こうだ。
劉備達を無事に蜀に帰したら、が帰るにせよ帰らないにせよ、必ず呉に一度戻ってくること。その代わり、劉備達の帰還には大喬も孫策も全力を尽くす。
悪い条件ではなかった。むしろ、を気遣っての精一杯の譲歩と言えたろう。
「私、お義父様に……孫堅様に、それとなく伺ってみますね」
大丈夫なのかと心配するに、大喬は細腕に力こぶを作る真似をした。
「任せて下さい、私、頑張ります」
大喬は突然周囲を見回し、恥ずかしそうにを見上げた。
何だ、と見ていると、手招きされて屈みこむ。大喬は、の耳に手を当て、そっと囁いた。
立ち上がったが、まじまじと大喬を見つめ、もう一度耳を差し出した。
大喬は困ったようにもじもじしていたが、同じことをもう一度に告げた。
「あの、今度、お牀入りのこと、教えて下さい」
おとこいり。
尾と濃い利?
男要り?
音恋里。
脳内変換で様々な漢字が浮かんでは消える。
おとこいり。
「……お牀入り?」
大喬が慌てての口を塞ぐ。
「しっ、大姐、そんな大きな声で!」
物凄く恥ずかしそうな大喬を、横目で見つめる。
そう言えば、この夫婦はまだだったのだ。
「乳母さんとか、居られないんですか」
普通はそういう人から教えてもらうものだろう。だが、大喬は首を振った。
「私達、父より先に母と乳母を亡くしているんです……こちらには二人でお嫁入りしましたし、今の家人のほとんどはその時孫家の方が雇って下さっているので……あまり、そういう話したことなくて」
その手の準備をすると言うなら直前だろう。二十歳で、という約束だから、まだ二三年は先の話だと皆も落ち着いているのではないか。
大喬が今知りたいというのは、恐らくは年頃の好奇心と不安からに相違ない。
あー。
は、どう返事したものだか悩んだ。
それは確かに、旦那本人の相手をしたなら話も確実だろう。
だが、モラル的にはどうなのか。本妻が愛人に『どんな感じなの』と訊かれて説明するのは有りなのか。
「……こっちじゃ、有りか」
同人の資料だと読んだ中国の艶本の中には、確か召使に先に男の味見をさせ、女主人が後からいたすと言うものがあった。
ならば、有りだろう。
エロ話になるから、夜にしましょう、と溜息交じりに呟くに、大喬は首を傾げつつも満足そうに頷いた。
大喬に送られて、孫堅の執務室に辿り着く。
もうこれで何日目になるだろうか。
甘寧が呉を案内する日以外、という約束だったが、甘寧は忙しいのか、文官の装束を返しに来てくれて以来姿を見せない。宴にすら顔を出さないので、また賊の討伐にでも向かっているのかもしれない。その辺は呉の内政にあたる部分の話だから、は詳しく聞くのを避けていた。
中に声を掛けると応えがあった。
拱手の礼をして顔を上げると、久方ぶりに孫堅が執務用の卓に居り、何やら布のようなものを広げて見ていた。たぶん、手紙か伝令文だろう。
の顔を見て、また手紙に目を戻す。
孫堅は、手紙を懐に仕舞いこみ、を促して次の間に移った。
「そろそろだな」
何の話だ。
どうでもいいが、最近『お前は分かっているだろう』ばりに突然話を振られるので、応対に困る。諸葛亮でもあるまいし、一を聞いて十を知るほどの解析力は持ち合わせていない。
が溜息を吐くと、孫堅はじっとの顔を覗き込んだ。
「……ここに、残る気はないか」
ここに?
鸚鵡返しで尋ねはしたが、は孫堅の言葉の意味を測りかねていた。
察するに、そろそろ蜀の使者は国に帰る時期だろう、だがは呉に残れないのかと言っている、ということだろうか。
「待遇ならば、お前の望むままにしてやる。何か欲しいものがあるならばくれてやろう」
は、ぽかんと孫堅を見た。
残れ、ではないのか。呉に仕えろと言っている。
どうしてまた、そんな。
何を焦っているのだろう。焦った振りをしているのか?
孫堅ならばやりかねない気がした。
「私、欲しいものなんてないですし……」
気をつけなければ呑まれる。
呑まれれば、劉備達の身にも危険が及ぶかもしれない。
それは避けなければ。
が肩に力を篭めると、孫堅は意外な物を見るような眼差しでを見た後、苦笑いして箸を置いた。
「……そう、警戒するな。俺らしくない、とでも思ったのか」
人の心を見抜く能力なら、孫堅の方が何倍も上だ。
「俺らしい方が、良いか?」
笑いながら立ち上がる孫堅に、嫌な予感を感じても立ち上がる。
だが、結局それも椅子ごとではないというだけで、結果は変わらなかった。孫堅に抱きすくめられ、隣室に運ばれる。
長椅子の上に寝かされ、蓋をされるように覆われた。
「……俺らしかろう?」
くつくつと笑う様は、確かにこの上もなく孫堅らしいと思った。
だからと言って体勢に対する恐怖が消えたわけではない。おろおろと左右を見回し、何とかして逃げられないかと考えを巡らす。
孫堅の手がの顔を包み込み、鼻が触れるか触れないかのところまで接近してくる。
どアップ過ぎて、思わず目を閉じた。
「。俺の元に来い。可愛がってやる」
エロいっ!
