劉備と孫堅は、何度目になるか知れぬ会合をしていた。
 世間話のような他愛もない話から魏への対抗策まで、幅広い話が交わされている。
 孫堅は、劉備を信頼していると言うよりは興味を引かれていると言った風で、正直なところ、蜀の誰もがこの男がいったい何をどう考えているのか、まったく読み取れずにいた。
 いつも通り挨拶から始まり、椅子に掛けるや否や孫堅が口を開いた。
「劉備、を呉に残してはくれぬか」
 いきなりの口上に、劉備は元より居合わせた趙雲や姜維も度肝を抜かれた。
 さすがに劉備はいち早く我に返り、咳払いを一つして孫堅を見遣る。
「……その議につきましては、先日もお断り申し上げたはずですぞ」
 孫堅も、からからと笑ってそれに応じる。
「そうだったな。……少し言葉が足らなんだか。を蜀の大使として我が呉に駐留させてもらいたい」
 劉備は、再び言葉を失った。
 呉に仕えさせたい、ではなく、あくまで蜀の文官として、呉と蜀を取り持つ役目を担わせたいと言う。
「……殿は、文官としての任に就いてより日が浅うございます。そのような大役、とても務まりますまい」
 姜維が助け舟を出すも、孫堅は笑ったままだ。
「臥龍の珠だ、何とでもなろう。それに、着いたばかりのそなたは知らぬやもしれんが、は我が呉の将兵には良く慕われている。蜀の如何なる文官を以ってしても、の歌より良き懐柔は為されぬであろうよ」
 それは、確かにそうなのだ。
 宴に出ている将兵のほとんどがの歌を良く好み、遠慮もなくに歌を強請る者達を、指を咥えて嫉んでいる。
 何とかしてお近付きに、そしてに歌わせたいと、もはや職務そっちのけで馬良に接触する者も出てきたくらいなのだ。
 そうした熱狂を、趙雲は危ういと見ている。
 流行りものでもあるまいし、は生身の女なのだ。持て囃されている内はまだしも、用済みとなった日にはどうなることか。飽きられずに、更なる熱狂を以って望まれた日にはどうなるのか。
 いずれにせよ、にはこの地は危う過ぎる。
「……一度、諸葛亮に相談してみましょう」
「なるべく早く頼むぞ。我らの船を使えば、書簡などそれほど手間もなく届けられよう。何、それまでは国を挙げて歓待させる。退屈はさせまい」
 言外に帰郷を匂わせた劉備の言葉を絶妙に遮って、孫堅は言葉を重ね歪めた。
――どうしても帰りたいと言うのなら、を置いていけ。
 脅迫と取れなくもない言葉に、姜維が唇を噛み、趙雲がそれをそっと諌める。
「いや、昨日に説教されてなぁ」
 唐突かつ意外な言葉に、劉備達は元より、孫堅に付き添ってきた文官達も呆気に取られて顎を落とした。
「あれがいると、俺も執務をせねばならんという気になる。置いていってくれれば、配下の者達も楽になろうな。無論、その礼はしようぞ」
 が居れば、大使以外の仕事も良くこなしてくれようからな。
 そう言って嬉しそうに笑う孫堅に、劉備は絶句して何も言えなかった。

 趙雲が廊下を早足で歩いている。
 行き先は、無論の室である。
 居るか居ないかはともかく、孫堅との会食前に是が非でも確認しておかなければならない。
 説教とはなんなのだ。
 そう言えば、昨夜のはむっつりと黙り込んでいたとは思ったが、が不機嫌になるのは良くあることで、また誰かともめたとかの気に障るようなことを言われたとか、その程度のことと侮っていた。
 もめた相手が孫堅ならば話は別だ。
 結果的に気に入られてしまったというのは何だが、無礼と詰られ命を落とすことにでもなったら如何するのだ。
 劉備には、事の真偽の確認を命じられてきたが、趙雲の頭の中はを叱りつけたいという衝動でいっぱいになっていた。
 趙雲の目の色からそれを悟ったか、姜維が代理に名乗りを上げたが、一蹴して断った。
 姜維は、万事に甘過ぎる。価値観的に諸葛亮の次にが来て、後はどんぐりの背比べといった所だろう。
 の為にならぬ。
 もう少しでいい、用心という心構えがにあれば、趙雲とてを甘やかすなりしてやりたい。
 一人で走って身動きできない深みにはまり、助けも呼ばないというお決まりの展開には、趙雲もいい加減我慢の限界に来ていた。
 犯すより尚手酷い罰というと、何になる。
 ろくでもないことを至極真面目に考えていると、の室の前に着いた。

