今日もろくに話が進まなかった。
 蜀に帰るにせよ呉に居残るにせよ、三人の内の誰かとは別れなくてはならなくなる。
 帰る日取りの目安も決まっていないとは言え、出来る限り限のいいところまで話しておきたいのだが、間に合うのだろうか。
 考え事をしながらほてほてと歩くの後ろを、これまたちんたらと歩く凌統の姿がある。
 の自室の前まで戻ってきて、扉を開こうとしたは凌統を振り返った。
「……何で黙ってたんでスか?」
 いきなり話を振られて、凌統の片眉が跳ね上がる。
「いや、護衛の、本当の理由。…私が怖がるといけないからでスか?」
 凌統がむっと押し黙り、は凌統の言葉を待ってじっとしている。
 根負けしたのは凌統だった。
「……あぁ、意味もなくびくびくされたんじゃ、却って護衛がやりにくいからね。だから黙ってた。これで納得した?」
 投げ槍な言い方だったが、は怒りもせず神妙に頷いた。
 凌統としては、やり難い限りだ。
 もっとけんか腰で、適当にやりあっていた方が気が紛れる。真剣に向き合いたくなかった。
 また、傷つけるようなことを言ってしまったらと考えると、凌統は背筋に寒いものを感じた。
 太史慈の言葉が耳をついて離れない。
――何故、あのようなことを。
 太史慈の声は深みのある低めの声だ。低過ぎるということもなく、濁りのない良く通るいい声だと思う。人柄を示すような声、だからこそ太史慈の言葉は淡々と凌統を責め、重く圧し掛かる。
 何故、か。何故だろう。
 自分が天邪鬼だからではないか。
 囃され祭り上げられているに、反感の感情を抱いてしまう。どうにも気に食わない。
 が浮かれているわけでもない、困惑しているのも何となく察している、けれど、どうしても何かが気に入らないのだ。
 喉に小骨が引っ掛かったのが取れないようなもどかしさという奴だろうか。苛々して、それをにぶつけてしまう。
 孫堅の命でさえなければと、苦々しい思いがこみ上げてくる。
 俺がこの女の護衛なんて、ホントに何考えてんだか。この国の中で一番そぐわないったら、絶対、俺だっつの。
 室に入るの後を追いながら、凌統は口に出さず文句を垂れ流していた。
 奥に入っていったが、何故かおろおろしながら出てきた。
「……何」
 だんまりを決め込むのも罰が悪く、凌統は素っ気無く尋ねた。
 はしばらく部屋のあちこちを見て回ってから、凌統の側に戻ってきた。
「春花が、居ないです」
「春花?」
 こくりと頷くと、はまた室の奥に消え、何かがたがたと物音を立てていた。
 今度は小走りに駆け戻ってくると、やっぱりいないとやや取り乱したように凌統を見上げた。
「……どっか、何かの用で出てるんじゃないの」
「でも、この時間は私の準備手伝ってくれることになってるし……昼に出て行ってから戻った様子がないから」
 時折、の為にと言って何かを取りに出向くことはあったが、の着替えや支度を手伝う時間に春花が居ないのは初めてのことだった。
 戻っていたなら、牀の敷布や室の片付けが為されているのが常だが、すべてが適当にいじくったままに放置されていた。
 置手紙の一つでもないかと探したのだが、良く考えてみれば春花が字が書けるかどうかも甚だ怪しい。
 ともかく、春花は戻っていないのだ。
「……何か、どっかに迷い込んで戻って来れないのかもしれない……ここ、広いし……」
 ふらふらと外に行こうとするのを、凌統は慌てて引き留めた。
 は、春花がただ迷子になって泣いているのではないかと心配しているが、凌統が考えたのは更に具合の悪い事態だった。
 状況が状況だ。が狙われるなら、当然侍女の春花が狙われてもおかしくない。二人の仲の良さは、それこそ馬鹿を晒すが如くで、港に居た者やこの屋敷近辺に居る者なら誰でも知っている。
 職務に携わらない時はいつも一緒で、廊下の端に腰掛けておしゃべりをしたり、強い日差しを避けて日陰で髪を梳きあっているのを見かけられたりしたからだ。