耳元にスピーカーを押し当てられているような、体に響き渡る声の振動に、は悶絶しかけた。
孫堅の声は妙に色っぽいとは思っていたが、こんな間近で、意図こそしていないだろうが、だからこそ尚更だと思うエロ台詞を吐かれては、思わず体が反応してしまうというものだ。
ついさっきまで孫策に煽られギブアップ寸前だった体が、孫堅というこの上なく極上の男に反応している。
今、足の間に手を突っ込まれたら、濡れているのが分かってしまうだろう。
や、ヤバイッス、親子どんぶりはマズイッス。
中国では昔、嫁と舅の不義密通はごく自然のことで、笑い話にもなっているくらいだ。
――父さん、あんまり酷いじゃないか、何を言う倅よ、わしも我慢をしたのだから、お前に我慢出来ないはずがない。
いいから! そんな無駄薀蓄、いいから!
何とかして逃げ出そうともがくと、どうしても孫堅の体に触れねばならない。
胸乳を守ろうとすれば尻を突き出す形になるし、押し退けようと手を伸ばせば体が無防備になる。
ままならねぇ、と状況を茶化すの頭だけは、無駄にいい仕事を続けていた。
「あまり抵抗すると、却ってそそるぞ」
孫堅の一言に、の抵抗がぴたりと止む。
その隙を突いてさっと足の間に入り込み、閉じられないようにしてしまう孫堅に、は立場を忘れて嘘つきと詰った。
「何を言う、お前があまり期待してくるから、俺も期待に応えたまでのこと」
こういう風にされると思っただろう?
言いながらも孫堅の手は、興味深げにの体を這い回る。
いちいち確認しているかのような手つきに、の体がぞくぞくと震えた。触られているのが肩や背中だというのに、心地よい熱に溶けるかのような感覚に陥る。
根っからのスケコマシだ。天然ものだ。養殖とは訳が違う。
茶化す頭に罰を加えるように、背中に円を描くように滑っていた手が起伏した尻の肉へとするりと伸びた。
「……っ……」
唇を噛んで嬌声を殺すものの、背筋は快楽に打たれてびくっと跳ねた。
が横向きに寝転んでいるもので、孫堅にはその表情から四肢の動きまで、すべて視界に納めることが出来る。
指は、の尻肉にずぶずぶと埋まっていく。ずいぶん柔らかな肉だが、孫堅の手を弾き返そうとする弾力もちゃんとある。戦いや馬などで鍛えられていない、肉付きのいい尻だ。
これに己がものを埋め込んだら、さぞ悦く締め付けてくれるだろう。
自分で揶揄しながら、知らずに呼吸が熱く早くなっていく。
「いっ……た、や……」
力を篭めすぎたのか、尻肉を掴む孫堅の手にの手が重ねられる。
押し留めようというのか、それとも。
涙で潤んだ目が、孫堅に請うように向けられる。
止めてくれと言っているのか、それとも。
普段であれば冷静に判断も下せようが、手の中に在るのは少なからず愛しいと感じている女なのだ。
冷静になどなれるわけがない。
戯れにここに連れ込んだはずが、何時の間にか本気になりかけている。
刹那の間に、警告と誘惑が光のように瞬き孫堅を惑わせた。
ふ、と。
孫堅の口元が緩み、から勢い良く身を離した。
「いかんいかん、ついその気になるところだった」
さすがは臥龍の珠、惑わされてしまった。
からからと笑いながら長椅子の縁に腰掛け直す孫堅に、は顔を真っ赤にしてぶるぶると震えている。
孫堅がを覗き込むと、の唇がぶるっと震え、くわっと勢い良く開いた。
「何がついその気ですか、バカ―――――――――ッ!」
乱れて開きかけた襟を手繰り寄せ、は涙目で孫堅を睨む。
孫堅は、何か感動したような面持ちでを見つめた。
「……おお」
ぽつりと漏らされた感嘆めいた声に、がはっと我に返って青ざめた。
「可愛ゆらしいな、」
ぶちーん。
孫堅の言葉に、一瞬取り戻した理性が弾け飛んだ。
「何言ってんですかこのスケコマシ―――――――――ッ!!!!!」
怒鳴りつけ、罵るが、孫堅はにこにこと笑って『可愛い』を繰り返してはの怒りにせっせと油を注ぐ。
孫堅の執務室は、久方ぶりに熱い熱気に包まれた。
ただし、熱源は一人だったが。
大喬が、を迎えに来たという名目で孫堅に目通りしようと力を入れて訪れると、執務室には誰も居なかった。隣の部屋から人の気配と怒鳴り声が聞こえ、けれど二人でいるとは思えないほど、ずいぶん大勢の気配を感じた。
まだ食事をしているという感じでもないけれど、と移動すると、部屋の片隅を野次馬然として覗き込んでいる集団が在る。
孫堅の家人だ。
「……あのー、どうなさったんですか?」
大喬が尋ねるも、覗きに夢中になっている家人達は誰一人として振り返ろうとしない。
「あのー」
声をやや大きくして声がけると、一人が慌てたように舌打ちして振り返った。
「うるさいわね、気付かれたらど……」
大喬の姿を見るや、ぴたりと固まる。
そんな家人の様子には無頓着に、やっと気付いてもらえた安堵感から大喬はにっこりと笑った。
「だ、大喬様」
途端に、あれだけ反応のなかった家人達が蜘蛛の子を散らすように走り去っていく。
困惑した大喬が中を覗き込むと、長椅子に腰掛けた孫堅が、長椅子の上できっちり正座をしたに叱り付けられているところだった。
あまりの光景に大喬が固まっていると、大喬に気付いた孫堅は、に気付かれぬよう目配せをしてきた。
近頃見ることの少ない孫堅の上機嫌の笑みに、大喬はどうしていいか分からず立ち尽くすのみ
だった。