凌統の用件は、意外なものだった。
 の護衛に付くと言うのだ。
 仮にも将軍の地位にある者が、何でわざわざ他国の下っ端文官の護衛に付かねばならないのか、は首を傾げた。
 凌統は、鼻で軽く笑う。
「あんた、それ本気で言ってるんじゃないだろうね」
 同盟国の跡継ぎ相手に求婚されている。この時点で既に身分の高低は無意味だ。
 かてて加えて、天下に名立たる臥龍の珠と称されるとあっては、今の身分が低かろうと何の意味もない。
「それにさ、……」
 言いかけて口篭る凌統に、は言葉の続きを促すように視線を向ける。
 凌統は軽く被りを振り、に向き直った。
「ともかく、大殿の命令だから。俺だって仕方なしで付くんだ、あんたも諦めなよ」
 はぁ、と分かったような分からないような風で、は首を傾げた。
「……でも、断れなかったんですか?」
 の記憶からすると、凌統はを相当忌み嫌っているはずだ。とて、そんな凌統が護衛に付くぐらいなら、それこそ一兵士についていてもらった方が有難い。
「大殿の命だっつったろ」
 苛々とした凌統の様子に、は首を竦めた。
 せめて春花が居てくれたらと思うのだが、気を利かせたのか何なのか、一向に戻ってくる気配がなかった。
「え……と、あの、じゃあ、私は尚香様のとこに行く時間ですんで……」
 恐る恐る戸口に向かうと、凌統が後から付いてくる。
 え、と振り返るに、凌統は呆れたように目を向けた。
「……あのさ、護衛の意味、分かってるんだろうね? 別に留守番しに来たわけじゃないっつの」
 それはそうだ。
 肩を竦め、謝ると、凌統は鷹揚に頷き返し、の背を押した。
「ホラ、姫様んとこ行くんだろ?」
 邪険ともとれる扱いに、はあうぅ、と唸り、物凄く居心地悪い顔をしながらとぼとぼと歩き出した。
 嫌われているな、と凌統にもはっきり分かる態度だった。
 そうでないにせよ、苦手だと思われているのは確かだ。
 理由に心当たりは山程あるし、嫌われても仕方ないと思っている。
 だからなるべく避けるようにしてきたのに、孫堅に呼び出しを食らって命じられたのが、よりにもよって避けている相手の護衛だった。
 以前、甘寧がを連れ出したのを黙認していた罰だと言われた。
 今現在に至っては、孫堅自らがに呉の領地を案内するように命じているはずである。矛盾だ、と言い返した凌統に、孫堅はあっさりと『ただの大義名分』と認め、有無を言わさず了承させた。
 何故自分なのか、遂に問えず仕舞いだった。
 に、正確にはの歌や見知らぬ知識に惹かれている連中は、それこそごまんと居るはずだ。
 それなのに何故、自分なのか。よりにもよってと言い換えてもいい。
 凌統は、少し前を歩くが、気にした風にちらちらと振り返るのを見ながら、こっそりと溜息を吐いた。

 尚香の部屋に入ると、既に尚香も二喬も椅子に掛けてを待っているところだった。
 の背後に立つ凌統を認めた瞬間、一斉にブーイングが飛んだ。
 あまりのタイミングの見事さに、は呆気に取られてぽかんと口を開けた。凌統は渋い顔で耳を塞いでいる。
「文句があるなら大殿に言って下さいよ、俺だって好きで付いて回ってるんじゃないんですからね!」
 吐き捨てるように吠える凌統に、今度は冷たい視線が突き刺さる。
 酷い扱いに、ですら凌統に同情したくなってきた。
「なら、外で待ってればいいじゃない」
 女だけの楽しい時間に、凌統という招かれざる客が混じることに如何しても納得いかないらしい。尚香が冷たく言うと、小喬は大きく頷き、大喬も遠慮がちではあったが、二人に同意しているようだった。
「ですから、大殿のご命令なんですよ! 扉一枚隔ててもならぬって言われちゃ、俺だって如何にもしようがないんですって!」
 どうも、ずいぶん念入りな護衛の命だ。
 何かあったのだろうかとは逆に不安になってきた。
 やはり、急に護衛に付けというのはおかしな話だ。
 表情からすぐに察して、凌統も舌打ちした。
「……いいですか、お三方。劉備殿が蜀に帰る帰らないで、今ちょっとした揉め事が起こってるのはご存知ですよね。この、臥龍の珠様もいい目標になってるって、ご自覚いただけませんかね」
 やはりそう言うことかと、は唇を噛んだ。
 劉備には趙雲が付いている。劉備自身も武芸の嗜みは一応心得ているといっていい。
 では、はどうかと言えば、これはまったく何ともならない。お話にならないといった有様である。
 悪目立ちするだけ、に目標を定める手合いは多いに違いない。
 は、己の非力さを恥じた。
「なまじ、そこらの兵を付けるくらいじゃ心許ないってことでしょうよ。ご理解いただけましたかね」
「じゃあ、私が付けばいいじゃない」
 凌統が、これで納得するだろうと締めくくった言葉を、尚香はあっさりと引っくり返した。
「では、私もお手伝いいたします」
「あたしもあたしも!」
 二喬までもが名乗りを上げる。
「変わりばんこに護衛すればいいわよね。じゃあ、誰からやることにする?」
 時間帯で分けようとか、一日交代のが面倒がないとか、勝手なことを話し始める。
 凌統が怒り心頭に達しかけているのを、はあわあわとうろたえて見ていた。