 を避けていた凌統ですら知っていることだから、を付け狙う者なら真っ先に目をつけるに違いない。
 春花は呉の面々(特に小喬)が好きではないようで、無用心にうろついたりするようなことはない。であれば尚更、迷子になったと考えるよりは攫われたと考えるのが妥当ではないか。
「あんた、頭病みとか大嘘吐いて、大殿の機嫌ただでさえ損ねてるの、忘れてんじゃないだろうね。あんたはさっさと準備する。で、俺の手下が迎えに来たら、一緒に広間に行く。それまでは外に出んなよ。春花って子は、俺が探しに行くから」
 は思いっきり嫌な顔をした。
 自分で探しに行きたいのだろうが、これでまで攫われたら元も子もないのだ。
 凌統はに覚られぬよう、表情を努めて作ってみせた。
「あのさ……あんた、自分まで迷子になること、考えてないだろ」
 は、うっと詰まった。凌統は口の端に皮肉な笑みを浮かべ、馬鹿にするようにに顔を近付けた。
「考えてなかったんだな。どっからそんな余裕が出て来るんだかね。大殿、あんたの頭病みが嘘だって、半ば確信持ってるみたいだったぜ。今夜の宴は、覚悟するんだな」
 青褪めるに背を向け、止めに『勝手に抜け出したら、大殿にあんたが何してたか言うからな』と言い捨て、凌統は扉を閉めた。
 中から罵声と金切り声が響く。
 これなら安心そうだが、早めに迎えを送らないと何かの勢いで抜け出さないとも限らない。
 凌統はその俊足を生かしつつ、頭の中で絶対安心な人選を始めた。

 用意と言っても、春花がいなければ大してすることはない。
 春花が化粧しろ、服を改めろと騒ぐのを防戦して、髪の乱れを直すとか爪の手入れをしてもらうとかで誤魔化して飛び出すのが常だ。今は暑いから、汗を流すのに湯浴みか水浴びをするので、その時は背中を流してもらったりもする。と言って、それらの支度や他の家人に指示を出す春花が居ないので、当然支度はされてない。
 春花が居ないでは、最早何の準備も支度もやりようがないのだ。
 ぼうっとして凌統の差し向けると言っていた手下の人を待っていると、外から声が掛かった。
 聞き覚えのある声に扉を開けると、困惑した顔の太史慈がそこに立っていた。
「え、太史慈殿?」
 何か用かと首を傾げると、迎えに来たのだと言う。
「え、手下……って?」
 の疑問に太史慈は答えられない。
 太史慈とて、廊下を歩いているところを突然凌統に声を掛けられ、を迎えに行ってやってくれ、室にいるから今すぐとだけしか聞かされていない。
 応とも否とも答えぬ間に、とっとと駆け去っていかれて甚だ困惑した。
 凌統は、太史慈が断るわけがないと思ったようだが、もし自分に所用があったら如何する気だったのだろうかと、立腹まではいかないものの不承不承出向いてきたのだ。
 事のついでと太史慈が事情を尋ねると、は春花がいない件を話してくれた。凌統が、今日の昼からの護衛の任に就いたことも初めて知った。
「……同盟国の、下っ端文官ですからね。あんまり大々的に任命って訳にもいかないんじゃないですか」
 よく分かんないけど、とは首を傾げた。
 が危ういとは、太史慈自身も感じている。
 呉の屋敷内を無断でうろついたり、方向もよく分からぬまま人気のない暗い庭を歩いていたり、無用心にも程がある。
 孫策の威光や孫堅の命がなければ、とっくに何か良からぬ目に遭っているだろうし、自業自得と捨て置かれても仕方ない話なのだという自覚がない。
 臥龍の珠、孫策の想い人、劉備の信任厚きこと、確かにそれらはを守ってはいるのだろうが、逆にの命を危うくすることでもあるというのに、そこまで思い浮かばないのかが危機感に怯えている様子はない。
 この危うさこそが、太史慈がを気に掛ける要因の一つかもしれない。
「……ちょっと、ポカして孫堅様との昼食、すっぽかしちゃったんですよね」