 声も掛けずに扉を開くと、中に控えていた春花が驚いて立ち上がった。
 趙雲だと知ると、慌てて駆け寄ってくる。
「さすがは趙雲様、よくお分かりで!」
 何のことかと訝しく思う間もなく、春花は奥へと駆け込んでいった。
さま、いい加減になさいませ! 趙雲様がお出で下さいましたよ! いったい何時まで寝ていれば気がお済みになるのです!」
 奥から、くぐもった声で『いーやー!』と怒鳴る声がする。
 は、どうも朝から牀に潜り込んだまま出てこないようだ。
 この暑いのに、よくもまぁ。
 趙雲は、すっかり毒気を抜かれてしまった。
 春花が申し訳なさそうに戻ってくる。
「もう、朝からずっとこの調子なんですよ。お体の具合が悪いわけでもないようですし、理由を伺っても仰って下さらないし」
 朝、湯浴みなさった時はこんなじゃなかったんですけど。
 春花の何気ない言葉に、趙雲ははたと気がつき、春花に退室を命じた。
「後は私に任せて、すまぬが、馬良殿にが頭病みで寝込んだ故、孫堅様の元に出向くのは少し遅れると伝えてもらえるか」
 春花は元気良く請け負って、趙雲に頭を下げると室を出て行った。
 さて、と趙雲はの篭城先に向かう。
 牀の上の掛け布が、こんもりと盛り上がっている。
 端に腰掛け、頭があると思しき部分に話しかける。