 好き好んで護衛に当たっているのではないのだと聞いたばかりで、この展開はまずかろうということぐらいは分かる。命令だから渋々従っただけのものを、こうも当てこすられては面白くないに違いない。
 そも、原因はの非力さにあるから、は妙な責任を感じてしまった。
 凌統が怒鳴り出す前にとは慌てて三人の元に駆け寄る。不意を突かれた凌統は、目を丸くしての背を見つめた。
「い、いいです、凌統殿にお願いしますし!」
 途端、三人はぴたりと口を閉ざし、を不審気に見上げる。
「……何、私たちの護衛じゃ不満だっていうの
 不満というわけじゃない。
 どうしてそんな方に話が行ってしまうのか、とは慌てた。
「ちっ、違いますって……だ、だってお三方に護衛なんかやってもらったら、私」
「何。何だって言うの」
 尚香などは、心の底から不機嫌だという顔をしてに迫る。
 美人なだけに、怒ると本気で怖い。二喬も、何か思うところあってかそれぞれ無言のまま、眉を顰めてを見上げている。
「い、いや、ですから」
「嫌ですから? 私たちの護衛が嫌だって言うの、?」
 勝手な解釈をして、加速して不機嫌になっていく尚香に、は脂汗をだらだらとかいた。
 ガマの油か、私は。
 思わず胸の内で突っ込んでみるが、面白くない上に心に余裕ができることもなかった。
「だ、だって護衛って、夜とかもでしょう」
「いいじゃない、一緒の牀で寝ればそれで。夜は危ないから起きてて、朝方になったらは寝ればいいのよ。父様のとこに行くまで、どうせやることないんでしょ」
 活路、見出したり!
 の目がきらりと光った。
「いけません!」
 突然水を得た魚が、滝登りするかのような勢いでは吠えた。
 思いがけないの勢いに押され、尚香も二喬も怯んで黙る。間髪入れずにの怒涛の弁論が始まった。
「いいですか、新しい皮膚細胞は夜作られるんです! それも、寝ていないと効果がないのですよ! つまり、美しい肌を保つには、夜寝ることが最! 重! 要! なんです、分かりますかっ!」
 ひふさいぼー、と小喬が分かってない風に呟く。はびゃっと腕を伸ばし、小喬の頬をうにうにと撫で上げた。
「皮膚細胞です、皮膚細胞! このつるつるぴちぴちのお肌のことですよ! 古い肌は垢になって剥がれていくのが普通ですが、その古い肌が剥がれるには、夜寝てないと駄目なんです! じゃないと、むらむらがびがびの脂っぽーいぶつぶつ肌になっちゃうんですよ!」
 それでいいと思ってんのか、イヤ、良くない!
 は一人で突っ込み、一人で答えている。誰の関与も許さぬ勢いに、三人は互いに困惑して目を合わせた。
「全国三人の旦那様に聞きました、つるつるぴちぴちの奥様の肌がぬるぬる脂症のニキビ肌に! さぁその答えは如何に!」
 はい、あるあるあるあるあるあるあるある!
 が何を言っているのか、誰にも理解できない。
 ところが、も三人を置いていっていることに、まったく何の躊躇いもない。むしろ全速力で置き去りにかかっている風だ。
 突然、の指が小喬をぴしりと指差した。
「はい、周瑜殿が小喬殿のおでこにできた吹き出物の白い粒々を見ています。どんな顔っ!」
 小喬は慌てふためき、ありもしないニキビを隠すように両手で額を覆った。
「はい、伯符が大喬殿の頬がざらざらしているのに気が付いてじっと見てます、どんな顔っ!」
 大喬が、きゃっと驚き頬を押さえ、その感触を確認するように撫で回した。
「はい、劉備様が」
「分かった、分かったわよっ!」
 尚香が悲鳴を上げて、ようやくの口が閉じた。
 ぜいはぁ言っているのは、むしろの口上を聞かされた三人の方だった。
「護衛は、凌統に任せるわよ……それで、いいんでしょ!」
 膨れ面をして、尚香は投げ槍に言い放つ。が、勝利を得たは、腕組みして尚も悩んでいる。
「うーん、て言うか……お三方が私の為に傷作る破目になったら、私ゃ三人の旦那様たちに合わせる顔ないですからね……どんだけ怒られるか、知れたもんじゃないですよ」
 それこそ、護衛してもらっても意味がない。守ってもらって責め咎受けるなら、初めから守ってもらわない方がハラハラしないでいい分気が楽だ。
「えー、凌統ならいいって言うの?」
「え、凌統殿、旦那様居るんですか」
 無論、尚香が問いたかったのは『凌統が怪我をするのはいいと言うのか』ということだ。
 すっ呆けたの返答に一瞬室内は沈黙を抱え、その沈黙を引き裂くように、どっと笑い声が響き渡った。
 腹を抱え、あまつさえ呼吸もできなくなって悲鳴を上げる三人に、は未だ訳が分からず目を瞬かせている。
「……あ、んた、なぁ……っ……」
 背後から、水底から浮かび上がってくるかのような低く重い声が響き渡る。
 が恐る恐る振り返ると、度を過ぎた怒りで顔を青褪めさせた凌統が、震える握り拳を作って立っていた。
 やべぇ。よくわかんないけど。
 護衛してくれている人間に危機を覚える矛盾に、はこの場合は誰に助けを求めるべきか、本気で考えこんでいた。
 三人は、未だ笑っている。

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