 だから早めに行って謝っとかないと、と何の気なしに嘯くに、太史慈は度肝を抜かれた。
 仮にも一国の主との約束をすっぽかしたとは何事だ。
 危ういにも限度があろう。
 太史慈は頭痛を覚えて眉間を押さえた。

 宴が始まってしばらく経つ頃だが、凌統は未だ春花を探し当てられずにいた。
 大々的に探しては、事が大きくなり過ぎる。
 攫われたと言ってもその後のことまでは予想がつかない。
 最も短絡的かつ面倒がない手段としては、春花を殺して遺骸を放置する方法がある。
 は傷つき泣き喚くだろう。あるいは、心を殺してしまうかもしれない。
 あの女は何に付けのめりこみ過ぎる嫌いがある。
 冗談で済む話が済まなくなる可能性が高いのだ。
 まったく面倒な話だと、しかし凌統は足を止めることなく駆け続けた。
 門はすべて回ったが、今日出入りした者はすべて顔馴染みの出入りの者で、しかも搬入はあっても搬出されたものは皆無だという。
 武将文官に至っては、大概が着の身着のままというのが常だから、何か大きな物を運び出したという話があればすぐに分かるだろうが、それもなかった。
 ならば、春花はやはりまだこの城のどこかに居るに違いない。
 幸い、月明りで辺りは明る過ぎるほど明るい。不如意になるようなこともなく、凌統はわずかな気配も見逃さずに居られる自信があった。
 死んでたら分からないかもしれないけどねと、一人ごちるが、我ながら縁起でもないと頭を振った。
 小さな女の子なのだ。何も知らない、ただ元気でこまっしゃくれた、こんな陰惨な戦の犠牲になるべきではない女の子なのだ。
 必死に探すが、手がかりも見当たらない。
 昼に出て行ったとなれば、相当な時間が経っているはずで、攫われたというなら屋敷の中に囚われているのかもしれない。
 用心深い春花が攫われたとすれば、蜀に割り当てられた屋敷内だろう。そこから連れ出すとなれば、人に見られる危険は相当高い。未だそこに囚われているかもしれないし、もし動かすとしたら、大半が宴で出払っている今の時間帯は絶好の機会かもしれない。
 一度戻ろうと、凌統はの室に足を向けた。

 物音を立てずに静かに歩くのは、最早癖のようなものだ。
 だから、相手もそれと気が着かなかったのかもしれない。
 凌統は、視線の先に突然人影を見出し、ぎょっとして物陰に身を潜めた。
 滲み出たように見えたのは、何処かの室から出てきたからだろう。
 そして、その人影はの室の辺りから出てきたように見えた。
 凌統の視線の先で、一瞬だけ月明りに姿を現した人影に、凌統は言葉を失った。
 気配を殺し、足音を更に顰めて廊下を駆けると、の室に飛び込む。
 灯りはなかったが、室内に不審な点はないように見えた。
 凌統は室の奥にかすかに人の気配を感じ、そっと奥へと滑り込む。
 窓から差し込む月の光が、小さな白い足を闇の覆いから浮かび上がらせていた。
 どきりと跳ねる心臓を制し、凌統はゆっくりと足の見える牀に近付く。
 目を固く閉ざした春花の姿があった。
 嫌な汗が吹き出し、それでも確認をしなければと凌統は指を伸ばす。
「……ぅ、ん……、さま……」
 春花は、小さな声で主を呼ぶと、ころりと寝返りをうった。
 緊張が一気に抜け落ちた。
 どっと疲れを感じ、思わず座り込みたい衝動に駆られる。
 凌統は上掛けを手に取ると、春花の体に掛けてやった。
 音を立てないように気を配りつつ、室を抜け出しそっと扉を閉める。
 深い溜息を吐き、ようやく人心地着いてその場にしゃがみ込んだ。
 安心はした。
 けれど、新たな問題を見出してしまった。自分一人で解決するには、どう足掻いても手に余る大問題だ。
 凌統は、膝を折ったまま頬杖をつき、護衛を誰に変わってもらうか、呂蒙に何時相談しに行くかの算段を立て始めた。

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