 応えはない。
 構わず話を続けた。
「孫堅殿が、お前に叱られたと殿に仰っておられたぞ」
 わずかに掛け布が揺れた。
 続ける。
「お前がいると執務をやる気が出てくる、とご機嫌であられた」
「あのクソ親父っ!」
 突然掛け布がまくれ上がり、汗みずくになったが怒気も露に顔を出した。
 趙雲は、聞くに堪えないの罵声を、どうどうと諌めて黙らせた。
「何をされた」
 ずばりと切り込んでくる趙雲の質問に、はうっと口篭って視線を落とした。
 ひょい、とを持ち上げ、いとも容易く剥きにかかる趙雲に、は一瞬抵抗することも忘れた。
 夜着は、ほぼ一枚きりといって過言ではない。
 趙雲にとって一瞬あればを裸に剥くなど十分事足りるのだ。
 湯浴みの後にまた羽織ったのだろう、春花に見られぬよう慌てて身に纏ったものか、夜着の合わせは乱雑で、下着もつけてはいなかった。
 牀の上で転がるの体を点検して、尻の辺りにあざがあるのを見つけた。
「これか」
 慌てて隠そうともがくの腿の上に膝を乗せ、首根っこに手を置くと、は動けなくなった。
「……何をされた?」
 重ねて問われ、が渋々と答える。
「……お尻、掴まれた」
 なるほど、よくよく見ると手の形に見えなくもない。
「呉に、残る気はないかって言われて……何か、裏があるのかもって考えたら、見抜かれちゃって。俺らしくないから、警戒するのか、じゃあ俺らしくしてやろうって、長椅子に連れてかれて。……何て言うか、ヘンなことされるって思ったら、それも見抜かれちゃって。そいで、お尻握られた」
 悔しかったのか、唇を噛んで涙を堪えている。
「……それで、説教、か……?」
 趙雲は頭痛を覚えた。
 逃げ出すとか悲鳴を上げるとか打ちひしがれるとか、幾らでもやりようはあるだろう。何故、よりにもよって説教なのだ。
 察するに、孫堅は変り種好きなのだろう。美しいものも嫌いではないようだが、興味を引かれるのはあくまで『変わったもの』なのだ。ならば、あれほど執拗にを欲するのも分からないではない。ほどの変り種は、この中原広しと言えどそうそうは居るまいと思われるからだ。いや、居ないだろう。
「子龍だって、やられてみたら分かるよ! 長椅子にひっくり返されて、肩だの背中だのさわさわ触られて、挙句の果てにお尻握られるんだよっ! 触られるんじゃないんだよっ! 耐えられないっ!」
 犯された方がマシだ―――っ!
 牀をばしばし叩いて八つ当たりをしている。触られるのは良くても、握られるのは嫌だという価値観は正直分からないが、孫堅にを触られたというのは腹立たしい。
 同時に、日頃から隙だらけでほいほいとうろつくにも、改めて腹が立った。
 趙雲は、眉を顰めたままを見つめた。
「犯された方が、マシなんだな?」
 ほう、と言いながらにすり寄って来る趙雲に、はぎょっとして身を退いた。
「え、い、いや今のは言葉のアヤで…だ、だってお尻にあざだよ? こんなんなってるんだよ?」
 怒るでしょう、怒りたくなるよね、と同意を求めると、趙雲もこっくりと頷いた。
「うむ、怒りたいな。無性に怒りたくなったぞ」
 怒りの矛先が自分に向いていると知り、なおかつ自分が裸だということに今更気がついた。
「し、子龍、昼、まだ昼前だし孫堅様んとこ行かなくちゃだしっ……!」
「頭病みだ」
 聞き慣れない言葉に、は表情に疑問を浮かべる。
「頭が痛くて、は起き上がれない。私はの頭病みが良くなって事情を聞くまで、看病に付き添うことにした。これで良かろう」
 良かぁねぇだろう。
 が趙雲の手から逃れようともがく。身を捩った拍子に尻肉をがっと掴まれた。
「子龍っ」
「犯される方が、マシだろう?」
 口元に浮かんだ笑みに、趙雲が楽しんでいると悟ったは、ありとあらゆる罵声を放った。
 趙雲の耳はさらりと聞き流す。
「本当は、犯される方が好き、なのだろう?」
 趙雲の口が、サービスといわんばかりにの怒気を煽る。
「子龍、怒るよ!」
 途端に趙雲が笑い崩れた。肩をぶるぶると震わせて、本気で笑っている。
「……からかったんでしょ」
 が不貞腐れると、趙雲は涙目になった目を擦りながら顔を上げた。
「なるほどな、孫堅殿の気持ちも少しは分かった。お前は、本当に面白い」
 だが、と突然趙雲の声音が変わる。
「忘れるな、お前は私のものだ。お前は、私と共に蜀に帰る。離さない」
 それは、とが驚き口篭るのを、趙雲が舌で塞ぐ。
 の体を倒し、口を封じたまま、指での悦を煽りにかかった。
 逃れられないところまでが昂ぶったのを確認し、ようやく趙雲は唇を外す。
「昼にするのも、私は嫌いではない」
 怠惰なことが嫌いだと思っていた趙雲の口から、思いがけない言葉が漏れた。
の心地良さ気な顔が良く見える」
 ろくでもない、とが吠えると、再び口が塞がれる。
「挿れるぞ」
 短い一言に、は、同意の上ではない、仕方なくなのだと渋面を作って頷く。
 一生懸命な芝居は、顔の紅潮と潤んだ瞳が台無しにしていた。
 趙雲はわずかに笑みを含み、の中にゆっくりと押し入った。

殿、いるかい」
 凌統がの室を訪れたのは、昼を回って少しのことだった。
 室に居るはずと命じられてきたが、本人は元より蜀から来たという小生意気な女の子も出てこようとはしない。
 首を傾げて、様子だけでもと室の扉を開けると、奥からが慌てて飛び出してきた。
「……あんた、頭病みだって聞いてたけど」
 白い目を向けられたが、口篭って項垂れた。
 同盟国の君主直々の誘いを、仮病ですっぽかすとはいい根性してる。
 凌統は、改めて与えられた命令を思い返し、うんざりとした。
「あのさ、……」
 口を開いたまま絶句する凌統に、も釣られて後ろを振り返ると、趙雲が奥から出て来たところだった。ご丁寧にも、口に髪紐を咥え、髪を結い上げながらの登場である。
 凌統は元より、も愕然として趙雲を見詰める。
「……ご無礼を、私も急ぎ役目に戻らねばならぬ故」
 そう言って髪を結わきながらにっこり笑うと、凌統を避けて出て行ってしまう。
 自然に趙雲の後姿を目で追っていた二人は、扉が閉まるのを確認してから、理由もなく互いに互いをじっと伺った。
「……っ、あんた、この昼日中から何やってんだよ!」
 だいぶ経ってからではあったが、我に返った凌統の口からを責め立てる罵声が飛ぶ。
 お怒り、ごもっとも。
 は立つ瀬もなく、凌統の冷たい視線に耐え、ひたすら頭を下げた。

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